優哉を連れて帰った夏休みのあの日、詩織姉はひどく怒って悲しんだ。彼女の心配することもわかったし、反発の気持ちが生まれるのもわかった。たぶんそれはその場にいたみんなが一度は感じたことだ。
いまはなにごともなかったように笑っているけれど、それはすべて家族の協力あってこそだろう。詩織姉を支えた保さん、僕の代わりに優哉のことを伝えてくれた母、中立の立場で見守ってくれた佳奈姉。
みんながそれぞれ僕たちのことを思ってくれたからいまがある。全員が悩んだようにアレクだって最初から手放しで喜んでくれたわけじゃない。家族のことを考えて、僕のことを考えて、それから答えを探してくれた。
こんなに周りに恵まれているなんて、そうあることではないと思う。だからみんなが僕たちを思ってくれるようにみんなを心から思える自分でありたい。
「優哉くんって子供の扱い慣れてるわね」
「ああ、幼馴染みの弟が小さかったからそれでじゃないかな」
軽い昼食を済ませたあとはここから少し先にある知人の家で、おもちをたくさんついたからと連絡がありアレクをお供に母は出掛けていった。
姉の旦那さんにすべて任せきりなことが気にかかるが、お客さんのつもりでゆっくりしていなさいと言う母の言葉に甘えた。いまは佳奈姉とのんびりおやつにありついている。手作りの豆腐ドーナツは甘さ控えめでおいしい。そして小ぶりなせいか食べる手が止まらない。
しかしいつもはおやつに目がない詩織姉は今日は珍しく眠いからと二階へ上がった。心配した保さんが彼女に付き添っている。そして姉の代わりに優哉は蓮の面倒を見てくれていて、一緒に積み木を並べたりお絵描きしたり、すっかり懐いてしまったようで甥っ子は彼の膝の上で実に楽しそうだ。
おかげで二人のベストショットにカメラを構えずにはいられない。先ほどからシャッターを切ってばかりだ。
「デジタルカメラ持ってきて良かった」
「アルバム、何冊作る気よ」
「何冊でも! この瞬間はいましかないだろ。あっという間に大きくなるし」
「あんたお父さんに似てきたわね。あの人もよくそんなこと言ってたわよ」
「そうなんだ」
高校の時に亡くなった父。もう随分時間が流れて記憶も曖昧になってきたけれど、いつもカメラ片手に笑っている人だった。この家はあの人が撮った写真で溢れている。僕たちが写った家族写真だけでなく、風景や生物を撮った写真なども多くあった。
詩織姉が生まれた時からのアルバムがほとんどだが、母と二人だけの写真も結構多くて大事に保管されている。当時はこんなにたくさんと呆れもしたけれど、たくさん残してくれたおかげで思い出が色褪せない。
撮っているのが父なので彼の写真が少ないのは残念だが、母や姉が撮った不器用な写真は少しだけ残っている。
「父さんって、写真の道に進みたいとは思わなかったのかな」
「どうなんだろう。あの人って仕事大好きって感じじゃなかった? まあ、ものをあまり語らない人だったから、ちょっと謎な部分も多いかもね」
「休みの日に姿が見えないこともよくあったよな」
「でもお母さんはなんにも気にしてなかったから、浮気ってわけじゃないでしょ?」
「浮気? 父さんが? あり得ない。あの人は母さんにベタ惚れだっただろ」
いくつになっても仲睦まじい、その言葉通りに両親はとても仲が良かった。結婚記念日には毎年薔薇の花束を抱えて帰ってくるし、母の誕生日には有名なケーキを並んでまで買ってくる。
毎年夏に母が浴衣を縫うのはあの人のために始めたことだし、お祭りの日に家族写真を欠かさないのも二人の習慣から始まった。
「父さんの病気、母さんは知ってたのかな」
「んー、わからないわね。うちのお母さんのんびりしているようで気丈な人だし、私たちに気づかせまいとしてたとも考えられるけど。もしかしたらなにも知らなかったかもしれない。でもいまさらそんなこと聞いても仕方ないわよ」
僕たちに知らされた時にはもう父の病気は末期で手の施しようがなかった。どうしてそうなる前にちゃんと治療をしてくれなかったのか、家族に言ってくれなかったのか。そう思ったこともあるけれど、どんな時も前を向いて笑いなさい、そう言っていた父だからこそだったのかもしれない。
きっと最後まで僕たちの笑っている顔を見ていたかったんだ。微笑みを浮かべて眠っているかのような最期だったと、担当医が言っていた。
「母さん、泣かなかったよな」
「そうね」
「色々あったけど、ようやく親孝行できたかな」
「孫も二人いれば十分でしょ。優哉くんも帰ってきたし、これでひと安心だわ。なによりいまあんたが前を向いていることが親孝行よ」
「うん、いっぱい迷惑かけたよな」
