驚きの表情を浮かべたまま、目を丸くして固まった藤堂の背を、僕は広げた両腕で強く抱きしめる。耳元で聞こえる早い心音は、いまはどちらのものかわからない。
「これもやっぱり傲慢、かな」
ぎゅっと強く背を握ると、小さな笑い声と共に身体を抱き寄せられる。
「そんなことないですよ」
優しい声が耳元を掠め、髪を撫でられた。そしてそれを梳くように流れる藤堂の指先が、ゆっくりと下りそっと頬を手のひらで包まれる。
「なんだかプロポーズされてるみたいで、かなりトキメキました」
「プ、プロポーズって」
予想外の言葉に思わず顔を上げれば、至極優しい目がこちらを見下ろしていた。でもその目にはどこか悪戯を含んだ色も感じられ、僕は無意識に眉をひそめてしまった。
「からかうなよ」
「からかってません」
「お前ずるい」
口を尖らせた僕を見て藤堂は目を細めて笑う。そして顔を俯かせ彼の胸元へ額を預けた僕のこめかみに口づける。
「余裕ぶった顔して、ずるいよお前」
火照った顔を誤魔化すようさらに額を押し付ければ、肩が揺れて藤堂が笑い声を噛み締めているのが伝わる。
「少し前までは、しょぼくれてたくせに」
でも不思議な感覚だ。
藤堂が弱っている時は、自分がどうにかしてやりたいと思える。そして僕が弱っている時は、自然とそれを彼が補ってくれる。しなくてはと思うより先に心と身体が動く。
「そこまで余裕綽々じゃないですけどね」
「嘘だ」
肩をすくめた藤堂の胸に軽く頭突きをすると、小さな笑い声が静かな空間に響いた。お互いが自然に築くこのバランスが、たまらなく心地いい。
「そういえば佐樹さん」
「ん?」
ふっとからかう声色が消え、藤堂の視線がこちらを覗き込んでくる。その声と視線に首を傾げながら見上げれば、彼もまた小さく首を傾げ僕を見下ろしていた。
「今日はずっとあそこにいたんですか? もう食事はしました?」
「いま、何時だ?」
先ほどの問いかけを頭で反すうして、僕はふと我に返った。
「二十二時半を少し回ったところですね」
背後でちらりと腕時計を確認しながら、藤堂はじっと僕の顔を見つめる。
「えっ? もうそんな時間か」
「すみません、バイトが終わるの今日に限って遅かったので。俺が駅に着いた時点で、もう二十二時を回ってましたから」
「いや、別にそれはお前が悪いわけじゃないし、今日は週末だから普通に忙しかっただろ」
ふいに申し訳なさそうな顔をした藤堂に慌てて首を振り、僕は小さく唸った。
「いますぐ帰れなんて、野暮なこと言いませんよね?」
「……う、えっと」
僕の唸り声に藤堂は少し不機嫌そうな顔をして目を細める。そしてそんな彼の表情に僕は、たじろぎながらも視線をさ迷わせた。
軽く図星だ。
「いや、まだ一緒にはいたいと思うけどな、あまり遅い時間まで藤堂を連れ回すわけにはいかないし」
しどろもどろに言い訳をする僕を見る藤堂は、徐々に不機嫌があらわになっていく。
「そうですね。佐樹さんは先生ですし、俺は未成年な上に学生だし、いまも制服のせいで俺が目立ってますから、なおさら世間体が悪いですよね」
「痛いとこばかり突くなよ」
これは間違いなく嫌味だ。珍しく――と言うよりも、初めて藤堂に面と向かって嫌味を言われた。だが、返す言葉がない。
「いいんです。仕方ないことなので、俺がまだ一般的に子供なのはどうしようもないので」
「あのな、大人の事情を持ち出すのは卑怯だって、わかってるんだ。けど、なぁ……難しいんだよ折り合いをつけるのが」
正直言えば、まだ藤堂の傍にいたいし、いて欲しい。けれど彼らにとって深夜と呼ばれる時間帯に連れ歩くのはあまり気が進まない。
本音と建前が頭をぐるぐるとしてしまう。
「嘘です、わかってますよ。そんなに困った顔をしないでください。それに、実際バレて一番迷惑を被るのは佐樹さんだから」
「……藤堂」
冷ややかだった視線がふっと柔らかくなり、なだめるように藤堂の手が背中をさする。それを戸惑ったように見つめ返せば、ため息をついた彼の口元が苦笑いを浮かべた。
