あれから藤堂は学校へ復帰して、無事に卒業を果たした。休んでいたあいだの分は課題やテストで補ったけれど、それは藤堂にとってあまり難しいことはではなかったようだ。
そして卒業後は慌ただしいくらいすぐに時雨さんの元へと旅立っていった。寂しいと言っている暇がないくらいあっという間で、少し拍子抜けしたほどだ。
僕はと言えば、予想通り藤堂の卒業式は見ることは叶わず、その後は一年の休職を余儀なくされた。しかし免職にならなかったのでこれは不幸中の幸いだろう。
それに休職にはなったが相手の生徒についてはほぼ不問に付す形になり、ことを公にされることにもならなかった。これは理事長の急な退任という出来事があり、僕に構っている暇がないというのもあるが、新崎先生の働きかけに寄るものが大きい。
自分のことはもちろんだが、藤堂のことが取り沙汰されるようなことにならなくて本当によかったと思う。それだけで一年の遅れなど大したことではないような気になった。
そうして藤堂がいない僕の日常が少しずつ変化しながらも刻々と静かに流れていった。その時間は驚くほど早くどんどんと過ぎていき、季節は何度も巡った。
大人の一年は早いとよく言ったものだが、それを今頃身をもって体験している気がする。一日がひと月が本当に早くて、周りの流れもあっという間だ。
午後の柔らかな日差しにあくびを噛みしめつつも、教科準備室をあとにして渡り廊下を歩いていたら、廊下の先――中二階の踊り場にこちらを見る視線があった。
その人はちょうどこちらにやってくるつもりだったのか、まっすぐと僕のほうへ向かって歩いてくる。そして目の前までやってくるとその足を止めた。
「西岡先生」
「あー、間宮、じゃなくて柏木」
「もうそろそろ慣れてもいい気がするのですが、覚える気ないですか?」
僕の返事に眼鏡のブリッジを押し上げ、少し眉をひそめるのは間宮、ではなく柏木だ。あのストーカー騒ぎで結婚していることがわかったが、あれからしばらくして離婚をした間宮は苗字が旧姓の柏木になった。
もうその苗字になって随分と経つのだが、顔を見るとつい前の苗字である間宮が口をついて出る。申し訳ないと思ってはいるけれど、もはやこれは条件反射というものだ。もう変えるに変えられないので、このまま間宮と呼ばせてもらおう。
ぶつぶつと文句を呟きながらも半ば諦めている様子の間宮は、僕の目の前で大げさなほど肩を落とす。
「悪いと思ってるよ」
「まあ、西岡先生なので、いいですけど」
あの一件以来、僕と間宮の距離は一度は大きく離れた。職場に復帰後、いきなりこの男が僕に距離を置いてきたのだ。
当初は避けるようにして僕に関わらず、口を利かない目も合わせないという状態だった。でもそれが気に入らなかった僕は、こちらから思いきり近づき距離を埋めていった。
一年のブランクもあって周りはそれほど気に留めていなかったけれど、なんとなく空けられたその距離が腹立たしかったのだ。そんな僕に間宮は大いに慌て戸惑い、見ているのが愉快なくらいだった。
変な罪悪感を持って接しようとするからだ、ざまあみろと正直言えばそう思った。
随分とひねくれた対応をしたけれど、いまはまた前のような距離感に戻った。以前ほど教科準備室へ来ることはなくなったが、明らかに避けられることがなくなったのでよしとしている。
「ところでなにか用だったのか?」
「あ、そうだ!」
行く手を遮られていることに僕が首を傾げたら、間宮は慌てた様子で道を空ける。そして自分の任務を思い出したのか両拳を握った。
「あの! 飯田さんから美味しそうな焼き菓子が届いたので、みんなでお茶にしませんか?」
「ああ、飯田かぁ、元気にしてるかな」
どうやら間宮の用事はおやつの誘いだったようだ。放課後になると手の空いた先生たちが集まって、会議という名ばかりの集会が開かれる。
お茶にお菓子も広げてそれは和やかな集まりだ。今日はどうやら飯田から送られてきたお菓子がメインのようだ。
僕の唯一の同期だった飯田は今年の春に退職した。実家の家業を継ぐのだという話だった。それまであまり実家の話は聞いたことはなかったが、両親が和菓子屋を営んでいるのだという。
