俺はいつも約束を違えてばかりだけど、もう二度と彼を一人にしないと誓いたい。離れたあの時間は無意味なものではなかったが、それでも彼にとっては長い時間だったろうと思う。
だから俺はこれから先、彼を残してどこにも行かない。目の前にある笑顔が続くように、彼の傍で寄り添っていきたい。
「僕たちが何度も出会えたのは、本当に奇跡みたいなことだと思う。あの時お前がいなかったら僕はきっと生きてはいなかった。僕はお前に救われたんだ」
「俺も佐樹さんに会わなかったら、きっと全部投げ出してた。先の未来に期待なんか持てなくて、母親の歯車に巻き込まれて、それでもそれがマシな生き方なんだって思って生きていたんじゃないかな。受験の日、佐樹さんに会って、この人の傍で生きていける道があるんだって思ったら、急に目の前が明るくなった」
初めて彼の名前を聞いた時、すごく胸が高鳴って気持ちがひどく高揚した。その名前を紡ぐのが嬉しくて、胸に湧いた好きだって感情を思わず言葉にしてしまうくらい。
自分がしたことが怖くなって逃げ出してしまったけど、それでもあの時は本当に世界が眩しく輝いて見えた。離れずに傍にいられるかもしれないって思うだけで、想いが報われたように思えた。
「初めてお前に会った時さ。お前と別れるのが嫌だなって思ってたんだ。でもあの時の僕たちが一緒にいたら、きっといまのような関係にはならなかったと思う。きっとお前はずっと僕を好きでいてくれただろうけど、僕の中に恋心は芽生えなかった気がする。ただ寂しさを埋めるためだけに縋って、お前に依存するだけだったんじゃないかって」
「そうですね。俺もきっとあなたを笑顔にしてあげるのは難しかったかもしれない。俺はひどく未熟で幼くて、いまでさえ時折あなたを悲しませる。だからきっと自分自身のことで精一杯になって、あなたのことを傷つけるだけになっていたと思います」
あのまま俺たちが一緒にいたら、傷をなめ合うだけの関係になっていただろう。それを愛情だと勘違いしたまま、きっといつまで経っても心の中にある闇からは抜け出せなかった。
「そう思うとさ。いまが最善なんだよ」
「そうかもしれませんね」
「優哉、確かに僕はいまも昔もお前がいなくて寂しかったし悲しかった。もうこの先は離れたくないって思う。でも僕たちのしてきた選択はやっぱり間違いじゃないって思うんだ。だからお前が僕の言葉で傷つく必要はないよ」
まっすぐとこちらを見る目は光を含んで綺麗に輝いている。芯の強い揺るがない瞳は、いつの間にか俺の心まで見透かすようになった。昔はお前の考えていることがわからないって怒っていたのに、いまでは言葉にしなくても俺の心の奥底をすくい上げる。
それなのに彼のために俺はどれだけのことをしてあげられただろう。俺がすぐに萎れてしまうから、佐樹さんはいつも言葉を紡げずにいる。きっといまも俺が浮かべる表情に胸を痛めているに違いない。
「佐樹さん、俺は弱くて、脆くて、ちっとも強くなれません。だからどうしても揺らいでしまうこともあると思います。でもあなたにはなに一つ我慢をして欲しくない。前にも言ったけど、俺はあなたのためならなんだってできる。だからなんでも言葉にしてください。俺に伝えてください。ちゃんと受け止めます」
「……うん、そうだな。あんまり寂しいなんて言うと、お前が後悔するんじゃないかって言えなかったんだ。せっかく新しい場所でやり直して、一生懸命頑張ってるのに、その妨げになるんじゃないかって。そんなことになったら嫌だなって思って」
俺の時間は彼の我慢の上に成り立っているんだなと思った。電話もメールもやめようと言い出したのは佐樹さんからだった。それはきっと何気ない会話の中で本音を呟いてしまわないようにするためだ。
それを聞いた時、俺がどんな行動をするかは予測できていたのだろう。だから言葉にはできなかったんだ。
「俺は佐樹さんに我慢をさせてばかりですね」
