鳴り響く予鈴を聞きながら教室の戸を引けば、ふいに室内の視線がこちらへ集まった。早過ぎる担任の姿を想像していたらしい彼らは、俺の姿を見るなり一瞬だけ驚いた顔をしたが、いつものように口々に挨拶をし、また自分たちの会話に戻って行った。
そんな中で一際早く動き出して、こちらへ向かって来た弥彦に俺は片手を上げる。
「優哉、休むんじゃなかったの?」
「ん、ああ」
驚きに目を丸くしている弥彦に曖昧に返事をすると、急に額に手を当てられる。自分の額にも同じように手を置き、一人唸るその様子に思わず笑ってしまう。
「別に風邪じゃない。ちょっと朝が辛かっただけで」
「そっか、だったらいいけど。でも、最近は低血圧とかそんなにひどくなかったんだし、気をつけなよ」
心配そうに覗き込んでくる幼馴染みの肩に軽く手を置き、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「ああ、気をつける」
とはいえ、頭や身体が重苦しくて、目覚めた瞬間どうしようもなく気分が悪かった理由は、いつもの低血圧などではないのは明らかで。いまの自分にはたった一つしか、その原因に心当たりはなかった。
好きの意味がわからなくなった――正直あの一言で一瞬、目の前が真っ暗になった気さえした。多分あれは自分に向けられたものではないのだろうと思う。いや、そう思い込みたいだけなのかもしれないが、ひどく胸が苦しくて堪らなくなった。
まさかあの程度のことで、自分がこんなにもダメージを受けるとは思いもしなかった。いままでこんな思いをしたことは一度もない。
嫌われたくない。
離れたくない。
そう思うほど逃げ出したくなり、珍しく向こうから触れてくれたのに、それさえも怖くなった。そしてそれほどまでにあの人が、自分にとって特別なのだと改めて思い知った。
「大丈夫? やっぱり顔色よくないけど」
立ちすくんでいた俺の目の前で手をひらひらと振りながら、弥彦は眉間にしわを寄せた。
「心配ない」
そう言って肩をすくめると、俺は教室の一番奥にある自分の席へと足を向けた。
「そういえばさ」
「ん?」
前の席に座った弥彦に首を傾げれば、なぜか少し困ったような表情を浮かべる。そして訝しげにその顔を見ていると、突然机の周りをクラスメイトに囲まれた。
「藤堂、創立祭の実行委員やってくんない」
「名前だけでいいから」
「ちょっと顔を出してくれるだけでいいから」
突然囲まれ、矢継ぎ早に三人同時に話し始めた彼らに思わず首を傾げれば、急に拝み倒すように手のひらを合わせ頭を下げられる。
いつも賑やかな三人組。それはなんとなくある彼らの印象。一人に覚えはあるが、ほかの二人はまだあまり記憶にない。そんな相手になぜ拝まれなくてはならないのか。
「話が見えないんだけど。というより、俺はそういうのは絶対やらないっていつも言ってるよな?」
基本的にバイトが優先なので、部活はおろか役員関係もやらないと、予め担任にも言っておいたはずだが。眉をひそめて見れば、三人はいまにも土下座しそうな勢いだ。
「そこをなんとか! 藤堂がやってくれると女子の志気が上がるんだ」
三人組の一人。真ん中で一際小さい、黄色い頭の神楽坂が拳を握りしめ力説する。けれどこちらにして見れば、まったく興味がない話だ。
「断る。放課後は時間がない」
「大丈夫! 放課後に会議はやらないって」
大丈夫の意味がわからない。放課後にやらなくていつやると言うのか。ため息交じりに目を細めたら、神楽坂は本気で土下座した。
「マジで頼む! じゃないと会長に殺される」
「は?」
頭を下げて合わせた手だけをその上に掲げながら、神楽坂は半泣きで震え出した。
「さっきと話が違うみたいだけど?」
