長い付き合いがある明良のおかげで元々偏見はない。でも自分に向けられる感情にも気づかなかった僕が、なぜ柏木の感情に気づいたのだと聞かれれば。やはりそれは自分もいま想う相手が同性だから、他人の感情もまたそうであってもおかしくない。
まるでそれが自然なことのようなそんな錯覚をし始めていたからだ。けれどそれを口にするわけにもいかず、こちらを窺い見る柏木の視線にしどろもどろになってしまった。
「まあ、深く追求はしませんけど」
「別に後ろ暗いことはないぞ」
確かに藤堂と自分の関係は言葉にすることをはばかられる。でも後ろ暗いとは思ったことはない。歳が離れていることはいまだ気になるけれど、いまどき歳の差があるカップルなど珍しくもなくなってきた。ただやはりもどかしいのは、人に容易く言えないということ。
「あんまりうろたえると、痛くもない腹探られますよ」
「ご忠告どうも」
現にあの明良でさえ、家族や身近な友人にも公言していない。知っているのは本当にひと握りの人間だ。言っていいことは特にないからなと苦笑いをしていたから、僕が考えている以上に悩みや苦労が多いのだろうと思う。
いま目の前でなに食わぬ顔をして笑っている柏木も、藤堂や峰岸も、僕にはわからない色々な想いを抱えているのかもしれない。
誰かを好きだと思うその気持ちに、ほかの誰とも違いなどないのに。
「西岡先生?」
「いや……なんでもない」
急に黙り込んでしまい、柏木に怪訝な顔で見つめられてしまった。慌てて顔を左右に振れば、柏木は小さく息をついて肩をすくめた。
「あ、会長」
長い廊下を歩き、校舎の端に当たる角を右に曲がれば、ほんの少し開けた場所に出る。窓の多い廊下に比べてあまり陽射しが届かない、少し薄暗さを感じさせるそこが備品室の入り口だ。その入り口の前、蛍光灯でわずかに照らされたそこに峰岸は立っていた。峰岸の姿に柏木は驚きの声を上げる。
「なにしてるんですか」
驚きを隠さぬまま足早に近づく柏木に、僕をじっと見つめていた視線がふっとそらされた。
「お前、いいとこに来たな。これ持って行けよ」
薄く開いていた備品室の鉄扉を足で閉め、峰岸は自分の後ろにある台車を柏木のほうへと押し出した。
「なんだ、会長が取りに来てたなら俺が来なくてもよかったですね」
「あ? そこはわざわざ手間をかけさせてすみませんだろうが」
悪びれた様子もなく峰岸の傍らにあった台車に手を伸ばした柏木は、呆れた峰岸の声にも軽く肩をすくめるだけだった。パイプ椅子が数脚乗った台車が、柏木の手で重たげな鈍い音を響かせ動き出す。
「行くなら行くって、声かけてくれればいいのに。無駄足になるところでしたよ」
「お前な」
歩き出した柏木に合わせ徐々に加速が増した台車は、甲高い悲鳴を上げ次第にそれを小さなうめき声に変えた。その音に峰岸のため息はかき消された。
「じゃあ、時間ないのでこれは持って行きます。西岡先生、わざわざ時間割いてもらってすみません」
「え? あ、ああ」
「だから、俺にその言葉はないのか……ったく」
さわやかな笑みを浮かべ軽く頭を下げると、柏木は廊下で立ち止まっていた僕が振り返るよりも先に、廊下を軽快にすべる台車と共に横を通り過ぎていった。そのあっという間とも言える柏木の行動に、あ然としてしまう。そしてそんな柏木の背中に、峰岸が小さく舌打ちをした。
「調子がいいんだよな、あいつは」
「へぇ、ちょっと意外だった」
自由気ままで個性的な生徒会役員の中でも、まったく物怖じをしない肝の据わった子だなと思ってはいたが、見かけによらぬずる賢さがあるようだ。僕の中で柏木は一番大人しく真面目な印象だったので意外な側面だ。
「外面がいいんだよ。一年は一人だからって、連中が甘やかすから態度がでかくなるんだ」
苦々しい顔で再び息をつくと、峰岸は備品室の鍵を鍵穴に差し込みゆっくりと回した。するとまるで峰岸の気持ちを表すかのような、鈍く重たい金属音が扉の内側から聞こえてきた。
「で、センセはその微妙な間合い、無意識か?」
鍵束を指先で回しこちらを振り返った峰岸は、僕をじっと見ながらこちらへ向かい足を踏み出した。
「無意識か」
「え?」
肩をすくめて笑った峰岸の表情に疑問符が浮かんだ。けれど意味がわからず首を捻ってから、自分が少しずつ後ろへ下がっていることに気づいた。
「あ、いや、これは」
「だから、無意識だろ? まあ、無視されるよりはマシだ」
あからさま過ぎる自分の行動に思わずうろたえてしまう。いくらなんでもこれは峰岸に失礼だ。
「相変わらずお人好しだな。あんたが気にすることじゃないだろ。俺が悪いんだからそんな顔すんなって」
峰岸が僕の目の前で立ち止まる。そしてこれ以上後ろへ下がってしまわないよう身構える僕を見下ろし、ふっと眉を寄せ困ったように笑った。
「悪かったよ、もう絶対にしない」
ゆっくりと腕を持ち上げ、僕の髪を軽くかき回すようにして撫でると、峰岸は僕の横を通り過ぎていく。でも歩調を速めその場を去ろうとする峰岸の背中を、僕は引き止めていた。
「峰岸、お前のことが嫌いなわけじゃない。ほんの少し、いまは戸惑ってるだけだ」
「……」
僕にブレザーの端を掴まれ、峰岸は踏み出す足を止めた。しばらくそのまま動かぬ峰岸の背中を見ていると、微かなため息と共に振り返る気配を感じた。僕はとっさに視線を落とし、強く握ったブレザーの端を見つめる。
「センセ、あんた意外と小悪魔だよな。誰にでもそういう態度とるなよ。勘違いするだろ」
再び僕の髪を何度もかき回して、峰岸はブレザーを掴む僕の手を解きその手を握った。指先を強く握られた感触に僕が顔を持ち上げると、峰岸は至極優しい笑みを浮かべた。
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