「僕はお前の枷にはなりたくなかった。どんな時でもお前が飛び立てるようにしてやりたかった。だから我慢なんてしてない。これは僕が望んだことだ」
それが容易いことではないことを、彼はどれほどわかっているだろう。愛しているからって、相手のすべてを抱きしめてあげられる人は少ない。その重さに耐えきれずに亀裂が生まれて、離れてしまうことだってある。
でも佐樹さんはきっとそんなことは考えていない。俺を抱きしめる手がどんなに傷ついて、ボロボロになっても、その手を離したりはしないだろう。
彼はそういう人だ。言葉にはしないけど、深く人を愛する人だ。
「なぁ、優哉。いままでいろんなことがあったけど、僕はお前に愛されて幸せだったよ。だからいまもこの先の未来も、お前といられるならそれだけでいいって思えるんだ」
「佐樹さんはもう少し欲張ってもいいよ」
「お前の全部が欲しいって言った僕は、十分欲張りだよ。でも僕もまたいつか不安になる時があると思うんだ。きっとお前に悲しい思いをさせる」
「それは言葉にしていいんです。佐樹さんは俺に言葉を飲み込むなって言うでしょう? それは佐樹さんも一緒ですからね。一人でため込まなくていいんですよ。不安になったら、俺にぶつけてください。大丈夫、俺はあなたの手を絶対に離したりしない」
周りの大人たちに比べたら、俺はまだまだ青くて頼り甲斐がないだろう。佐樹さんは俺のことを守ってあげなくちゃいけないと思っているかもしれない。でもそれ以上に俺もそう思っていることを知って欲しい。
この手ですべてを守ってあげることはできないかもしれないけど、自分のすべてを賭けて愛していきたいと思っている。
「佐樹さん」
「なに?」
「今日は渡したいものがあったんです」
「渡したいもの?」
まっすぐに瞳を見つめたら、彼は不思議そうに首を傾げた。その顔に優しく微笑み返して、ずっと傍らに置いていた小さな紙袋を持ち上げる。
白地にシルバーの文字で店名が刻まれているが、きっと佐樹さんはそういうのに疎くて気づいていなかったと思う。でも見る人が見ればわかるものだ。
「左手貸して」
「え? あ、うん」
この先の展開がまだ読めていない彼は、言われるままに手を差し伸ばしてくる。その手を握って、長いこと恋人の左薬指で輝いていたリングをそっと抜き取った。そんな俺の行動に佐樹さんは少し戸惑ったような表情を浮かべる。
「これはあなたを大事にしたい、つなぎ止めたいって言う気持ちの表れだったけど、誓い直したいんです。佐樹さん、いまの俺があなたを幸せにします。だから今度からはこっちをつけてください」
紙袋から取り出した小さな箱に収められていたのは、光を受けて煌めく白金の指輪。緩やかに曲線を描いたそれは彼の綺麗な細い指にしっくり馴染んだ。それを見つめている佐樹さんはまだ状況が飲み込めていないのか、瞬きを忘れている。
「誕生日プレゼントです」
「え! だってこのあいだもらった」
「あれは間に合わせで、本当はこっち。ちょっと時間がかかって間に合わなかったんです」
「そうなんだ」
手をかざしてじっと指輪を見ている彼の瞳がキラキラと輝き出す。ほんのり頬を紅く染めてそれを見つめているその表情に、思わずほっと息をついてしまった。いままでずっと佐樹さんは最初にあげた指輪を大事にしてくれていた。
子供が買える程度のそう高くないシルバーリングなのに、毎日磨いてくれていたからいまも新品みたいに輝いている。それなのにいまさら新しいものをあげると言うのはどうなんだろうかと、そう思いはしたが、あの頃といま、それに区切りが欲しかった。
いまでもそんなに誇れるような大人になれたわけじゃないけど、新しく歩き出した自分は前に進むことにさえも必死だったあの頃とは違う。だから子供の頃の拙い想いではなく、彼の人生のパートナーとして、これからも一緒に歩いて行くと言う決意を形にしたかった。
「シルバーリングはミナトからもらったリングケースにしまっておいてください」
「え? なんで知って、え、ちょっと待った。……わ、ほんとだ」