父親が体調を崩して倒れたのを機に、夫婦で実家に戻り店の経営に携わることにしたらしい。今頃は親孝行しているのだろうか。
「あいつの家のお菓子はうまいからなぁ。なくなる前に戻るぞ」
「はい!」
一通りお菓子は職員全員に配られるものの、残りは早い者勝ちだ。ちょうど甘いものが欲しかったので、僕は急いで職員室へ戻ることにした。急ぎ足で歩く僕の後ろを間宮がついてくる。
「飯田さんが辞めてからもう六ヶ月ですか。早いですね」
「そうだな。でも今年の春は驚きがあったから、なんだか半年もあっという間だったな」
「ああ、確かに私も驚きました」
飯田が辞めると聞いた時も驚いたが、新しい先生が入ってくると聞いた時も驚いた。毎年入れ替わりが少なからずあるけれど、着任が決まったのはやたらと大物感が漂う新人で、初めて知らされた時は耳を疑った。
その大きな驚きは僕だけなく、ほかの先生たちも同様だった。
「センセ」
階段を下り、生徒玄関前を抜けて職員室に向かっていると、その先から聞き慣れた呼び声がする。
その声に顔を上げれば、廊下の窓から射し込む日差しを受けて眩しいほどに煌めく人物がいた。噂をすればなんとやらで、それはいまちょうど話していた新任教師だ。
すらりと背の高く、均整の取れた身体にまとったスーツは派手さもないシンプルなグレー。それは新人が着るには控えめでぴったりな色合いだと思う。
しかし長い手足もすっきりと収める彼のオーダースーツは、しっかりと着こなされていてものすごく新人らしさに欠ける。それは若々しさが足りないとかそういうことではなく、初々しさが足りないと言えばいいのだろうか。
「峰岸、なにしてるんだ、そんなところで」
「マミちゃんがセンセ迎えに行くって言うから、待ってた」
今年の春に新しく着任したのは峰岸一真――在校中はその存在感と周りを魅了するカリスマ性で生徒会長を勤め、生徒だけではなく先生たちすら一目置いていた元生徒だ。
小さく首を傾げてこちらを見る目はやんわりと細められ、口元は弧を描き綺麗な笑みをかたどっている。
いつみても隙がないほどのイケメンぶりだ。その華やかさは年を経てさらに磨きがかかったように思える。在校中は茶色い髪で前髪や襟足が少し長めだったが、いまは髪を黒に近い焦げ茶色に染めて首元がすっきりとした髪型になっている。
色味が落ち着いた分、軽い感じがなくなって大人の色気が増したのではないだろうか。
その完璧過ぎるルックスは大学時代には有効活用されていたようで、モデルとして様々な雑誌に華を添えていた。高校三年の夏に一度だけカメラの前に立ったあれがきっかけのようだ。
てっきり僕はそのままプロのモデルとしてやっていくのだとばかり思っていたので、峰岸が教師になったと聞いた時には驚きしかなかった。
「わざわざこんなところで待たなくてもいいだろ。中で先生たちと待っていればいいのに」
「先生たちの井戸端会議にはそんなに興味ない」
「だったら混ざらなければいいのに」
肩をすくめて笑った峰岸に僕は思わずため息を漏らす。教師として再会して真っ先に、以前と変わらず好きだけどあいつとのあいだに横入りするつもりはないからと言われた。
一体なんの宣言なのだろうと思ったのだが、峰岸のスキンシップの多さは在校中と本当に変わりなく、言われていなければ戸惑ったかもしれない。
それにいまもこうしてなにかと僕にべったりなところがある。しかしほかの先生たちと馴染んでいないのかと言えばそんなことはなく、もう何年目だろうかというくらい職員室にも馴染んでいる。
僕のあとをついて回るところはあるけれど、間宮の新任当初と比べたら峰岸のほうが遙かに社交的だ。
悪いところはないのだが、気になると言えば気になる。けれど僕は峰岸との付き合いで学んだのだ。下手な藪はつつかない、それが一番に厳守するところだと思う。だからどんなに気になってもその部分は見なかったことにする。
にこやかに笑う峰岸に僕は息をついて肩をすくめた。
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