昔からずっと物事に執着することは少なかった。歩いていくために不必要だと思ったものや不自由と思ったものは、簡単に捨ててしまえた。でもいまはどんなことがあっても手離したくない存在がある。それほどに彼は自分の中で大部分を占めていた。あの人がいたから自分を諦めずに生きてこられた。
だから彼を失うくらいなら、なにもかも自分のすべて、捨ててしまってもかまわないとさえ思う。
深夜と呼ばれる時間帯。しんと静まり返った空間でなんの気遣いもせず、がたがたと物音を立て歩き回る気配を感じた。
耳を澄ましもう一度その音を確認すると、ベッドに預けていた身体を起こしゆっくりと部屋を出る。そして階段を下りて明かりが点るリビングの扉を開けば、ふっと煙草の臭いが鼻先を掠めた。
「……嫌だ、おどかさないでよ優哉。私がいるのにあなたが部屋から出てくるなんて、珍しいわね」
突然開いた扉にほんのわずか戸惑いを感じさせた背中は、俺を見るなり肩をすくめて笑った。
「川端から電話があった。あれはどういうことだ」
「どういうことって、雅明さんから聞いたんでしょ?」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない」
「じゃあ、なぁに?」
わざとらしく驚いた表情を浮かべ、胸元まで伸びた緩く波打つ髪を指先に巻ながらふっと息を吐き出す。不機嫌そうに目を細め首を傾げてみせるその仕草は、いまこのやり取りが面倒くさいと言いたいのだろう。
「俺の知らないところであんたがなにをしようがどうでもいい。それに俺を巻き込むな」
「いい話じゃない。お金も寄越さないろくでなしの子供でいるよりも、向こうへ養子に入るほうがずっと幸せだわ」
「あんたの幸せと俺の幸せは別物だ」
ソファの背に身体を預け、さも当然だと言わんばかりの顔で煙草を吹かすその態度は、腹の奥に溜まった苛々を募らせた。これが自分の母親なのだと思うだけで、現実というものが嫌になる。
「自分の旦那が使えないから、今度はその兄貴をたらし込んだのかよ」
「いやね、随分と面白くない冗談だわ」
「冗談でも笑えない」
肩をすくませ笑うこの女は、見た目だけなら歳よりもずっと若く見える。ましてや俺のような歳の子がいる雰囲気など微塵もなく、他人から見れば目を惹くそれなりの容姿だ。
前妻を亡くしてからずっと独り身の川端に取り入り、手玉に取るくらいは朝飯前だろう。
「あなたは私の息子でしょう。私はあなたの保護者なの。子供の未来を憂いてなにが悪いの」
「心配してるのは俺じゃなくて、金だろ。あんたはどうやって簡単に金が手に入るかしか考えてない」
憂うどころか、見向きもして来なかったのに白々しいにもほどがある。元々母親や妻などという役割をするつもりもなければ、この先もその気すら端からない。昔から変わらず自分の保身がなによりも第一であるこの女は、金と地位に対する執着だけは人一倍だ。
「俺は川端の養子になんてならない」
この先、自分の一生を食いものにされるのはごめんだ。
「優哉、我がまま言うんじゃないわよ。あなたがこうしてなに不自由なく、自分の好きなように暮らせてるのは誰のおかげ?」
「……」
「役立たずな父親の代わりにあなたの学校や生活、この家も私が与えているのよ。それくらいわかるでしょう」
「それはあんたが悪いんだろう。あの人が家を出て帰らなくなったのは、あの人のせいでもなければ、俺のせいでもない」
呆れた目を向けられ、思わず鼻先で笑ってしまった。
俺が実子ではないと知るまでは、妻に振り回されながらもそれなりに旦那として、親として役目を全うしようとしていた。そんな男が騙されたと知って、この家と女に愛想を尽かし、若い女へ走ったところで責めようがない。
「まったく、こんなことならあなたの父親を選んでおけばよかったかもしれないわね。そうしたら今頃、保険金や遺産だって貰えたかもしれないわ。あの人、私といた頃は大した腕もないパティシエだったけど、いつの間にか海外に店を持つほどになっているんだもの」
