58.やって来た引っ越しの当日

 いくら悩んでいても時間は過ぎていくもので、うだうだと小津のことを考えているうちに勝利たちの引っ越し当日になった。朝から天気が良く、春の陽気はかなり暖かい。引っ越しは早い時間から始まるので、午前中には新居に荷物が届くと言っていた。
 勝利のアパートや新居のマンションがある駅と光喜の最寄り駅が隣同士なのはまったくの偶然なのだが、この近さは非常に楽だ。少し急げば二十分くらいで着く。今日は九時に新しいマンションで待ち合わせになっている。時間には早いが八時になったところで光喜は出掛ける準備を調えた。

 動きやすいようにデニムとTシャツ、脱ぎ着しやすい薄手のシャツ一枚。携帯電話と財布をポケットに突っ込み、忘れずにパスケースも手に取る。渋めのバーガンディとグラスグリーンを合わせたツートンカラー。シックな色合いも心惹かれるが、それは一目見ただけで丁寧に仕上げられているのがわかる。
 どんな思いでこれを手がけたのだろう、そう思うと胸が痛むが、その分だけ愛おしさが増した。じっとパスケースを見つめ、そっと唇に引き寄せる。そして光喜は心の中で何度も何度も繰り返す。どんなことがあってもあの人の前で泣かないと。

「よし、頑張ろう」

 両手で頬を叩くと光喜はしっかりと笑みを貼り付ける。そして急くように家を飛び出した。不安が拭い去れたわけではないけれど、会えると思えば嬉しさのほうが勝る。今日はあの人が笑っていられるようにしよう、後ろめたさなど感じさせないように。あの人の柔らかい笑顔がなによりも好きだから、もう寂しい目はして欲しくない。

「あ、勝利たち荷物を積み込み終わったんだ。近いからすぐ来るかな」

 電車に乗って五分も経たないうちに隣駅に着く。改札を抜けようとしたところで携帯電話が震えた。これから新居に移動するという連絡だ。アパートからマンションまでは徒歩で十分ほどだと勝利が言っていた。行きがけにコンビニで四人分の飲み物を買うと、光喜は軽い足取りで目的地へ足を進める。

「んーと、あっ、ここか」

 地図を頼りにたどり着いたのは七階建てのマンション。ファミリー層が多いらしいのだが、管理している不動産屋と鶴橋が懇意にしていて借りることができたようだ。築年数が浅い割に家賃が安いのだと勝利が言っていたので、もしかしたら知人価格というのもあり得る気がした。想像に過ぎないが、駅近コンビニ近のマンションが十万程度というのは安過ぎる。
 玄関ホールはいま引っ越しのための養生をしている真っ最中だ。それを横目に見ながら光喜はエレベーターで四階まで上がる。部屋は探すまでもなく、玄関扉が開いていたのですぐわかった。

「あ、光喜、早いじゃん」

「勝利おはよ!」

 部屋の中を覗くと玄関に立っていた勝利と目が合う。予想以上に早かったのか光喜を見て少し驚いた顔をする。そして二人の声で気がついたのだろう、廊下の先から鶴橋も顔を出す。

「光喜さん、おはようございます」

「鶴橋さんもおっはよー! あ、これ買ってきたからどうぞ」

「ありがとうございます」

 ビニール袋を振り回して光喜はこちらにやって来た鶴橋にそれを手渡す。そういえば炭酸ものは買っていなかったよな、と渡してから光喜は考えた。しかし袋の中身を覗いた鶴橋の顔を見る限り問題はなさそうだ。

「いまなにかすることある?」

「もう少ししたら荷物が上がってくると思う。そのあとに新しく買った家具とかかな」

「そっか、入ってもいい?」

「おう、いいぞ」

「やった、お邪魔しまぁす! わぁ、さすがファミリータイプ。広いねぇ」

 靴を靴棚にしまい鶴橋と勝利の背中について行くと、明るいリビングダイニングとオープンキッチンに出迎えられる。まだ家具がないせいかそこは余計に広く感じられた。視線を巡らすと二人の部屋に繋がる戸が二つ開け放たれている。ベランダに繋がる部屋と内側の部屋があるが、光喜はピンときた。

「こっちが勝利の部屋?」

「ん? ああ、そうだけど」

「やっぱり」

 ベランダ側の部屋を指さすと勝利が目を瞬かせて頷いた。明るくて風通しのいい部屋をなんの疑問も与えずに選ばせるところが鶴橋らしい。こういう気遣いができる男になりたいと光喜はしみじみ思う。
 相手に遠慮させることもなく、後ろめたささえも感じさせない。さりげない優しさというのはどうやったら身につくのだろうと光喜は鶴橋をじっと見つめてしまった。しかしその視線を向けられたほうは不思議そうな顔をして首を傾げる。

「どうかしましたか?」

「ううん、なんでもなーい。あー、四階だから眺めいいね」

 勝手に窓を開けてベランダに出ると、光喜はその向こうへ視線を投げた。少し先に桜色が見えて身を乗り出すようにして見ていたら、勝利に危ないから戻ってこいと怒られる。

「あ、小津さん電車降りてこっちに向かってるって」

「そうなんだ。小津さんちも近いからなにかと便利だよね」

「そろそろ荷物も来るのでちょうど良かったですね」

 ふいに挙がったあの人の名前に胸がドキリとした。少し鼓動が早くなって緊張する。前みたいに上手く笑えるか、不安になった光喜は二人に気づかれないように深呼吸をした。

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