微かに残る記憶を手繰り寄せて、彼を思い出す。写真に写る二年前の藤堂と僕が出会ったのは多分、寒い――雪が降る頃。
あの日は白い雪空が広がっていた。その時、彼に出会ったのは本当に偶然だった。
年明けの雪が溶け始め、ほんの少し寒さが和らいだ日が続いていた。けれどまだまだ二月の初め、冬の寒さは遠のいてはいない。
今年は例年より寒く、桜が咲くのは三月の終わりか月初めか。入学式には咲いているといいなと思いながら、僕は窓の外で風に揺らされている桜の枝を見つめた。
「今日はやけに冷えるな。……ん?」
一人ぼんやりと感傷に浸っていると、背後で戸を叩く音がした。小さく返事をすれば、それはゆっくりと開き見慣れた同僚が顔を出す。
「西岡先生、ちょっといいですか」
「あ、どうぞ。廊下は寒いだろ? 中に入ったら間宮先生」
戸の隙間から顔だけ出す間宮に、僕は首を傾げて手近の椅子を勧める。するとあたふたと慌ただしく彼は室内に入り、僕の目の前に腰かけた。
「用があるなら、内線を鳴らしてくれてもよかったのに。旧校舎は寒いだろ」
いまいるこの教科準備室は、本校舎から離れた場所にあるだけでなく、建物が古いせいか向こうより少し寒さを感じる。その証拠に間宮は手をすり合わせ、いまにも凍えて動かなくなりそうだ。元々少し変わっている、と言うか。物事に対してのんびり、いやズレている彼の行動には時々驚かされる。
「どうぞ、粉の簡単なお茶だけど」
予備に置いているマグカップにお茶を入れ間宮に手渡すと、嬉しそうに顔が綻んだ。
「ありがとうございます」
去年この学校へ新任教師として赴任してきた彼は、実はそんなに歳が変わらない。大学院まで行って、なぜ教師になってしまったのかは疑問だが、少しおっとりしていて、随分と世間知らず気味だ。
そんな箱入り息子はいつの間にやら僕に懐いてしまった。なにかあれば真っ先に僕のところへやってきて、相談を持ちかけてくるのだ。しかしほかの先生たちはこの独特の空気感が掴めず、苦手意識があるようなので、僕に懐くのは致し方ないのか。けれど僕は彼のことは嫌いではない。あまり相手に深く干渉して来ないところが、すごく楽だ。
「で、なに?」
「あの、お茶頂きます」
「……どうぞ」
「西岡先生、来期も担任も副担もやらないんですか?」
ふぅふぅとカップの縁を吹いていた間宮が、小さく首を傾げて僕を見る。冷えた手を温めるためか、両手でカップを持つ姿がまるでリスのようだ。
しかも湯気で彼の眼鏡が半分曇っている。
「あ、あの」
「え? ああ、なんでもない。来期、来期ね」
思わず噴き出した僕に、間宮は目を瞬かせていた。
「間宮先生もそうだけど、後続の若い先生たちもだいぶ学校に慣れたみたいだし、そろそろそちらにお任せするのもいいかなと思って」
というのは口実で、少し面倒ごとから身を引いていたかったのが正直な理由。けれど間宮はそうですかと小さく呟き、俯いてしまった。
「ん? 間宮先生もしかして、来期どこかのクラスに就くとか?」
「……いえ、クラスには就かないんですけど。顧問を頼まれまして。お断りしたんですが、断りきれなくて」
しゅんと肩を落とした間宮に首を捻る。そんなに気落ちするような部活はあっただろうか。まあ、彼にして見ればどこも不安なのだろうけど。のんびりした雰囲気と、なんとなくはっきりものが言えない性格。悪い先生じゃないけれど、いいように扱われ易い。
「どこ?」
「生徒会です」
「……え?」
思わず飲みかけたお茶を噴き出しそうになった。よりによって生徒会とは、また面倒ごとを押し付けられたものだ。そういえばいまの顧問の先生は、結婚を機に退職をするのだった。
「まあ、忙しいけど。いい経験にはなるんじゃないか?」
「とは思うんですが」
「やって見ないと始まらないし、いまの生徒会はみんないい子が多いから大丈夫だよ」
多分、顧問などいなくともしっかりやってくれそうな子たちばかりだ。
「あ、ちょっとごめん」
突然鳴り響いた呼び出し音に僕は片手を上げて、こちらを見ている間宮を制した。
「はい、西岡です。……はい、え? はあ、まあいいですよ」
なんとなく煮え切らない返事をする僕に、念を押す電話の向こう側はひどく騒がしく、ここは本当に隔離された平和な場所だと思った。
「間宮先生、逃げて来ただろ。職員室すごい慌ただしい雰囲気だった」
受話器を戻して、僕は間宮に目を細めて笑う。
「え、あ……実は、それに私がすることあまりないですし」
「ふぅん」
じゃあ、ここにいるのはあぶれた二人と言うことか。
「教頭先生ですか?」
「ん、そう。ほら今度、一般入試あるだろ。人手が足りないから、それの試験官をやって欲しいって」
まあ、ほかになにもしていないのだから、これくらいはしないと罰が当たる。
早いもので僕が以前、担任に就いたことのある生徒たちは、今年の卒業生で最後だった。クラスを持たされるのは大変だったが、その分楽しく思い出も多く残った。でもいまはまだしばらくのんびりしていたい。
出来るだけ目立たぬように、出来るだけひっそりと、いまの僕はこの学校の空気のようになりたいとさえ思っていた。
