ようやく藤堂に会えるのだと、そう思うと心がやたらとはやる気がした。藤堂の身の回り一切の管理をしているという荻野さんに案内され、向かう先はホテルのスイートルーム。
そこは狭い部屋に藤堂を閉じ込めておきたくないと、時雨さんが用意した部屋のようだ。その部屋で藤堂は毎日を過ごしているらしい。しかしホテルに来てから二週間ずっと閉じこもったままだというのは心配だ。
「とりあえず食事と風呂の世話だけは毎日欠かさずしてるので、栄養状態とかは悪くないと思いますよ」
ただ精神的にかなりふさぎ込んでいるので、医師がその都度様子を見に来ているようだ。精神安定剤や睡眠薬を処方されて飲んでいるという。
退院して伯父や父親と顔を合わせずに済むようになったのはよかったのかもしれないが、他人に気を使う時間がなくなった分だけ、自分の時間が増えて悩むことが多くなったのではないだろうか。一人の時間は一長一短で、藤堂に必要だったのかは考える部分がある。
「主は大人たちに追い詰められている優哉を見ていられなかったから連れ出した。けれど結果を見るとこれがよかったのかどうか」
僕が危惧したことは、荻野さんも感じているようで少し苦い顔をした。
ホテルでの藤堂は起きている時間はぼんやりと考えごとをして、寝ている時はうなされていることが多いらしい。藤堂は自分の悩みを他人に打ち明けるタイプではないから、傍で見ているしかできない荻野さんは、随分と歯がゆい思いをしているのかもしれない。
「そういえば、携帯ずっと繋がらなかったんですけど。なにか知ってますか?」
「ああ、ずっと優哉の携帯に川端の秘書と父親からの着信が絶えなくて、電源を落としていたんですよ。多分それでそのままなのかな」
「あの、事件のことや伯父のことは知っていますか?」
伯父の川端が逮捕されいまは拘束されていることを、藤堂や荻野さんたちはもうすでに知っているのだろうか。僕たちの事件については取り上げられなかったけれど、別件で逮捕されたと言うニュースは新聞にも小さくだが載っていた。藤堂が知らなくても、荻野さんや時雨さんなら知っていそうな気がするのだが。
「川端が逮捕されたらしいというのは知ってますよ」
「じゃあ、もう藤堂は隠れたり逃げたりしなくても」
「それが簡単にはいかないんですよ。川端のほうではまだ優哉を引き取るつもりでいるようです。ですがこちらも優哉をよそへやるつもりはありませんので、母親の承諾を川端がいないあいだに取るつもりでいます」
「え、でも」
母親は精神状態が悪くて入院しているのではないのか。しかし僕の浮かべた疑問に、荻野さんは口の端をゆるりと持ち上げ不敵な笑みを見せた。もしかしてそれも見越して強硬手段をとるつもりだろうか。病院側は藤堂と伯父が険悪なのを知っているし、藤堂が望みさえすれば時雨さんのほうへ肩入れする可能性は高い。
「まだなにも解決していなかったんですね。伯父がまだ藤堂に執着してるとは思いませんでした」
「藤堂彩香が望むことだからでしょう。色ぼけ親父も大概にしてもらいたいですね」
「え?」
呆れたような口調で肩をすくめた荻野さんに思わず驚きの声を上げてしまった。けれどそんな僕を見て荻野さんは優しく目を細めて笑う。
「優哉のことは悪いようにはしません。それは約束します」
「はい、伯父のところで辛い思いをするより、時雨さんのところでやり直してくれるほうが安心できます」
本当は日本でいままで通り過ごせるのが一番嬉しいのだが、いまの複雑な状況を脱するには新しい環境に藤堂を移すことのほうが望ましいだろう。
「西岡さんにも色々な決断を迫ってしまって申し訳なく思っています。けれどあなたが優哉の救世主になってくれるといいのですが」
「僕も、そうでありたいです」
こちらに視線を向ける荻野さんを見つめ返し、僕は小さく息をついた。僕が傍に行くことでなにかが変わればいいのだけれど、藤堂は僕に手を伸ばしてくれるだろうか。傷ついて疲弊した彼を僕はちゃんと救ってあげられるのか、それが心配でならない。
早く会ってその存在を確かめて、触れて抱きしめたい。はやる気持ちがますます加速するような気がした。早く安心したいのかもしれない。
「もしかしたらいまの時間、優哉はもう眠ってるかもしれません。そうしたら西岡さんがよければ泊まっていってください」
「……」
ぼんやりと藤堂のこと考え、床を見つめながら歩いていたら、斜め前を歩いていた荻野さんが急に立ち止まった。慌てて顔を上げて見ると、振り返った荻野さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 西岡さんまで落ち込まないでくださいね」
