思わずじっと見つめてしまったが、彼はいまだ視線の先で歯噛みしている男を見下ろしていた。
「あんまりしつこいと警察、呼ぶぞ。この辺りは巡回あるの知ってるよな」
「……だからなんだ!」
彼の言葉にギクリと肩を跳ね上げたが、男は虚勢を張るように声を上げる。随分とこの男も諦めが悪い。ちらちらと向けてくる視線に、思わず僕はため息をついてしまう。
しかしふいに彼が目を細めコートのポケットへ手を入れれば、尻に火がついたかのように飛び上がり、脱兎の勢いで逃げ出していった。
その逃げ足の速さにはあ然とした。携帯電話を出す素振りだけで逃げ出すなんて、男はよほど警察が怖かったのだろうか。思った以上に気が小さい男で助かった。
「あ、ちょっと待って」
しばらく転がるように走り去っていった男の背中を見つめていると、肩に置かれていた手が無言で離れていく。慌てて彼を振り向くが、こちらに背を向けて階段を下りていくところだった。
「ちょ、……待った」
自分でも驚くほど必死に、僕は彼の背を追いコートの端を握りしめていた。そして突然後ろへ引っ張られた彼は、ほんの少し眉間にしわを寄せて僕を振り返る。
「悪い……あの、これ」
目を細めたままじっと見つめられ、思わず声が上擦る。けれどポケットの中に入れていた物を差し出すと、彼は少し驚いた表情を浮かべてそれを見つめた。
「バス停に落ちてた。君のじゃないか」
差し伸ばされた手のひらにライターを預けると、彼は手慣れた様子でそれを開閉したり、ぐるりと外装に視線を走らせたりした。
「うちのだ」
「え?」
急にぼそりと呟かれたその言葉の意味がよくわからず首を傾げて見れば、ふいに顔を上げた彼がなぜか僕の頬に手を伸ばして来た。
「な、なんだ?」
突然冷えた身体に与えられたその温もりに、思わず肩が跳ねる。そしてどれほど自分の身体が冷え切っていたのか、それを思い出してしまった脳みそが、途端に寒さを認識して一気に足元から震えが上がってきた。
「う、寒っ!」
「随分と冷たいな。いつまでもこんなところに突っ立ってると風邪を引く」
冷えた僕の頬に手を当て呟く彼の声は、素っ気ない物言いだったが心配してくれているのはなんとなく伝わる。優しくてよく通る綺麗な声だ。
「ん?」
ぼんやり彼の声に聴き惚れていると、ふいに右の手に温かさを感じ僕は目を瞬かせる。頬から離れた彼の手が、いつの間にか僕の指先を包み込むように握っていた。
「手、痛くないか? 赤くなってる」
「えっ、あ、うん……少し」
眉をひそめた彼が冷え切った僕の指をなぞる。確かにその指先は冷たいというより、既に痛いというほうが正しい。
温めるように指先を擦り合わせる彼の手に、不思議と先ほどのような不快感はなかった。
「……あの」
「なに?」
「あ、いや」
なにも言わずただ手を握っている彼に思わず声をかけるが、彼は僕の問いかけに小さく首を傾げるだけだった。しかし言葉が見つからず口ごもっている僕に目を細め、急に彼は手を離し再び冷えた頬に触れる。
「このままだと、雪だるまになるよ。人を待ってるなら、下で待てば?」
僕に降り積もっていた雪を払う彼の手を、戸惑いながらも思わずじっと目で追いかけてしまった。初対面の人間にここまで容易く触れられるのは初めてだ。少しは嫌悪してもいいと思うのだが、やはり顔が整っている人は得だなとしみじみしてしまう。
「誰か、待ってたんじゃなかった?」
「あ……いや、すぐ戻るって言っていたし、僕は君を探してたから、もう用は」
「俺?」
首を大きく振った僕の顔を見つめる彼は訝しげな表情を浮かべた。その反応にライターを握った彼の片手を指差すと、今度は小さく肩をすくめて息を吐く。
「残念、少し期待したのに」
「は? なにを」
ポツリと呟いた言葉の意味がわからない。眉をひそめて彼を見上げれば、ふっと苦笑いを浮かべられてしまった。
「彼氏、遅いな」
「え、いや、ちがっ。そんなんじゃない」
なぜそんなに慌てたのかわからないけれど、僕はふいに後ろを向いた彼の腕を思わず掴んでしまった。
「それ、天然?」
「な、にが?」
振り向き目を瞬かせた彼が小さく首を傾げ、それにつられるようにして僕も首を傾げる。するとひどく困惑した面持ちで彼は再び苦笑いを浮かべる。
「気をつけたほうがいい。また悪い男に引っかかる」
「それは、どういう意味だ?」
「……こういう意味」
意地悪げな表情で目を細めた彼に驚いていると、ふわりと柔らかな香りが鼻先を掠める。