「生きてれば、そんなこともあるでしょ」
僕が立ち止まっているあいだずっとみんなに負担をかけていただろうと思う。色んなことをきっと我慢させていた。長いあいだ長女夫婦に子供がいなかったのは、僕のせいではないかと思う。
それを考えるとひどく胸が痛くなるのだが、そうやって僕が俯くことは誰も望んでいない。
「優哉がいつか結婚式を挙げようって」
「へぇ、言うじゃない。楽しみにしてる」
「……うん、僕も楽しみだ」
「あんたはそうやって笑ってなさいよ。それだけでみんな幸せになるから」
「なんでかみんなそう言うんだけど。そこまで僕は不幸のどん底だったってことかな?」
「どん底もどん底だったじゃない。でもいいのよ。人間落ちたらあとは上がるだけ」
首を傾げた僕に佳奈姉はあっけらかんと笑った。その笑顔につられて笑えば、満足そうに目を細めて姉はドーナツにかぶりつく。みんなが僕にそう思うように、僕もみんなが笑っていれば幸せだと思う。
「さっちゃ」
「ん? 蓮、どうした」
「あげる。さっちゃとゆうにゃ」
「ああ、蓮はお絵描き上手だな。ありがとう」
トコトコと近寄ってきた蓮は得意気に画用紙を差し出してくる。クレヨンで描いた似顔絵はぐりぐりと色を重ねただけのものだけれど、一生懸命に描いたその気持ちが嬉しくなる。にっこりと笑みを浮かべる蓮を膝の上に載せると、あれこれ指さして説明してくれた。
「かなちゃとみーちゃ」
「えー、なに、あたしの分もあるの?」
「うん」
重なったもう一枚の画用紙を差し出されて佳奈姉も嬉しそうに頬を緩める。頭をくしゃくしゃと撫でられた蓮はきゃっきゃと声を上げて笑った。たくさんある画用紙にはほかにも母やアレク、詩織姉や保さんもいる。
それを見ていると家族がたくさんいるのはいいことだなと思う。ふと視線を持ち上げればこちらを見ていた眼差しが優しく細められた。いまこうして彼と家族と一緒にいられることがたまらなく幸福だと感じた。
「あら、お姫様が起きた」
「おむつかもしれないですね」
「泣き声でわかるとはイクメンの素質ありね」
静かだったリビングに佳奈姉の愛娘、美佳の泣き声が響く。立ち上がった優哉がベビーベッドに近づくと、ジタバタとしながら小さな手を伸ばした。それに笑みをこぼして抱き上げれば、怪獣のような鳴き声が小さくなる。
「ちょっとうちの娘、あんたの旦那に慣れて面食いになりそう」
「赤ちゃんの頃におむつ変えてもらってたよ、なんて言ったら、思春期に恥ずかしがりそうだな」
「あり得そうで怖いわ」
手慣れた様子で汚れたおむつを替えていく優哉に、姪っ子は可愛い笑顔を浮かべて紅葉みたいな手をぶんぶんと振る。ベッドに戻そうとするとむずがるようにいやいやして、結局は彼の腕に収まった。
将来がほんとに末恐ろしい。姪っ子と恋人を取り合うのはちょっと勘弁だ。思わず眉間に力が入ったら、それに気づいた優哉が口の端を持ち上げて笑う。
「二十四歳差、ない展開じゃないわね」
「ちょっと佳奈姉! ない! ないから!」
「えー、うちの子の恋愛は寛容でいたいわ」
「やめろ、ほんとに! いくら可愛い姪っ子でも優哉はやれない!」
「大きくなったらいい女になると思うんだけど」
父親譲りのブロンドに青い瞳は確かに魅力的だ。大人になって多少髪や瞳の色が変わることはあるかもしれないが、ハーフというのはどちらに似てもエキゾチックな雰囲気が残る。佳奈姉も顔立ちは悪くないし、アレクも優しい顔をしている。
しかしだからと言ってここで頷きようがない。ますます眉間に力が入って口がひん曲がってしまう。
「すみません。残念ですが、俺は女性は駄目なので」
「あー、そっか、そうだった。ざんねーん!」
見かねたように言葉を挟んだ優哉の瞳には愉悦の色が見える。おそらく僕の反応を楽しんでいたのだろう。気持ちを見透かすように面白がっていたのはちょっと腹が立つけれど、ちゃんと言葉にしてくれたのは嬉しかった。
「さっちゃ、ゆうにゃ、すき?」
「え? あー、……うん。好きだよ。大好き」
「れんも、さっちゃ、すき!」
「ほんとに? そっか、ありがとう。僕も蓮が好きだよ」
小さく首を傾げた蓮は僕の言葉にぱっと明るい笑みを浮かべる。そして僕が小さな頭に頬をすり寄せると振り返り両手を伸ばしてきた。それを受け止めればぎゅっと首元に抱きつかれる。
「優哉くん、顔、顔!」
小さな身体を抱きしめると佳奈姉がおかしそうに笑い声を上げた。視線の先にはふて腐れたような顔があって、僕もこらえきれずに笑ってしまった。してやったり、ちょっと気分が良くなった。
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