「あ、はい。大丈夫です」
「優哉のこと頼みますね」
こんなところで落ち込んでいる場合じゃない。ここまで来て弱気になるなんて情けないやつだ。僕がしっかりしなくちゃ駄目だろう。伸ばされる手を待つんじゃなく、僕がその手を掴んであげなくてどうする。
心配げな荻野さんの表情を見て気合いを入れ直すと、僕はまっすぐ前を向いて頷き返した。そんな僕の返事に荻野さんは少しほっとしたような笑みを浮かべる。
「ではこの先はよろしくお願いします」
「ここ、ですか」
目の前に立つ荻野さんの背後には、木目調の重厚な作りの二枚扉があった。そこは僕がいままで利用したことのある、ツインやシングルなどの部屋とは明らかに違う特別感がある。
スーツの内ポケットから取り出したカードキーを使い、荻野さんは扉の鍵を解錠した。引き開けられたドアの向こうは入り口部分は明るいが部屋の奥は薄暗く、間接照明から放たれるオレンジの明かりがぼんやりと見える。
「電気が消えてるってことはやっぱり寝てるのかな。泊まり、大丈夫ですか?」
「はい、平気です」
特に明日の予定があるわけでもない。それに藤堂の傍にいられるのなら、むしろ喜んで泊まらせてもらう。
「隣のベッドも空いてるし、バスローブなんかもあるのでお風呂とか使ってくれていいですよ。お腹が空いたりのどが渇いたりしたら、自由にルームサービス頼んで構わないので」
「わかりました」
「では、今日はゆっくり休んでください」
小さく頭を下げた荻野さんに促され、僕は扉をくぐり部屋に入った。そしてそのまま進みまっすぐリビングの入り口まで行くと、背後でゆっくりと扉が閉まった音がする。
さらに部屋の奥へと歩いて行くと、広いリビングには大きなソファやテーブル、テレビなどがある。そのほかにもリビングから続くダイニングやキッチンも備えられており、生活するには十分過ぎるほどの環境設備だ。
「こっちは水場か、だとしたら寝室は向こうか」
部屋にある二つの扉。その片方を開いたらお風呂などがある水場だった。そっと扉を閉めてもう一つの扉へ視線を向ける。最初からそちらが寝室だと予測できていたのに、反対側の扉を開けたのは緊張のせいだろうか。早く会いたいのに会うことに少し戸惑っている。
「寝てるだろうって言ってたしな」
会ってすぐに顔を合わせて話すと言うことにはならないだろう。まだなにを話したらいいのか、正直言うとよくわからない。会ったら言いたいこともいっぱいあったはずなのに、いまはそれさえも浮かばない。
小さく息をついて僕は寝室へ続く扉を開いた。寝室の大きな窓にはブラインドカーテンが下ろされて、その隙間からこぼれる月の明かりが室内をほのかに照らしている。
部屋に足を踏み入れ扉が閉まると、しんとした中に微かなモーター音が聞こえてきた。なんの音だろうかと首を巡らし室内を見てみたら、部屋の隅に置かれた空気清浄機だった。それは加湿も備えているのか、部屋の中はホテル独特の乾燥した感じがまったくない。
広い部屋の中央にはベッドが二つ隙間なく並んでいる。その片方はベッドメイクされ整えられている。奥にあるベッドは掛け布団がめくれ上がり盛り上がっていた。なに気なく視線を奥へ向けて僕は思わず息を飲んでしまった。
「びっくりした」
暗がりでよく見えなかったけれど、目をこらすとベッドに腰かける背中が見えた。うずくまるように背中を丸めているのはおそらく藤堂だろう。無闇に近づいて驚かせないよう、ゆっくりと足を忍ばせ歩み寄る。
やはりそこにいたのは藤堂で、一度はベッドに入っていたのか黒いバスローブ姿だった。暗闇溶け込んで見えなかったのは、着ているもののせいだったのか。
「藤堂?」
すぐ傍まで行っても藤堂は俯いたまま顔を上げない。もしかして眠っているのだろうかと、僕は床に膝をついて藤堂の顔を覗き込んでみた。
膝に両腕を乗せて俯く藤堂は眉間にしわを寄せ、ぎゅっとなにかをこらえるように目を閉じている。あまりにも苦しそうに目を閉じているので、握り合わせている藤堂の手に思わず自分の手を重ねてしまう。
「大丈夫か?」
そっと手を伸ばし藤堂の頬に触れると、じんわりと微かな温かさを手のひらに感じる。確かに存在を感じさせるその温かなぬくもりに触れて、胸の強ばりが少し解けた気がした。けれど目の前の藤堂を見ていると心配が募る。
「藤堂」
なにを思って苦しんでいるのだろう。藤堂の心の内にあるものを、その目を開いて教えて欲しい。願い請うように僕は藤堂の手を握りしめた。
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