目の前でやんわりとした笑みを浮かべている彼は、年下だろうと思うのだが落ち着き構える姿は自分より下とは思えない。僕が年相応の落ち着きを持っていないことが一番の要因かもしれないが、それにしても堂々たる佇まいだ。
「遅くなってしまい申し訳ありません」
「いえ、時間通りですし。電車が止まっていたんですよね?」
「あ、はい」
「女将が電車が動いていないから遅れるんじゃないかって言っていたんですよ。急いできてくださったんですね」
初めて会う相手が時間ぎりぎりにやってきたというのに、嫌な顔一つせずにさらりと相手を立てることができるなんて、人としてのスキルが高過ぎて思わず気後れしてしまう。そもそも時間を作って欲しいと言ったのはこちらなのだ。それなのに紳士対応過ぎて困る。
「なにを飲まれますか?」
「あ、僕はお酒が飲めないのでウーロン茶でいいです」
さりげなくお酒のメニューを勧められたが、僕は首を振りとりあえずどこにでもありそうな飲み物を頼んだ。こんなところで遠慮してお酒をひと舐めでもしたら話どころではない。
「そうなんですか。ここは日本酒や焼酎などの種類が豊富なんですが、俺だけ飲ませてもらって構いませんか?」
「もちろん、どうぞ」
「食事はまだですよね? 好き嫌いとかありますか?」
彼が話しだすと、不思議なほどとんとんと会話が流れていく。言葉に詰まって無言になることがないし、かと言って話を無理矢理に持っていく強引さがあるわけでもない。
いつの間にか年齢や職業、住んでいる場所まで答えている自分がいて、このまま行ったら家族構成まで話してしまいそうだなと思った。
普段は緊張して箸も進まないだろう料理も、なんだかんだと話に乗せられるまま食べている。これは本当に人と接するのに慣れているのだな。もしくは天賦の才能だ。きっと仕事なんかもできる人なのだろう。
「西岡さんみたいな先生だったら、学校をサボろうとか思わないですねきっと」
席についてどのくらいが過ぎただろう。にこやかな笑みで日本酒を五合ほど空けているが、荻野さんは顔色も言動も最初とまったく変わりがない。
水を飲んでいるかのような飲みっぷりだからお酒が強い人なんだな。飲んでいる姿を思わず見つめると、視線が合いやんわりと微笑まれた。
なぜか何度となく視線がしっかりと合う。そしてそのたび優しく目を細めて微笑まれるのだが、どう対応したらいいものか困ってしまう。じっと目を見つめられて落ち着かない気持ちになるが、慌てても仕方がないし、目をそらすのも不自然だ。
けれどまっすぐな視線を向けられる相手が僕ではなく女性だったら、間違いなく勘違いを起こしてしまいそうな状況だ。
「西岡さんは食が細いですね。少し華奢ですし」
「あまり太らない体質なので」
「抱きしめたらすっぽり収まってしまいそうだ」
「えっ?」
これはどういう意味なのだろう。普通は冗談でも男相手に抱きしめたら、なんて言わないものではないのか。けれど荻野さんの笑みは鉄壁な仮面のようでその真意が読み取れない。
優しい笑顔に気を取られていたが、この人は腹の内を他人には見せないタイプのような気がした。
「あの」
「西岡さんはゲイっていうわけではないんですね」
そろそろ本題を切り出したい、そう思った時。ふいに荻野さんはなに気ない口調でぽつりと呟いた。一瞬なにを言われたのかわからなかったが、言葉を飲み込んでからようやく頭が理解した。もしかして先ほどまでのやり取りや視線は試されていたのだろうか。
「あ、はい。一応、結婚していた時期もありました」
「そうですよね。そのほうが西岡さんには似合ってると思いますよ」
「え?」
「あなたは妻子ある穏やかな家庭を築いていくほうが、向いてる気がします」
なんだろう、急に棘を感じた。笑みは変わらないのに言葉が少し冷たくて、その変化に戸惑ってしまう。
しかしその裏を返せば、異性愛者でありながらもなぜ藤堂に関わろうとするのかと言いたいのかもしれない。彼は異性愛者が同性愛者を相手にしていることを快く思っていないのだろう。
「いま優哉と、付き合っているんですよね?」
「はい、付き合っています」
「どういう経緯でそうなったのかわかりませんが、正直言って賛同はできませんね。歳も随分と離れているようだし、優哉の将来を考えるとあなたは枷になる気がします」