「死人の金にまで手をつけようなんて、本当に金のことしか頭にないんだな。あんたが疫病神なんじゃないのか」
「言ってくれるわね。私はただ先の見えない相手を選ばないだけよ」
「……詭弁だな」
ある意味、俺の父親はこの女に見限られて幸運だっただろう。短い人生だったかもしれないが、少なからず自分の道を歩いた。
「あら、どうしたの? 本当の父親のことが気になったの? あの人とは一度顔を合わせただけだものね」
「別に、気にしてない」
まったく興味がないと言えば嘘になるが、今更死んだ親のことなど知ったところでなにが変わるわけでもない。
「あなたは私によく似てるから、あの人にはちっとも似ていないわね。のんびりしていてお人好しで騙されやすくて、馬鹿みたいに誠実な男よ」
「あんたに選ばれなくて幸せだったろうな」
「なぁに、それは嫌みのつもり?」
長くなった煙草の灰を灰皿に落とすと、わざとらしく鼻先で笑う。そして俺が不快をあらわにすればするほど、それを見て口元に笑みを浮かべた。
人を見下ろすその仕草は、子供の頃から何度も目にしてきた。いつだって自分が優位なのだと、旦那や足元の人間をあざ笑うこの女が、俺は物心ついた時から好きにはなれなかった。
「そう言えば、いまはどんな子と付き合ってるの? マメに弁当なんか作っちゃって、まさか本気なの?」
ふっと目の色が変わったその瞬間、心臓の辺りがヒヤリとした。
「……あんたには関係ないだろ」
「関係なくはないでしょう」
「いままで放っておいて、自分の都合のいい時だけ母親ぶるなよ」
「もしかして、あなたのしてきたこと私がなにも知らないと思ってるの? ちゃんと調べてあるのよ」
ため息交じりにそう言って、短くなった煙草を灰皿でねじり消すと、目を細め不敵な笑みを浮かべた。胸の奥でざわりと不快なものがよぎった。
「あなたがいままで誰とどんな場所で遊んでいたかも、ちゃんと知ってるわ。高校卒業したら、ここを出て私との縁を切りたがってることも、ね。……随分と貯め込んだわね」
歯噛みした俺を尻目に肩を揺らして笑い、床に放って置かれた鞄からA4ほどの封筒を取り出すと、それを指先でつまみ逆さにして振った。するとそこから、バラバラと写真や折り畳まれた紙がこぼれ落ちる。
床に散らばった写真は中学時代のものや、ごく最近とも言える半年くらい前のものがあった。その中にはBAR Rabbitに通っていたその頃の写真も数多くある。
「こんなもの集めて、悪趣味だな」
「子供の不祥事は保護者の責任でしょう? そうなる前に片づけられるものは始末しておかないと、のちのち面倒だわ」
最後に写真とは異なる重みで封筒から落ちたのは、なにかが印刷された紙の束だ。訝しげに顔をしかめた俺に、それを拾い上げてこちらへ放り投げてきた。バサリと音を立てて紙の束は足元に落ちる。
視線を落とした紙に記載されているのは俺の銀行明細だ。
「あら、怖い顔。でも私は、このくらいのことは簡単に出来てしまうのよ」
「……」
「まあ、お付き合いしてる子については、高校最後の思い出だからしばらく放っておいてあげる。せいぜい楽しんだらいいわ。私があなたに費やした十八年……いえ、二十年分をこれから返してもらわなきゃいけないんですもの。これだけじゃ足りないわよ」
細めた目に愉悦の色が浮かんでいるのがわかる。手のひらで踊る俺を見るのが楽しいのだろう。それと共にどうしようもないほどの殺意が脳裏をよぎる。けれど深く息を吐き出してゆっくりと瞬きをすると、それを腹の奥に押しとどめた。言葉を交わすたびにこうして奥底に澱んだ気持ちが溜まっていく。
「俺はあんたの道具じゃない」
「電話帳にも登録してないなんて、あなたにしては珍しく警戒してるんでしょう?」
「……っ」
「あなた寝入ると本当に起きないから助かるわ」
動揺した俺の様子を楽しげに見ながら、写真に紛れた紙をまたこちらへと投げて寄越す。ひらりと宙に舞ったそれが床に落ちるまでの数秒、心臓が張り裂けそうなほど早鐘を打った。
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