一人になった空間で僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。
二階の窓から見える景色の中では、わずかに残るピンクの花がゆらゆらと風に吹かれ揺れていた。もうすでにほとんどが葉桜になりかけているが、それでも柔らかい色合いは見ていて心が和むものだ。
しかしいつもならそうして心和ます綺麗な景色も、いまはあまり目に入らない。僕の頭の中は正直言ってそれどころではなかった。
校舎の隅にあるこの部屋に届くほど賑やかな放課後の喧騒が、ほんの少し開いた窓の隙間から入り込んでくる。けれどなぜかいまはそれさえもうるさいと感じない。片肘をつきながら、右手に持ったペンが延々と回され続けてどのくらい経っただろうか。いまだに頭の中がショートしているようだ。
「だって、まさかね」
小さな呟きがため息と共に漏れた。真剣な藤堂の顔が何度も頭の片隅によぎる。
「最期に彼女と別れてどのくらい経ったっけ」
その年数を頭でぼんやり数えてみたが、恋愛偏差値はだいぶ下がっている気がする。目下進まないペンを置き、もやもやを誤魔化すように髪を両手でかき乱すと、僕は再び大きなため息をつく。
「藤堂優哉……どのクラスだ」
鈍った頭で目の前に並んだファイルから青い背表紙のものを抜いた。藤堂が三年であることは青い胸のピンバッチで見て取れた。学年ごとにその色は違う。
記憶を反すうしながらパラパラとページを開く。
「そんなに接点あったかなぁ」
彼が通う二年のあいだで学年の担任にも副担にもなった覚えはない。行事ごともなるべく遠慮させてもらっていた。そう、ここ最近は面倒ごとを避けていたので、それほど頻繁に面識があったとは思えない。
「なんでだろうか」
考えても疑問符が浮かぶばかりだ。
「あ、F組か」
生徒名簿の中から彼の名前を見つけてそれを目で追う。
「見た目通り頭のいい子だ、うん」
担当教科でしか会うことがない生徒たち。せめて特徴を覚えておこうと、ファイルには名前のほかに簡単な情報、コメントを記入している。
彼は常に学年で十位以内に入る優等生だ。特別苦手な教科もないようで器用な性質なのか。
「頭もよくて顔もいいし。実際モテるんだろうけど、複雑な年頃だよなぁ」
自分の投げかけた問いに、困ったように笑った彼の表情が思い起こされる。
決して派手な雰囲気ではないが、すらりとした体躯は華奢な印象もなく健康的。一度も手を加えたことがなさそうなさらりとした黒髪と、綺麗な二重でまっすぐとした淀みのない瞳。
すっと通った鼻筋に乗せられた銀フレームの眼鏡がまた、知的な印象で好感が持てた。物腰も柔らかく、きっと女の子から見たら王子様を思わせる風貌なのだろう。
それに比べて自分は――これと言って特筆すべき点は少ない。ごく普通な三十代。
身長は平均値。低くはないが決してお世辞にも高いとは言えず、顔の質も中の中ぐらい。いささか若く見られるがそこまで童顔というほどでもない。ましてや中性的などという要素もこれっぽっちもない。
まあ家族みなごく普通の一般的な容姿なのだ。トンビが鷹を生むなどという、そんな突然変異は起こらなかったのだろう。ただ、家系なのかあまり太らない体質なのはありがたい。
しかしここまで平凡地味だが、平凡なりに女性と付き合った経験がないわけでもなく、想いを寄せられた経験がないわけでもない。性格の善し悪しは自分ではわからないが、人好きする雰囲気だと言われたことはある。要は話しやすいということか。
「人間顔じゃないとは言うけど」
彼のどこに自分がヒットしたのかが謎なのだ。いつから僕を好きなのかはわからないが、藤堂の在学期間――ここ二年間、僕はなにをしていた? 確かに去年まではいまの三年生を授業で受け持っていたし、藤堂のクラスも担当していた。けれど彼は授業中すごく大人しくて、あまり印象に残っていない。
「ほんとに……覚えてない」
そもそもなんだってこんな歳の離れたオジさん? あの年代からしたら間違いなく、僕の年齢はお兄さんではないだろう。
歳上が好きとか? いや、それにしても十五歳は離れ過ぎている気がする。年齢とかはあんまり関係ないのだろうか。
「これはちゃんと聞かなくちゃ駄目なのか。考えるってそういうこと?」
とにかく彼のことがわからないのに考えようもない話だ。申しわけないが本当にいまは記憶にある程度の認識しかない。
「知るって言っても、どうすりゃいいんだ」
なんだか頭の中が不覚にも藤堂に占拠されている気がする。告白だなんて初々しい気分は久しぶり過ぎて、変に気持ちが浮ついているのか。
しっかりしろ自分――小さく唸りながら、僕は行き場のないこのもやもやを消化しきれずにいた。
「西岡先生」
呆けていると突然背後の戸がガラガラと音を立てて開け放たれた。あまりの唐突さにびくりと肩が跳ね上がる。
「あっちゃん。ノックしないと西やんがびっくりしてる」
「ごめん、忘れてた」
突然賑やかになった室内に肩を落としながら僕は二人を振り返った。その目の前には僕の予想に漏れず、肘で互いを小突き合う凸凹コンビがいた。
「片平、三島。お前たちは相変わらず騒がしいな」
二人は数ヶ月前に一週間ほど代理顧問をした写真部の部員で、それ以来なぜかよくこの場所に出没するようになった。
肩先まで伸びた真っ黒な黒髪に、大きな瞳とこぢんまりとした容姿が小動物を思わせる女子が片平あずみ。
ふわふわの茶色い癖毛で、ひょろりと背の高い細目の男子が三島弥彦だ。幼馴染みらしい二人は大抵二人ワンセットで称される。
ため息交じりの僕の声にへらりと笑った三島に対し、片平は肩をすくめただけだった。
「これ職員室に行ったら先生にって渡された。準備室に引きこもってばっかりいないで、たまには職員室にも行ったら?」
すたすたと僕の目の前まで歩み寄り、片平は腕を差し伸ばしてファイルに挟まった紙の束を僕の胸に押し付けた。
「ああ、そうか。そういえばこれ今日までだったな」
突然押し付けられたファイルを受け取りながら、僕はワンテンポ遅れてその意味に合点がいった。全校一斉抜き打ちテスト、その採点を一部任されていたことをふいに思い出す。新学期、入学早々のこのテストは毎年恒例だが、毎年必ず悲鳴が上がるテストだ。
「西やん? どしたの、珍しくぼんやりしちゃって」
「なに言ってんの弥彦。先生はいっつもでしょ」
片平の横に並び、心配げな表情で首を傾げる三島は、僕の目の前で手をひらひらと動かす。それに対し片平はいささか呆れた面持ちで息をついた。
「ええ? いつも以上だよ」
片平の言葉に三島は眉をひそめしゃがみ込むと、僕の顔を下から覗き込み目線を上げた。
「いや、悪い悪い。ちょっと考え事をしてた」
まるで大型犬がお座りしたような錯覚がして、頭を撫でてやると三島は不思議そうに小さく首を傾げた。
「考え事って、藤堂優哉?」
まるで独り言のようにぽつりと呟いた片平の言葉に、三島の癖毛をかき回していた手が思わず止まる。
「えっ?」
上擦った声を発しながら、僕はいつの間にか横に立っていた片平を振り返る。動かす首が油の切れたブリキのような、ひどく鈍い音がした気がする。
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