神楽坂の言葉にあからさまに不快な表情を浮かべれば、彼は飛び上がりそのまま床に正座した。
「女子のやる気度が上がるのはほんと、ほんと。藤堂がちょっと頑張れって言ってくれれば百人力さ」
慌ただしく両手を上げて、身振り手振りする様はまるでコマ送りの盆踊りのようで、その両脇で首を縦に何度も振るそれは、さながらネジを巻き過ぎて壊れたおもちゃのようだ。
「でも、会長に殺されるのもほんとなんだよ! 級友を救うと思って、この通り」
両腕を伸ばし、床にひれ伏した神楽坂に思わずため息が漏れる。
「もしかして神楽坂って今回、創立祭の実行委員長?」
神楽坂の言う創立祭とはこの学校の七十周年の特別行事。とはいえ、文化祭のような賑やかな催しではなく少々格式張った父兄向けだ。
「イエス! そうなんだよ。面倒くさい役回りなんだよ」
身体を勢いよく持ち上げ、神楽坂はがっくりと肩を落とす。
こういった単発のイベントごとは生徒会が主催し、各学年、各クラスから自薦他薦で実行委員が選出される。そして実行委員長はその中から学年問わず、比較的ランダムに選出されるので、実行委員の中でも委員長に選ばれる確率はきわめて低い。
よほど神楽坂は運がないらしい。
「うちのクラスは仲は悪くないのに統一感がなくてさぁ。俺が委員長だから、このクラスからはあと一人でいいのに、全然決まらないんだよ役員」
教室を見回せば他人事のように頑張れよ、という声がかかり、我は関せずと言う雰囲気。別な意味ではよすぎるくらいの統一感だ。
「みんなマイペースだからな」
ほとんどが二年からの繰り上がりで、見知った顔が多いが、体育祭だとか文化祭だとか。意気揚々とした姿は見たことがない。
「そろそろ俺、ほんとに殺されちゃうかも。だから名前だけでも貸して、あとは俺が頑張る」
「別に俺じゃなくてもいいんじゃないか? 両隣の二人とか。お前たち仲がいいんだろ」
「と、藤堂じゃなきゃ駄目なんだ!」
粘る神楽坂に渋れば終いに泣きつかれる。けれどやけに食い下がるその様子に、思わず目を細めてその姿を見下ろしてしまう。
「それって指定あり、ってことか」
俺の言葉にびくりとした神楽坂の様子に、いままで黙っていた弥彦がふいにため息をついた。
「だから言ったのに、優哉に誤魔化し利かないって」
「三島! お前からもなんか言ってくれ」
「嫌だ」
弥彦の膝にすがりつく姿は情けないを通り越して哀れだ。犬猫でも払うように手を振られ、ついに神楽坂は床に倒れた。
「これじゃあ、まったく埒があかないな。どういうことなんだ」
机に頬杖ついて神楽坂を見下ろせば、もごもごと言いにくそうに話し出す。
「いや、それが……うちのクラスの実行委員がなかなか決まらないって言ったら、藤堂にしろって、会長命令が下って」
「そういうことか」
いまの生徒会長である峰岸一真と俺は、一時期だが友人に近い関係であったのは確かだ。それにしてもあいつの自由奔放な考え方は相変わらずだなと、思わずため息が漏れた。なにかあいつの中で面白いことでも見つけたのだろう。
「神楽坂はほかに選択の余地はないのか」
「うーん、これが残念ながら」
本気で肩を落として俯く神楽坂の様子に、ほんとにこのままでは平行線だと思った。面倒だが仕方がない。
「わかったよ」
仕方なしにそう呟けば、神楽坂は泣きながら飛び上がり俺の手を掴んで振り回した。
「じゃあ、これにサラサラーっと名前書いて」
放課後は時間を割かないと念を押し、安堵した笑みで差し出された役員届け出書にサインをする。創立祭まで五月の連休を挟みあと一ヶ月。
とてつもなく面倒くさいのに捕まった。
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