俺の言葉に慌てて鞄を開いた佐樹さんは、その中にしまわれていたプレゼントを取り出した。そしてリボンをほどいて箱を開くと、目を見開いて驚きをあらわにする。ミナトが佐樹さんに贈ったのは、涼やかなブルーシルバーのリングケースだった。
「あいつは昔から不思議と勘が良かったんですよね」
「優哉」
「なんですか?」
リングケースをマジマジと見つめていた彼は、ふいに顔を上げて俺の目をまっすぐに見つめてくる。その視線の意味を悟れずに首を傾げると、きゅっと口を引き結んだ。そして左手をずいとこちらへ差し出す。
「これ、ペアだろ。リングケース、どう見ても一個分じゃない」
「あ、あー、それは」
「ずるいぞ。僕もお前からもらったリングを外すんだから、お前も外せ」
目を細めた佐樹さんは笑って誤魔化そうとした俺に手のひらを向けた。そのまましばらく見つめ合ったままでいると、催促するようにさらに手を伸ばされる。
頑なな彼の瞳にさすがにこのままではいられないと、俺は小さく息を吐いて紙袋の中からもう一つの箱を取り出した。そしてそれを目の前の手のひらに預ければ、至極満足げな笑みを浮かべる。
「優哉、左手」
「……はい」
言われるがままに手を差し出すと、薬指からブラックプラチナの指輪がゆっくり引き抜かれた。彼の手に外されるとなんだか心許ない気持ちになる。先ほど戸惑っていた佐樹さんの気持ちがわかるような気がした。
けれど新しい指輪をそっとあてがわれると、なぜだか背筋が伸びる思いがする。彼の指にはめられた指輪と対になるそれは、二つ合わせるとぴったり寄り添う形になっている。それに気がついたのか、手を並べてふんわりと優しく微笑んだ。
「こっちの指輪は一緒にしまって置くから、今度からはこれをちゃんとつけるんだぞ」
「わかりました」
「うん。優哉、ありがとうな」
まっさらな輝いた笑顔を向けられて、胸が高鳴って心が躍って仕方がない。俺はきっとこの先も何度も何度も彼に恋をしていくのだろう。日々を重ねるたびに彼のことをもっと好きになる。
時々傷ついて、傷つけて、涙を流す日もあるかもしれない。それでも彼と過ごす毎日はなににも変えがたいものになる。
「佐樹さん、俺はまだ思うほど強くなれていないけど。あなたに惚れ直してもらえるように頑張りますね」
「いまでもお前のことしか見えてないのに? これ以上好きになったらお前なしじゃ生きていけなくなる」
「いいですよ。俺はあなたより長生きしてみせますから。もうあなたを置いていったりしません」
「なんかプロポーズみたいだな」
やんわりと目を細めた彼は照れたように笑う。そして確かめるみたいに何度も薬指の指輪を撫でた。指輪を見つめる眼差しが柔らかくて、なんだか胸の奥が温かくなってくる。
俺は一度、彼のいない世界を想像したことがある。彼のいない世界で生きていくために、彼から距離を置いて独りになろうとした。でもその世界は真っ暗闇で、光が一筋も射さない冷たい場所だった。
その闇は底さえも見えなくて、もう彼に触れられない、彼に会えないのだと思えば思うほど、気がおかしくなりそうになるくらい怖かった。
でもこれから先、彼と一緒に歩いていって、彼が先にいなくなってしまったとしても、俺はきっと大丈夫だ。悲しくなると思う、寂しくて胸に穴が空いてしまうかもしれない。それでも彼と一緒に過ごした思い出がある限り、まっすぐに生きていけると思う。
「佐樹さん、約束します。俺はもう絶対にあなたを一人きりにはしません」
「うん、約束な。僕もずっと、お前の傍にいたいよ」
ほんの少し涙が浮かんだ笑顔に、つられたように喉が熱くなった。
いまの俺があるのは佐樹さんの心がずっと傍にあったからだ。だからもう一度、二人で約束を交わそう。この先にある未来が続いていく限り、俺はずっとあなたを愛し続ける。その手を繋いだら、もう二度と離したりはしない。
[約束/end]
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