書類の上に転がった小さな紙くずと、目を細めてこちらを見ている峰岸とを見比べれば、大きく肩を落としてため息をつかれた。
そのため息の意味がよくわからず首を傾げたら、今度は指先で招き寄せられる。
「なんだ?」
招かれるまま峰岸の机へ近づいてみれば、唐突に腕を掴まれ峰岸の座る椅子の横へ移動させられた。
「なんだじゃねぇだろ。んなぼーっとするほど暇かよ」
「……や、そういうわけじゃないぞ」
感慨を覚えてぼんやりしていたのは確かだけれど。
「ったく、世話焼ける大人だなぁセンセは」
並び立った僕をちらりと見上げ掴んだ腕を放すと、峰岸はパソコンの画面に向き直り手慣れた様子でキーボードを叩く。途端に黙々と仕事をし始めた峰岸に戸惑いつつも、僕は邪魔にならぬよう手近の椅子を寄せてそっと画面を覗き込んだ。
「これ誰作ったんだ」
峰岸の作業する来賓リストは実に見やすく使い勝手がよさげだった。今時のOLでもここまで綺麗に整理された表はなかなか作れないだろう。
「……俺」
やや間を置いて峰岸がポツリと呟くような声で応える。
「ふぅん。お前こういうの得意だったんだな」
「見かけに寄らず」
「え?」
まるで心の中を読むみたいに峰岸はにやりと片頬を上げて呟いた。そして僕はそんな予想外の反応にうろたえ、通常の二倍ほどの速さではないかと思えるくらいに何度も瞬きを繰り返してしまった。
「センセいつも言ってんだろ」
顔に書いてある――そう言って笑みを深くすると、峰岸は僕の頬を軽くつまんだ。
けれどまったく痛くも痒くもない指の感触になぜだか不思議な感覚がして、僕はじっと峰岸の顔を見つめ返してしまった。
「あんまり可愛い顔して見てると喰うぞ」
僕の視線に戸惑ったのか峰岸は一瞬だけ苦笑いを浮かべると、指を離し僕の頭をおもむろに撫でる。ほんの少し残る違和感に僕が首を傾げれば、今度は椅子を引き寄せられ尻を撫でられた。
「大胆にセクハラするな」
「……」
僕の文句に目を細め小さなため息をつくが、峰岸は人の言葉など耳に入っていないのではと思うほど遠慮なく触り続ける。そんな無遠慮な手を払おうと身体をよじれば、囁きにも似た小さな声で峰岸が呟く。
「センセが幸せオーラ出しまくりなのが悪いんだろ」
「は?」
思わず聞き返してしまいたくなるほどの小さな声だったが、ふとその声の小ささや言葉の意味に気づきじわりじわりと顔が熱くなった。
「センセ、前より雰囲気柔らかくなったな。壁が取れたっつーか。まあ元々、生徒には八方美人なとこあったけど」
「そ、そんなに違うか?」
同じようなことを新崎先生にもなんとなしに言われたばかりだ。そんなに他人から見てわかりやすいのだろうかと、思わず心臓が跳ねる。峰岸につられ小さな声で問えば、意地悪げな眼差しを返され鼻先で笑われた。
「わかる奴にはわかるんじゃねぇか?」
「わかる奴?」
「身近の親しい人間にはわかんだろ。あんたのことよく見知ってんだし」
「……ふぅん、でもお前とそんなに親しい覚えないぞ」
ニヤニヤと笑う峰岸にちょっとした悪戯心で仕返しすると、ふいに目を細めさらに笑みを深くされた。
「へぇ、そういうこと言うか。そうかそうか、俺の愛情感じてねぇつーの」
ワントーン下がった峰岸の声に身体が無意識に後ろへ逃げを打つ。しかしにんまりと満面の笑みを浮かべた峰岸がこちらへ向き直り、人の腰を両手で掴み引き寄せようとする。
「じょ、冗談だろっ」
思わず大げさなほど叫んでしまった僕に、あ然とした雰囲気で野上と柏木が振り返る。けれどそんな視線は気に留めている余裕はなく、とりあえず僕は両手を峰岸の肩に当て腕を突っ張らせた。
「俺、学習能力ない奴……好きだぜ」
その腹黒さはどこから来るのだと言いたくなったけれど、それはなんとか飲み込んで口をつぐんだ。目の前の笑みは僕の反応を面白がっているのがありありとわかる。どうやら僕は失敗をして峰岸の変なスイッチを押したようだ。
「冗談聞けない奴は嫌いだ! 尻を触るな!」
器用に両腕で腰を抱きかかえ人の尻を触る――どころかそれを通り越し、鷲掴みする峰岸はさらに楽しげに笑う。
「減るもんじゃないだろ」
「減るっ」
「減らねぇって、こんなちっちぇケツ、減りようないって。そこら辺の女子から肉分けてもらえば」
「うるさいセクハラ大王」
薄っぺらい尻を触ってなにが楽しいのだ。腕に力をこめて僕の身体を抱きしめながら、峰岸は一人さも楽しそうに笑い出す。
「あらあら、まあ随分と楽しそうですわね」
そんな騒がしい生徒会室に至極のんびりとした落ち着いた声が聞こえてきた。その声に僕が振り返るのと同時か、野上がこれまたのんきな声を上げる。
「あ、ゆかりん。部活終わったの? お疲れ様ぁ」
僕らが振り返った先でにこにこと笑みを浮かべていたのは、副会長の鳥羽由香里だった。
彼女はふわふわとした栗色の髪と柔らかい茶色の瞳が相まって、フランス人形を彷彿させる美少女と言って間違いのない子だ。そんな彼女は見た目に反して純和風、茶道部の部長も兼務している。
「創立祭まで間もないし、この仕事終わらせてしまわないとね。だから少し早めに切り上げて来ましたの。ナナちゃん、サボらずちゃんとしてた?」
楚々とした佇まいで野上の横に立った鳥羽は、小さく首を傾げ野上のパソコンを覗いた。
「俺はサボってないよ。会長はさっきからニッシーにセクハラしまくりだけどねぇ」
鳥羽を見上げながらため息交じりに野上がこちらへ視線を投げると、彼女は目を瞬かせ再び小さく首を傾げる。二人の視線の先では、峰岸に抱きつかれそれを必死で引き剥がそうとする僕がいた。
「西岡先生、従順な猫ちゃんもうっかり爪が出るものだから、気をつけてくださいね」
ふふっと楽しげな笑みを浮かべて、ちらりと鳥羽は峰岸に目配せする。けれどそれもほんの一瞬で、お茶でも淹れましょう――と言いながら、鳥羽は生徒会室に備えつけてある申し訳程度の給湯室へ向かった。
助けてくれる気はさらさらないようだ。猫は猫でも猫科のライオン一頭、僕にどうしろというのか。
「ゆかりーん、俺ココアがいいなぁ」
「……濃い目のブラックでいいのかしら」
「う、贅沢言わずみんなと一緒でいいです」
相変わらずの光景を眺めながらついため息がもれた。もう僕もそんなに若くもないと言うのに、このアップダウンの激しいペースで振り回されるのはかなり辛いものがある。けれどそんな空気が嫌いになれない自分もいた。
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