「じゃあ、当日はよろしくお願いしますね」
真剣な顔で当日の時間割や資料を渡す教頭に、思わず苦笑いが浮かんだ。
「わかってます、大丈夫ですから」
やけに何度も念押しされるのはなぜだろう。いまの僕にはやる気と言うものはほとんどないが、別にいままでなにか仕事を反故にした記憶もない。けれどそれを聞き返す気もなくて、心配げな教頭の顔に愛想笑いを浮かべて僕は頭を下げた。
「ああ、そうか。まだ気を使われているのか」
職員室内にいるほかの先生たちにも挨拶を済ませ、廊下に足を踏み出した僕は、ふと頭をよぎったものに思わず苦笑してしまった。
「もう、あれから随分経ったんだけどな」
けれどそう呟きながらも無意識に左手の薬指をさすった自分に、思わずため息交じりで頭をかく。自分で思っているよりも、周りにはまだ余裕がなく見えるのだろうか。いや、多分きっとそうなのだろう。だからこそ僕は面倒ごとを避けて通る。
人の目が僕を憐れむのが、なによりも辛い。
「未練とか、まだ恋しいとか、そんなんじゃないのに、な。やっぱり……後悔、かな」
あまり他人に強く執着しない僕にでも、誰かを愛しいと思う心はある。そして自分の父親を亡くした時よりも、あの日のほうが遥かに動揺したのは確かだった。
「さっさと帰ろう」
なんとなく気分が晴れずモヤモヤとし始めた。それを紛らわすように、僕は足早に校舎をあとにする。
「あ、今日はやけに冷えると思ったら、雪か」
外へ出ると灰色の空からちらちらと白い小さな結晶が降ってきた。手のひらを上に向ければ、次々と雪はそこへ落ちていく。傘など用意していないが、このくらいならば大したことはないだろうと、僕は再び歩き始めた。
「そういえばもう少しで母さんの誕生日だ。なにか送っとくか、忘れるとうるさいしな」
いまだに子供っぽいところがある母は、イベントごとを重視する人で、自分だけでなく姉たちの誕生日も、忘れるとすぐに電話がかかってくる。お互い近くに住んでいるとは言いがたい距離だから、今回も実家に帰るのは難しいだろう。
店が閉まる前にどこかでプレゼントを調達しようと、歩調を早め僕はバス停へ急いだ。
「すみません」
バス停に着くと丁度乗降しているところで、僕は慌ててそれに飛び乗った。急いでいたので目の前の人に少しぶつかってしまったが、その青年はちらりとこちらに視線を向けただけで、ふいと顔をそらされた。
随分と派手な子だ――金色に染めた長い髪。首に幾重にも巻かれ、ジャラジャラと下がったネックレス。指にいくつもつけたゴツゴツとした指輪。それだけならまだしも、光沢のあるシャツやおそらくブランド物であろうスーツが開いた質のいいコートの隙間から見える。とにかく目を引く子だ。そして若干乗客が引き気味なのも確かだった。綺麗な顔立ちをしているけれど、一見するとちょっとホストを通り越してチンピラっぽくも見えてしまう。
バスの中はどうしても目端に止まってしまう煌びやかな青年の影響か、皆一様に息を潜め、微妙な空気が漂っていた。そのまま十五分ほどバスに揺られていると、駅前のロータリーにバスはゆっくりと入って行く。そして開いた降車口から、皆忙しなくバスを降りて行った。
そんな中、僕はのんびりとした歩調でバスを降りた。
「……やっぱり美形には美形が集まるのが普通だよな」
類は友を呼ぶ。という言葉がある。同じようなものにはそれ相応なものが集まると言う。明良や渉さんなどの顔がふいに浮かぶが、僕の周りはやはり例外的なものなのだろう。一人納得して、僕は同じくバスを降りた金髪青年を横目に見た。彼は降車口の近くでガードレールに腰かけていた青年の元へ、足早に歩み寄って行った。
煌びやかな彼とは対称的なその青年は、黒いロングコートに身を包んだすらりとしたモデルのような容姿。少し長い前髪が頬にかかり、伏し目がちな切れ長の瞳をわずかに隠す。
「ふぅん、芸能人みたいな子だな。スーツでもないし、大学生かな」
風に吹かれて揺れる彼の髪は綺麗な黒髪で、装飾品の類などまったく身につけていないのに、金髪青年とは別な意味ですごく目を引く。
ニコニコと満面の笑みを浮かべ、金髪青年は彼に話しかけているが、彼は背中にべったりと張り付いた金髪青年に、眉一つ動かさずゆっくりと立ち上がった。
「……あ」
一瞬、目があった。
じっと見過ぎた。こちらの視線を感じたのだろうか。けれど彼はなにごともなかったかのように歩き出す。金髪青年はその背中を追い、張り付いたまま歩いて行った。
「あ、あれ?」
なぜか立ち尽くして、いつまでも青年の後ろ姿を見つめていると、彼のいた場所になにかが落ちているのに気がついた。その場に近づきしゃがんで見れば、ライターが落ちている。
「高そうなライターだな。……って、あ、いない」
カチリといい音が鳴るそれを拾い上げながら、僕は我に返って顔を上げた。けれど先ほどまで視界にとらえていた彼の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
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