あれこれとお返しについて悩んでいるうちに、前菜の盛り合わせが出され、それを食べ終わる頃には程よくパスタが出てきた。
なにげなく店内を見渡すとほとんどのお客は食事を終えていて、食後にお茶を飲んで話に花を咲かせているところだった。
気づけば三組いたお客は一組が帰っており、カウンターテーブルに至っては二人ともすでに帰ったようだ。思ったよりも考え込んでいた自分に気がつく。
「手作りのものをもらったから手作りを返したいけど、料理は相変わらずそんなに得意じゃないしな。あ、でもクッキーくらいなら僕にでも焼けるかも」
前に確かクッキーは分量をしっかり量って混ぜるだけなのでそれほど難しくないと優哉が言っていた。経験者と未経験者では簡単という言葉にもかなり差異があるけれど、何度か練習すればできるかもしれない。幸いホワイトデーまでには日がある。チャレンジしてみよう。
思い立てばあとはレシピを調べるだけだ。行儀が悪いと思いながらもパスタを食べながら、携帯電話を片手にあれこれ検索をした。
「小麦粉にバターに卵、砂糖。これだけでいいんだ」
調べてみると思ったよりも簡単そうに見えた。材料が少ないのがややこしくなくていい。もっと凝ったものをと思えば材料が増えてくるのだろうけど、まずは一番難しくないプレーンが作れるようになれば上出来だろう。レシピのいくつかを手帳に書き写すと僕は携帯電話を閉じた。
「こんなに美味しくはならないかもしれないけど」
パスタのあとに運ばれてきたのは生クリームをたっぷりと添えたガトーショコラだ。甘くてしっとりとしたそれは、一口食べたらもう一口と止まらないほどの美味しさだった。
「佐樹さん」
甘味を補給して幸せに浸っていると、ふいに目の前の席に誰かが腰かけた。視線を持ち上げてみると白いコックコートが目に入る。それを目に留めた瞬間、思いきりよく顔を上げてしまった。
「優哉」
「食事はどうでした?」
「どれも美味しかったよ」
小さく首を傾げた優哉にフォークを握りしめ答えると、優しく目を細めて笑ってくれた。そのなにげない笑みで胸が温かくなった気がする。思わず見惚れるように彼を見つめてから、ふいに僕は辺りを見回した。
「お客さんもう帰ったのか」
「少し前に最後のお客が帰りましたよ」
「そ、そうだったのか」
今度はどうやら食べることに夢中になっていたようだ。思えば優哉はお客がいるあいだは厨房から滅多に出てこない。特に昼間は女性客が多いから、表に顔を出すことが少ないのだ。それでも遠くから優哉を眺めている子たちがいるのは少なからず知っている。
味の評判がいいのと合わせて、優哉のルックスが客を引き寄せている部分もいまはあるのだ。もう少し時間が経てば、純粋に料理を楽しむお客が増えてくれるだろうと思ってはいるけれど。
しかし軌道に乗るまでのあいだはマイナスなことがない限り、そういうお客もありがたいと優哉は言っていた。
「最近は予約が増えてきたって聞いたぞ」
先日来た時に日笠さんが嬉しそうに話してくれた。いつ来ても程よく客が入っているし、だいぶ常連客も増えて店の営業はかなり順調のようだ。
「ええ、昼間も回転がよくて助かってるんですけど、夜の予約が結構増えてきました」
「ディナーの時間帯は単価も高くなるし、売り上げにもいい影響が出てるんじゃないか」
「そうですね。みんなにお給料も出さないといけないので頑張ります」
少人数精鋭。三人で店を回しているので大変なことも多いだろう。店は毎週水曜日の週一の休みだ。第二火曜日も休みの予定だけれど、特別なイベントごとや予約が入れば店を開けることもある。そして日笠さんは毎週二回の休みだから、週に一度はエリオと二人で回すことになるのだ。
エリオは普段ピザを焼いたり優哉の補助をしたりしているが、その時ばかりはホールと厨房を行ったり来たりするらしい。エリオが忙しい時には優哉も外に出て行くこともある。
「あれ? そういやもうランチは終わり?」
「ラストオーダーの時間が過ぎたので終わりです」
ふと腕時計に視線を落とすと十四時半を過ぎていた。この店は十五時から十七時までアイドルタイムがある。なのでこの時間にはラストオーダーとなるのだ。店をクローズしているあいだは休憩をして食事をとり、そのあとは夜の仕込みに取りかかる。
「そういえば、さっきまでなにしていたんですか?」
「え、あ、うん。調べ物」
「そうですか。珍しく熱中してるからなにかと思った」
こちら側から厨房がよく見えるということは、厨房側からもこちらがよく見えるということだ。僕が携帯電話にかじり付くように見入っていたのを、遠くから気にしていたのか。しかしここでネタをバラすわけにはいかない。できれば当日まで内緒にしておきたい。
「ごちそうさま。今日はそろそろ帰るよ」
「え? もう帰るんですか?」
「うん、帰ってやることがあるから」
すごく残念そうな顔をされてしまったが、早く家に帰って試してみたくなった。優哉が家にいるあいだはできないし、帰ってくる前に片付けなくてはいけない。
そう考えると週末の休みに作業するのが一番いいだろう。当日まではあと二週間と少しあるから、早く帰宅した平日と合わせて練習することにしよう。
慌ただしく会計を済ませると、寂しそうな顔をする優哉を抱きしめてから店をあとにした。そしてのんびり駅までの道を歩きながら、これからすることにワクワクと胸を躍らせる。
「砂糖は家にあるのを使えばいいよな。卵はもう少しで切れそうだから買ってもいいかな。あとは小麦粉とバターを買えばいいか」
キッチンは基本的に優哉の城なので、見慣れないものがあるとすぐに気づかれてしまう。小麦粉はキッチンではない棚にしまい、バターは紙袋に入れて冷蔵庫にしまうことにすればいいだろうか。
調理器具は揃っているのでわざわざ揃える必要はないし、レシピもネットで調べられる。あとは僕の気合いだけだ。
「よし、頑張ろう」
気合いだけなら充分なほどある。あとは不格好でも味さえよければなんとかなるはずだ。優哉の喜ぶ顔を想像して僕は口元を緩めた。
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