36.それは思い出の一つに変わる

 じわじわと火照る頬から気をそらすように麺を啜りスープをグビグビと飲み干す。それでもいままで感じてきた小津のぬくもりを思い出して、光喜はぶんぶんと首を振る。隣の勝利にはひどく訝しげな顔をされたが、食事が済んだのを見計らい慌ただしく立ち上がった。
 足早に店を出ると数メートル先に人影が見える。紫煙を立ち上らせる横顔はいつも撫で上げている前髪が下りていてほんの少し若い印象があった。着ているものも隙のないスーツ姿ではなくポロシャツにスラックス。足元はサンダルを引っかけている。

「冬悟さん!」

 ご機嫌な様子で勝利が声をかけると俯きがちだった顔が振り向いた。そしてまっすぐに恋人を見つめてやんわりと微笑む。いつ見てもその目には勝利しか映っていない。
 光喜と同じく鶴橋もいままでは女性としか付き合ったことがなかった。それでもいままでの経験をすべて覆して勝利を選んだのだ。男だとか女だとか、性別なんてものは大した障害ではない、そう思わずにはいられない。

「鶴橋さんお迎えご苦労さまぁ」

「お疲れさまです」

「あ、光喜、駅まで送ってやるよ」

「え? いいよ」

「大丈夫、大丈夫。ただ単に駅前のスーパーにアイス買いに行きたいだけだから」

「えー、なにそれ、ひっどーい」

 さらりと吐いた勝利の言葉に光喜が不満をあらわにふて腐れると笑い声が重なる。和やかなその声に口を尖らせて光喜は駅に向けて足を踏み出した。そしてしばらく二人は後ろを歩いていたが、ふいに近寄ってきた勝利が顔をのぞき込んでくる。

「どしたの?」

「んー、いや、特には」

「なに? 気になるじゃん」

「別に意味はない」

「変な勝利」

 隣に並んで歩く勝利に光喜が肩をすくめると、彼は黙って前を向いた。わからないふりをしたけれど、光喜はその意味に気づいている。気になっているのはいつもと違う距離感だろう。普段なら騒ぎながら間違いなく勝利に抱きついている。そして鶴橋に文句の一つや二つ言われている頃だ。
 しかしいまは触れることもなく笑いながら勝利の隣を歩いている。そのうち気づくだろう、心が離れたことに。

「ねぇ、勝利。俺にもアイス買って」

「はっ? なんで! お前はすぐそうやって人におごらせようとする」

「えー、いいじゃん。あっ、鶴橋さんでもいいよ」

「いいですよ」

「ちょっと冬悟さん! 光喜を甘やかさない!」

 後ろを振り返ったら目を細めて笑われた。膨れる恋人に彼はますます笑みを深くする。もうバレたのかなと思ったけれど、光喜は素知らぬふりで声を上げて笑った。

「そういえば荷物片付いてないって言ってたけど、業者には頼んだの?」

「ああ、今日の夕方に来てもらった」

「そっか、当日は搬入の時だけ手伝えばいい?」

「そうだな。荷物出す時は全部やってもらえるし。当日に新しい家具なんかも届くからその辺を手伝ってもらえれば」

「わかった。引っ越し、楽しみだね」

「……うん」

 至極嬉しそうに笑ったその顔を見つめて光喜も口元を緩めた。そしてかき乱すようにくしゃくしゃと隣の頭を撫でる。からかわれたと思った勝利はムッとして手を払おうとするけれど、しつこいくらい撫で回した。

「じゃあ、アイスごちそうさま! また近いうちにねぇ」

 駅前のスーパーでブランドものの高いアイスをねだって勝利に呆れられたが、鶴橋はなにも言わずに買ってくれた。しかも三つも。袋に入ったそれを振り回して手を振れば、ため息交じりに手を振り返された。
 仕方がないやつだと顔に書いた勝利に満面の笑みを浮かべて光喜は改札を抜ける。そしてふっと息を吐くように笑う。
 辛くて苦しい恋だった。けれどあの二人と一緒にいるのは悪くなかったと思う。だからこれからも存分に楽しませてもらおう、そんなことを思いながら電車に駆け込んだ。

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