「少し意地の悪いこと言いました、すみません。たとえ俺が佐樹さんを強引に誘ったとしても、結局は大人である佐樹さんの責任になってしまう」
「馬鹿、そんなことじゃない。そんな責任いくらでも取ってやるよ」
確かに言う通りではあるが、気にしているのはそんなことではない。
「なにかあって、お前の評価が下がるようなことだけは、したくないんだよ」
「本当にそんなこと気にしてるんですか? 佐樹さんが心配しなくても、俺はそう簡単にどうにかなるような、柔な立ち位置じゃないですよ」
目を丸くして驚く藤堂に胸の辺りがモヤモヤとする。彼にとってはそんなことなのかもしれないが、僕にとってはそれは全然違う。
「わかってる、お前がどれだけ周りから信頼が厚いかってことは、わかってるけど」
呆れたような眼差しに思わず口をつぐんでしまった。しかしいまだ胸の内でくすぶる感情に、思いきり眉をひそめてしまう。
「ほんと、佐樹さんは根っからの教育者ですよね。すごくいい先生」
「嫌味かそれは」
「……ちょっとだけ。でも本音です」
ため息交じりで肩をすくめた藤堂の表情に、気づけば顔をしかめてしまっていた。しかしこれは多分お互いが持つ価値観の違い。互いに重きを置く場所がそれぞれ違うのだから、どうにも相入れない答えだ。
「そんなに難しい顔しなくていいですよ。俺が佐樹さんを一番大切だと思うように、佐樹さんもそう思ってくれてるってことなんでしょう?」
眉間にしわを寄せたままの僕に藤堂は、ひどく困ったような笑みを浮かべる。だけど僕を抱き寄せ、耳元で囁く声は優し過ぎるほど甘いものだった。
悔しいくらいにすべてを見透かされて、なだめすかされる。
「僕は藤堂が大人過ぎて、かなり悔しい」
「俺にもっと甘えて、頼ってくれていいですよ」
ゆるりと持ち上がった藤堂の口元が綻び、力んでいる僕の眉間に唇が寄せられた。僕は小さな音を立て離れたそれを視線で追いながら、背を伸ばし自分の唇をそこに重ねる。
「佐樹さん、可愛い」
「……っ」
ゆっくりと身体を離すと、至極嬉しそうに微笑む藤堂の顔が目の前にあり、否が応でも心臓が大きく跳ね上がってしまう。
「仕方ないですね。可愛い佐樹さんに免じて、今日のところは大人しく帰ります」
そう言って身を屈めた藤堂の唇が再び重なり、心臓がまた大きく脈打った。そしてわずかに身を引いて離れようとする彼をじっと視線で追いながら、僕は高まる鼓動にうろたえた。
「佐樹さん?」
目の前の藤堂がなぜか目を見開く。
「あ……」
瞬きをしない藤堂の視線の先を見つめ、自分自身の行動に戸惑った。離れようとした藤堂の腕を、僕は無意識に強く掴んでいた。
「あ、甘えてもいいんだろ?」
とっさに口にした言葉で自分の顔が熱くなる。駄目だと頭ではわかっているのに、あふれだした気持ちが収まらない。
冷静で大人ぶった自分は藤堂の前に立つと長く保てない、今更だ。道の真ん中で彼に抱きついた時点で、そんな綺麗事は通用しない。
「いいですよ、いくらでも甘えてください」
頬を緩ませ笑った藤堂は、掴んだ僕の手を解いてそれを握りしめた。
「家まで送ります」
「え、そっちは」
「大丈夫ですよ」
来た道とは違う方向へ歩き出した背中に首を傾げると、ふっと笑みを浮かべた藤堂が振り返る。
「裏道、人通りが少なくて少し物騒ですけど、表通りで人目につくよりいいでしょ」
「……そういえば、前はこの辺でよく遊んでたんだよな」
慣れた様子で建物の隙間を抜けて、薄暗い道をなんの躊躇いもなく歩く。そんな藤堂の姿にふと昔の背中がちらついた。
「随分前の話ですよ。それよりなにか買って帰ります?」
「……ん、少し腹が減った」
「そう、それはよかった」
なんとなく、まだいまと昔の記憶の整理はついていない気はしたが、それでも彼の背中はいまも昔も変わらないのはよくわかった。
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