それがなんなのか、気づいた時にはもう息が止まりそうなほど心臓が早鐘を打ち始めていた。なぜだろうと考えることが出来ないくらいに僕は動揺していた。そして突然引き寄せられ、抱きしめられた身体にじわりと彼の体温が広がる。
「可愛い」
「……え?」
突然の抱擁に狼狽している僕の耳元で、彼は笑いを噛みしめ微かな声で囁いた。けれどその声はあまりにも小さく、僕は戸惑いながら首を傾げる。
「無防備過ぎるよ」
「む、ぼうび?」
ほんの少し呆れたように笑った彼は、いまだ首を傾げている僕に困ったような顔をして、さらに背を抱く腕に力を込める。
「早く帰ったほうがいい」
優しく背中をさすり、軽く額を合わせた彼の仕草に驚き目を瞬かせていると、先ほど触れていた頬にそっと口づけられた。
「少し、熱あるんじゃない?」
「……」
窺うように身を屈めた彼の視線に、なぜかひどくめまいがしてきた。そして額に当てられた手にまで、響いているのではないかと思うくらい心臓が痛い。
「大丈夫?」
しかし心配げに彼が眉をひそめた――それと同時か、階下の扉がカランと言う音と共に開かれた。
彼の手が、温もりがゆっくりと離れていく。
「だからさぁ。知らねぇよ。あいつ気まぐれだし、さっきもふらっと出てって、にゃんこみたいに首輪をつけられんならつけときたいくらいだっての」
「電話、してくれる?」
間延びした声に不機嫌そうな渉さんの声が続く。階下を見下ろせば、バスで見かけた金髪青年と渉さんが店から出てきた。
「あ、渉さん」
やっと出てきたその姿に少しほっとする。しかし下を見た僕の視界の隅を、ふいに黒い影が横切っていく。
「……ちょ、待っ」
そして僕は思わずその背を追いそうになった。けれど伸ばしかけた手に我に返り、僕は呼び止めかけた声を飲み込んだ。
「ミナト」
金髪青年――ミナトに声をかけ、彼は手にしたライターをゆっくりとした仕草で放った。宙で弧を描いたそれは、振り向いたミナトの片手に収まる。
「そうか、あれはあの子のだったのか」
ライターの行く先を見つめ、彼が呟いた言葉の意味がやっとわかった。
「ユウ! お前、どこに行ってたんだよ。お前のせいで俺、すげぇ絡まれた!」
階段を下りていく彼――ユウと呼ばれた青年に、ミナトは不機嫌そうな顔を見せながらも顔を緩ませ抱きついた。
「嘘つけ、お前絡まれて喜んでるだろ。お近づきになりたかったんじゃないのか」
「馬鹿野郎、俺はユウ一筋だっつうの」
抱きつくミナトに彼は肩をすくめるが、絡みついた腕などさして気にしていないのか、ちらりと視線を渉さんに向けてから、こちらを振り仰いだ。
「連れが妙なのに絡まれてたけど?」
「え? ……佐樹ちゃん?」
急に顔を青ざめ僕を見上げた渉さんが、もの凄い勢いで階段を駆け上がってきた。それを驚いて見つめていると、勢いそのままに抱きしめられる。
「大丈夫? なにもなかった? ごめん、待っててなんて」
「渉さん落ち着いて、深呼吸、深呼吸して。なんにもないから、大丈夫だから」
ぎゅうぎゅうと締め付けられる腕に、逆にどうにかなりそうだ。珍しく取り乱す渉さんの背中を叩いて落ち着かせると、やっと腕の力が緩められた。ずるずると力なく落ちた腕が腰の辺りで止まり、渉さんの頭が肩に乗せられる。なだめるようにその頭を撫でれば、小さなため息が聞こえた。
「ごめん、ほんとごめん」
「大丈夫だって、なにも」
「本当に、大丈夫だった?」
何度も何度もそう繰り返す渉さんに思わず笑ってしまう。彼はいつも僕に対して過保護なくらい心配性だ。
「渉さんありがとう。もう、用は済んだし助かった」
「うん、よかった。じゃあ、もう帰ろ」
小さく頷いた渉さんは再び強く僕を抱きしめ、頬にすり寄るように顔を寄せる。けれどそんな彼の背をあやすように叩きながら、僕はこちらを見る視線から目を離せずにいた。
「佐樹ちゃん?」
「……ん、ああ、帰ろう」
訝しげに振り返ろうとした身体を制して、僕は渉さんの手を取り来た道を戻る。
「……」
自分を見つめる視線に頭がくらりとした。彼に触れられた場所がひどく熱い。頬や身体が火照ったように熱くて、めまいがした。でもこれは多分、錯覚――ただの風邪だ。証拠に身体が軋むみたいに痛いし、少し寒気もする。
でも、なぜだろう。出来ればもう少し、傍にいたいと思ってしまった。
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