身支度を調えてから藤堂が立つキッチンの前で椅子を引くと、ふいに顔を上げた藤堂が心配そうにこちらを見つめた。急にそれることなく視線が重なり、カウンターに置かれていた新聞を取ろうとした手元が狂う。
「佐樹さん身体、辛くない?」
「だ、大丈夫だ」
「そうですか、それならよかった。少し無理させたんじゃないかって、心配だったんです」
「平気だ。どこも痛いところはない」
自分でもわかるほどに頬を紅潮させながらもごもごと返事をすれば、藤堂が小さく笑った気配を感じた。そんな笑みに動揺しながら落としてしまった新聞を拾い上げると、こちらへ近づいてくる藤堂のつま先が視界に入る。
「朝はパンでよかったですよね?」
「ん、ありがとう」
サンドイッチを載せた皿とサラダと珈琲をカウンターに並べ、藤堂は僕の隣の椅子を引いて座る。しかし目の前には一人分の朝食しかなく、藤堂は珈琲だけを手にしていた。
「藤堂は?」
「あ、俺は先に軽く済ませました」
「そうか」
微笑んだ藤堂に頬を熱くしながら、僕はいつものように新聞を片手に持つと、藤堂の作ってくれたサンドイッチを頬張る。そんな僕を藤堂は優しく目を細め、至極嬉しそうに微笑みながら見つめていた。
リビングの窓から射し込む光と緩やかで穏やかな時間。何度過ごしてもそれはたまらなく幸せで暖かかった。
「藤堂」
「なんですか?」
読み終わった新聞をカウンターに戻す頃には、藤堂は食べ終わった食器をキッチンで片付けていた。そしてそんな俯く藤堂に僕は声をかける。けれど言葉が続かなくて、向かい側で首を傾げる藤堂は、呼びかけた僕の言葉を待ち目を瞬かせている。
「あ、えっと……明後日、土曜日にあるだろ」
少しばかりしどろもどろになりながら、やっとのことで言葉を紡ぐ。しかし藤堂はその先をすぐに悟ったらしく、ふっと優しく微笑みを浮かべた。
「その日は休みをもらいました。なので最後まで一緒にいられます」
「そ、そうなのか」
返って来た言葉に思わず顔が緩んでしまうくらいに気持ちが浮ついた。明後日の土曜日は写真部の校外部活動の日だ。バイトで忙しい藤堂だから、途中で帰ってしまうだろうと思っていた。それなのにずっと一緒にいられるとは予想外過ぎて、嬉しくて仕方がない。
しかも来週の水曜日には二人で実家へ行くことになっている。それはほとんど間を置かずに藤堂と一緒にいられる時間が続くということだ。
「でもなんで行くことになってたんだ?」
会えることが嬉し過ぎて深く考えていなかったが、ふと疑問が浮かぶ。比較的自由な部活だが、部外者が同行するのは大丈夫なのだろうか。しかしそういえば峰岸が電話をかけた時点で予定は決まっていたようだった。
「あー、それはあずみと弥彦が」
首を傾げた僕に藤堂は困ったように笑って言葉を濁す。けれどますます疑問符を浮かべて見つめる僕に根負けしたのか、少し大げさに息を吐いた。
「夏休み前にあの人、佐樹さんを訪ねて学校に来たでしょう?」
「ん、あの人? あ、もしかして渉さん? 会ったのか?」
「えぇ、その時にあずみと弥彦もいたんですけど、ちょっとまあ、その時に色々あって。あの人と佐樹さんの関係とか色々と突っ込んで聞かれる羽目になったんです」
その時のことを思い出したのか、ひどく苦い表情を浮かべて藤堂は肩をすくめる。三島はともかく、あの片平だ。かなり強引に追求されたのだろう。あまりにも簡単に想像出来てしまうその状況を思い、僕も思わず苦笑してしまった。
「それで、どうせほかにも部員以外の人間は来るから、絶対来いと」
「え? 部員以外も来るのか?」
「被写体とか、そういう名目で来るみたいです。当日にならないと何人になるのかわからないってあずみがぼやいてました」
その話はまったく聞いていなかった。写真部は部員だけでも十四、五人いたはずだ。それにプラスされて人が集まるとなると、当日はかなり気合い入れていかないとまとめるのが大変そうだ。部長である片平も気苦労が絶えないだろう。
「賑やかになりそうだな」
「ほんとですね」
当日のことを想像して僕と藤堂は顔を見合わせると、楽しみと心配を織り交ぜた複雑な表情を浮かべて笑いあった。
「でも佐樹さんと一緒にいられる時間が増えて嬉しいです」
「……えっ」
不意打ちで告げられたまっすぐな言葉と、小さく首を傾け満面の笑みを浮かべた藤堂の表情に、うろたえて椅子から転げ落ちそうになった。そんな挙動不審な僕を見つめながら、藤堂は笑みを浮かべて再びこちらへやって来る。
そして気恥ずかしさのあまり立ち上がって後ずさりしそうになった僕に腕を伸ばし、力強く引き寄せて身体を包み込むように抱きしめてくれた。身体に感じるぬくもりに少しばかり胸の音が早くなる。それでも僕は藤堂の背中に腕を回し抱きしめ返した。
「離れたくないけど、もうそろそろ出なくちゃですね」
「ん、そうだな」
穏やかな二人の時間は緩やかだけれど確実に時を刻んでいく。名残惜しくて肩口に擦り寄ると、指先が優しく髪を梳いて撫でる。その感触にゆっくりと顔を持ち上げれば、そっと口づけが落とされた。いつでも藤堂は言葉にしなくても僕の心を感じ取ってくれる。そしてそのたびに想われていることが嬉しくてたまらなくなる。
そんな幸福感は何度味わっても褪せることはなくて、それどころかますます胸を高鳴らせてしまうほどに強くなっていく。いま僕の目に映る藤堂がいる世界は、心奪われるくらいに色鮮やかで、かけがえのないものだった。
「佐樹さん、忘れ物はないですか?」
「ああ、大丈夫」
「そんなに慌てなくてもいいですよ」
鞄を掴み、慌ただしく靴を履くと、玄関先で扉を開け待っている藤堂に駆け寄る。そしてなに気なく顔を上げたら、ふいに視線が合いやんわりと微笑まれた。その笑みに不思議と気持ちが落ち着く。離れることが寂しいけれど、またこうしてこの先も一緒にいられるのだという気持ちが胸に湧いた。
「じゃあ、行きますか」
「うん」
そっと触れた手が繋ぎ合わされる。意識しなくとも想いが通じるこの瞬間が、二人で過ごす時間が幸せだと思った。これから何度こうして二人で笑いあうのだろう。何度こうして同じ時間を過ごすのだろう。そんな想像をするだけで胸がドキドキとして、少し離れているいまもなんだかひどく愛おしいものに思えた。
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