不安は相手に伝染してしまうものなのだろうか。近づけば近づくほど、相手が見えなくなってしまうことがある。触れ合う心の面積が増えるほど心の死角も増えて、それがいつしか大きな壁になる。そして気がつけば、傍にいるつもりが遠く離れて指先も届かなくなってしまう。
――時々、あなたが見えない時がある。
ぱしゃりという水音にふと我に返った。俯いた視線の先では、髪から滴り落ちた雫が湯に波紋を作っていた。
「さっちゃん、またお風呂で寝てない?」
一瞬、自分がいる場所がわからず目を瞬かせていると、磨り硝子の向こうから怪訝な声が聞こえてきた。
「あ、起きてる」
「もう! さっちゃんはすぐお風呂で寝ちゃうんだから。心配して見に来てよかった」
僕の返事など聞こえていないかのように、母はため息交じりに呟く。
「優哉くんが佳奈と明良くんに飲まされてるから、止めるなら早めにね」
「はっ?」
一瞬、耳を疑うようなその言葉に、ぼんやりとしていた頭がすっかり醒めた。
「お母さん、言ったからね」
「ちょ、待った、母さんがちゃんと止めろよ!」
暢気な声音で遠ざかっていく母の影に僕は慌てて湯船から飛び出した。若干血の気が下がりめまいがしたけれど、いまはそれどころじゃない。慌ただしく風呂場を出て、髪を乾かすのもそこそこに僕は大急ぎでリビングへ駆け込んだ。
「佐樹さんおかえり」
扉を開いて中を覗けば、藤堂と明良はダイニングテーブルで談笑していた。慌ただしい物音に気がついたのか、藤堂はゆっくりと振り返る。いつものように笑うその姿にとりあえずほっと息を吐く。
「おう佐樹、こいつかなり強ぇぞ」
「なにが強いだ馬鹿明良。未成年だ!」
大きく手を振ってこちらを手招く明良に歩み寄ると、僕は容赦なく頭を叩いた。母や佳奈姉にはまだ藤堂の歳は言っていないが、元々知り合いであった明良が知らないわけがない。
「ああ、そういやそうだったなぁ……でも、まあ気にするな」
「気にするだろう普通!」
昔からこういうところが大雑把なのが明良だから、もっと気をつけておくんだった。
「だってこいつ」
「佐樹さん! お姉さんが」
「ん?」
なにかを言いかけた明良の声を、藤堂が慌てたように遮った。その反応にいささか疑問を持ちながらも、やけに大人しい佳奈姉に視線を向ける。
「ああ、ほらまた寝た。明良、責任持って部屋に連れて行けよ」
テーブルに突っ伏している佳奈姉に思わず深いため息が出る。明良と飲むと毎回このパターンだ。もう見慣れ過ぎた光景に言葉もない。
「藤堂、二人のことなんか気にしなくていいからな」
「え? 大丈夫なんですか?」
「どっちかが潰れるまで飲まないと気が済まないんだよ」
心配げな藤堂に肩をすくめて僕は明良と佳奈姉を見比べる。あれだけあったビールはどこへ消えたのか。冷蔵庫の外にあったそれはもう見当たらない。
「明良、次の日覚えてなかったら……わかってるよな」
「酔いも覚めるような怖い顔すんなよ」
大丈夫大丈夫と軽い調子で笑いながら、明良は酔いつぶれた佳奈姉を軽々と背負う。その様子はあれだけ飲んでいたことをまったく感じさせない足取りだった。
「で、藤堂は?」
「え?」
「え、じゃない。笑って誤魔化さない」
「厳しいな」
苦笑いを浮かべて片手を広げた藤堂に僕は大きく息を吐き出した。まっすぐに伸びた指先でその数を見留め、予想以上の量に肩が落ちる。
「馬鹿」
「すみません」
申し訳なさそうに謝る藤堂に目を細めながら、僕は仕方なしにテーブルの上で転がる空き缶を拾った。佳奈姉を部屋に放り込んだら、恐らく明良はそのまま戻って来ないだろう。結局、このパターンか。
――ほんとにお姉さんと明良くんは仲いいよね。
小さな笑い声が聞こえる。先ほどから随分と懐かしい声がするのは、なぜだろうか。藤堂のことを考えていたはずなのに、昔の記憶が頭をよぎる。忘れられない人――あの言葉のせいだろうか。
「佐樹さん」
「ん? なに、どうした」
急に背後から抱きついて来た藤堂を振り返ると、すり寄るように頬を寄せられた。ほんの少しいつもより高い体温がくすぐったい。
「素面みたいな顔して、酔ってるな」
「……少し」
甘えた声や背中にかかる重みさえ愛しいと思う自分はやはり相当だ。
藤堂を甘やかすことが好きだと以前も思ったけれど。きっとほかの誰にも見せない、自分だけに見せる姿が優越なのかもしれない。
「今日は疲れただろ」
テーブルの缶をとりあえず一箇所にまとめ藤堂へ向き直れば、目の前に至極嬉しそうな笑顔があった。
「楽しかったですよ。あんな風に食卓を囲むなんてことは普段あまりないですし、なによりも佐樹さんとこうして一緒にいられるのが、本当に幸せです」
「大袈裟なやつ」
見ているこっちが溶けてしまいそうな微笑みと、優しく額に落ちた口づけに胸の辺りがぎゅっと締めつけられる。
「でも」
確かに幸せだ――不安になることも多いが、それを補ってあまり得るほどに藤堂といると幸せだと思う。
「でも?」
途切れた僕の言葉に藤堂は不思議そうに首を傾げる。
「……ん、お前が好きだ」
「どうしたんですか、急に」
一瞬だけ驚きに目を見開いたけれど、藤堂はすぐに小さな笑みを浮かべて僕を強く抱き寄せた。
「なにを言われても信じるのは僕だけにしろよ。いまはお前だけだからな」
多分きっと、いま藤堂がこの手を離していなくなってしまったら、どうにかなってしまいそうな気がする。自分でも驚くほど重たい感情が常に胸の内にあって、僕はひどく藤堂に依存している気がする。
焦燥するくらいに誰かを愛しいと思ったのは初めてだ。
「そんなこと言われたら、さらに酔いが回りそうです」
でも、そう言って泣きそうに笑う藤堂の不安を煽る記憶が、僕の中にある。もう随分と時間が経って、忘れたと思っていたのに頭の奥底にまだある。――いや、違う。そうじゃない。
ずっとあったんじゃない。本当は忘れていた。でも藤堂が傍にいるようになってから、時々、彼女の声が蘇るんだ。
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