淡々と発せられる荻野さんの言葉に胸が締めつけられた。藤堂の枷になる――それは僕が一番恐れていることだ。
「西岡さんはすごく性格もよくて、人に愛される素質を持った人なんだなと思いますよ」
言葉では褒めているけれど、荻野さんは冷たい突き放すような雰囲気を醸し出す。うろたえる僕を尻目に、荻野さんは日本酒のグラスを傾けてその中身を一気に飲み干した。そしてテーブルにグラスを戻すと、僕の目をじっと見つめてくる。
「西岡さん、どうして優哉なんですか」
真剣な眼差しが僕を捉えて逃さない。問いかけられた言葉に、僕は少し目を伏せて考えた。
「それは……正直に言うと、わかりません。けど藤堂じゃなければ駄目だって思ったんです」
そういえば以前、僕のどこがよくて好きになったんだって、藤堂に同じようなことを聞いたことがある。あの時の藤堂もわからないって答えたんだ。
いま考えればその気持ちがわかるような気がする。理由なんて見つからないんだ。ただただ好きになってしまった。それだけなんだ。
いい大人が子供みたいな恋愛をしていると思われるかもしれないけれど、それでも藤堂が好きだから藤堂だから選んだとしか言いようがない。
「職を失うとしても?」
「はい」
僕の即答ぶりに、ほんの少しだけ荻野さんは驚いた表情を浮かべた。けれどすぐにその表情は険しいものに変わる。
「失うのは簡単ですけど、またやり直すのは簡単ではないですよ」
確かに辞めることは簡単だ、彼の言いたいことはわかる。人生そんなに甘いものではないと言いたいのだろう。それは想像が容易い。
僕はこの十年ずっと教師しかしたことがない。ほかの世界などまったく知らない僕が、この歳でやり直すのは至難の業だ。けれど僕は藤堂の手を取った時に決めてしまった。
「優哉は弟みたいに思っている可愛いやつです。苦しんでいるのを見て、放ってはおけないと思うくらい大事ですよ」
「……いまの藤堂のこと、知ってるんですか」
やはり藤堂は荻野さんを頼って姿を消したのだろうか。けれどもしそうではないとしても、なにかを知っている口ぶりだ。藤堂がいま悩みを抱えて苦しんでいることを知っている。
「西岡さん、あいつの人生を背負えますか?」
「そ、それは」
「丸ごと全部、背負う覚悟がありますか?」
まっすぐな荻野さんの視線に言葉が詰まる。これは安請け合いをして容易く頷いていいことではない。僕は必死に頭の中で考えを巡らせた。それがどういう意味なのか、僕はどうすべきなのか。
「なにがあっても投げ出さない、それができますか」
真剣な荻野さんの言葉に僕は小さく深呼吸をした。人の人生を背負うのは簡単なことじゃない。それは一度経験して失敗をしたからわかる。
「荻野さん、僕には藤堂のいない人生は考えられません。僕の生きていく道に藤堂が必要です。もしその途中で藤堂が助けを必要とするなら、僕は必ず手を差し伸ばします」
けれどいくら考えても何度思い直しても、僕は隣に藤堂がいる人生を選んでしまう。それに僕は藤堂と一緒にいると決めた時、誓った。彼の優しさと愛情に報いるために、その手を決して離さないのだとそう心に誓ったんだ。
「俺は優哉にこれ以上の苦労はさせたくない。優哉はあなたが生きるための道具ではない」
「彼が望んでくれるのなら、僕は一緒に生きていきたいと思ってるんです。僕は藤堂の支えでありたい」
僕一人が幸せになりたいんじゃない。たとえ僕の生きる道が困難に満ちていようとも、藤堂を幸せにしてあげたい。彼が笑って生きていられるそんな人生を送らせてあげたい。
僕は捨てかけた人生を藤堂に救われて、彼に背中を押されて生きる意味を教えてもらった。だから僕にできることがあるなら、今度は僕がなにかしてあげたい。
「藤堂の居場所を知っているのなら教えてください。藤堂に会わせてください。いま苦しんでいるのなら、傍にいてあげたい」
まっすぐにこちらを見る視線を受けて、僕は座っていた座布団を横に避けると正座をして頭を下げた。額が床につくほど頭を下げる僕を、荻野さんはじっと静かに見つめていた。
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