彼に辛い思いをさせた時に、すぐに追いかけていけなかった自分のことがひどく情けなく思えた。とっさの反応ができなくて、いつも後悔ばかりする。選ぶべき選択を間違えてしまう。
それを秤にかけた時に、どちらが重いかなんてことは考えなくてもわかるのに、彼に悲しい顔をさせてしまった。いまもそうだ。気まずい思いをするのは、後ろめたさがあるから。知られたくなかったと思うからだ。
けれど彼のことを考えるならば、まっすぐに向き合わなければいけない。そうして不安を取り除いてあげなければいけない。本当に想っているならば、声を上げなくてはいけないのだ。
綺麗な瞳はいつだってまっすぐに見つめてくる。だからその眼差しにまっすぐに応えたいと小津は思った。
しんとした空気の中で誰もが言葉を発せずにいると、ふいに福丸のキュウンと甘えるような鳴き声が響く。光喜の膝の上でよたよたと立ち上がった彼は、今度はキャンと鳴いた。その声に小津が視線を落とせば黒い瞳でじっと見上げてくる。
首を傾げると尻尾をぶんぶんと振って足に飛びついてきた。そしてデニムに噛みつきぐいぐいと引っ張る。
「あら、福丸、どうしたのかしら。いつもそんなことしないのに。こら、駄目よ、噛みついちゃ」
小さな身体で踏ん張っている福丸の様子に敦子が驚いた顔をした。しかしたしなめる声に聞く耳を持っていないのか、いまだに力一杯引っ張ろうとしてくる。
「もしかしたら、隣に座りなさいって言っているのかもしれないよ」
「え?」
「修平くん、座ってみたら?」
みんなで不思議そうに福丸を見つめる中で、健人が小さく笑う。その反応に戸惑うが、そうしているあいだもデニムは穴が空きそうなくらい引っ張られた。ものは試しと、言われるままに小津が腰を下ろそうと身を屈めれば、福丸はぱっと口を離す。そして胡座をかいた足によじ登ってきた。
ジタバタとする小さな身体を片手で持ち上げて、足の隙間に下ろすと満足げに遠吠えのような声を上げる。すると庭で大人しくしていた三頭が窓際に近づいてきて尻尾を揺らした。
「喧嘩しているみたいに思わせてしまったのかもしれないね」
「……赤ちゃんとか、動物って、人の感情に敏感だって言うよね」
やんわりと目を細めた健人の言葉に、ぽつりと光喜が呟く。福丸の鼻先に指先を寄せて優しく撫でて、小さくごめんねと囁いた。その微かな声に気づけば腕を伸ばしていた。突然抱き寄せられた彼は目を丸くして小津を見上げる。
その瞳をじっと見つめると、なにも言わずに彼は肩口に頭を寄せてきた。すり寄るような仕草に胸がじりじりと焦がされる感覚が広がる。切ない表情をさせてしまうほどに、ふがいなさを感じる。
「僕は、君に我慢をさせてばかりのような気がする」
「大丈夫だよ、俺はちゃんと小津さんのこと信じてるから。ごめん、ちょっとびっくりしただけだよ」
ゆっくりと顔を持ち上げた光喜は綺麗な笑みを浮かべた。ほかの人が見れば、その内側にあるものに気づかないだろう笑み。最初の頃は小津もその笑みの裏側にあるものに気づかなかった。けれどいまは、その向こう側にあるものに気づいてしまうほど二人は傍にいる。
「光喜くん、嫌なことは嫌だって言っていいし、腹が立ったら怒っていい。悲しかったら無理に笑わなくてもいいんだよ。僕は君の笑っている顔が好きだけど、辛い気持ちを我慢してまで笑って欲しいとは思わない」
「嫌に、ならない?」
「ならないよ。いくらでも文句を言っていいよ。我がままいっぱい言ってくれていい。そのほうが僕は嬉しい」
「……俺、全然小津さんの好みのタイプじゃないし、もっとほかにいい人が現れたら気持ちが離れちゃうって思ってたんだ。松山さんって、小津さんの好みの集大成って感じでしょ。ああ、この人が大好きで、無意識かもしれないけど、忘れられない人なんだろうなって」
少しずつ涙声に変わっていく彼をもう一度、小津は強く抱きしめた。ポツポツと腕に雫がこぼれ落ちてくるのを感じて、隙間を奪うように抱き寄せる。膝の上にいた福丸は居心地が悪くなった場所から抜け出して、窓際にぽてぽてと歩いて行った。
「僕は光喜くんの可愛くて格好良くて、華やかな見た目に惹かれたけれど、好きになったのは君の心がまっすぐだからだ。人の気持ちに寄り添える優しい君が愛おしいって思ったからだよ」
「そんなの、全然ないよ。俺、上辺ばっかりで、なんにも中身がなくて」
「光喜くんの自信のなさはそこから来てるんだね。大丈夫だよ、君は空っぽじゃない。ちゃんと人を思いやれる心があって、人をまっすぐに愛せる心があって、人を優しくさせてくれる暖かな存在だよ。光喜くんが傍にいてくれて、何度僕は救われたかわからない」
端から見たら彼はなんでも持っている優れた人だと思われることが多いのだろう。けれど周りが思うのとは裏腹に光喜は自己評価が低い。自分の至らなさにいつもしょんぼりとする。大丈夫、と繰り返すと少し安心したように笑うが、それでもどこかに引っかかるものを感じている。
しかしそう言う弱さも光喜らしさだと小津は思っていた。おごることのない純真でまっさらな彼が愛おしいと思える。伸ばされた腕にひたむきさを感じた。ぎゅっと背中を抱きしめられて、感情が込み上がりそうになった。
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