目が覚めたら、真っ白な天井が見えた。
見覚えのないその景色に、瞬きを何度か繰り返して視線を動かすと、自分が白いベッドの上で横になっていることを知る。
ゆるりとさらに視線を動かしていけば、左腕に点滴の管が刺さっていた。そこでここは病院かと理解する。
病室の中はとても静かだ。ふと顔を左に向けると、真っ白なカーテンの向こうに、赤い夕日で透けた窓が見える。
それは少し開いているのか、カーテンが風で時折ふわりと揺れた。部屋の中に視線を戻してみるが、間仕切りの長いカーテンで遮られて、ベッド以外の様子は見て取れない。
この病室に自分は一人なのだろうか。そしていまは現実なのか、それとも過去の記憶の中なのか。それが曖昧でよくわからない。
確かあのあと気を失った自分は、三日経ってから通いの家政婦に発見され、一命を取り留めた。
その時もこんな真っ白い空間で、目が覚めた気がする。これは記憶の続きなのか。しかし持ち上げた右腕を見て、いまが現実であることを認識した。
持ち上げた腕は、成人男性にしてはいささか細い、真っ白な腕だ。だがその白い腕に、あざや傷は見当たらない。
あの時受けた傷は、しばらく身体に刻まれ消えなかった。それに目が覚めた時の自分は、あの人のことを綺麗さっぱり忘れていた。
だから覚えているいまは間違えようもない現実だ。
とはいえなぜ、自分は病院に運ばれたのだろう。
ぼんやりと天井を見ながら記憶を巻き戻してみると、瞬きをして考えを巡らせた途端に、ぷつりと記憶が途切れる。どうやら自分はあの会場で、あのまま気を失ってしまったらしい。
そうか、だから過去の記憶が垣間見られたのか。
自分の過去――それはあまり気分のいいものではなかった。
あの出来事を忘れ去りたくて、自分は心に鍵をかけて、記憶を封じ込めていたんだ。けれどあの時と同じ雨の季節が、それを揺り起こしていた。
それはまるであの日を忘れるなと、言われているかのようだ。あの人がいまもなおそこで、自分を呪っているかのように思える。
「あら、桂木さん目が覚めました? 気分大丈夫ですか?」
そろそろ点滴も終わりそうになった頃、間仕切りのカーテンの向こうから、白衣を着た看護師が顔を出した。自分が目覚めていることを知ると、彼女は少し表情を和らげて笑みを浮かべる。
「軽い栄養失調と暑気あたりだろうって、先生がおっしゃってました。ご飯はちゃんと食べないといけませんよ。点滴も終わりましたので、気分が悪くなければもう帰っても大丈夫です」
「ありがとうございます」
点滴を外し終わると、彼女はまたカーテンの向こうに姿を消した。それを見送ってから、横たえていた身体を持ち上げてみる。
少し重くてだるい感覚はあるが、それほどひどい倦怠感ではない。これならば帰れるだろうと、ベッドから下りることにした。
足元に揃えられていた靴を履いて、サイドボードの上に置かれた財布や、携帯電話などをズボンのポケットにしまう。
パンフレットは、忘れたふりでもしようかとも思ったが、あとで悔やみそうでやめた。
立ち上がってみると、少しめまいがした。しばらく目を閉じてやり過ごせば、それはすぐに治まる。
長く息を吐き出して、深呼吸すると間仕切りのカーテンを勢いよく開いた。
そこは四人部屋だったけれど、自分のほかに人はいなかったようで、ベッドが並ぶ以外は人の気配もなく、静まり返っている。
ゆっくりと病室を横切り、廊下に足を踏み出す。すると廊下の先には看護師の詰め所があり、人の気配がようやく感じられた。
受付窓口に行って、手続きを済ませるついでに、この病院の位置を教えてもらった。
どうやらコンサートホールから比較的近い場所にある、総合病院のようだ。
携帯電話で病院を検索して、家までの帰り道を調べる。病院前の通りから、駅に向かうバスが出ているらしい。
普段なら面倒でタクシーを使うところだが、病院で予定外の大きな出費をしてしまった。大人しく地道な方法で帰ることにしよう。
時刻を見れば十九時を過ぎたところだった。そう言えば結局リュウのピアノは聴けなかったな。
コンサートは十八時半くらいまでだったはずだから、もう公演は終わってしまっている。
彼とはもうやはり縁がないのかもしれない。思わず自嘲気味な笑みを浮かべてしまう。しかしこれで、彼を忘れる踏ん切りもつくというものだ。
もう終わりなんだ。そう言い聞かせて、立ち止まっていた足を動かした。
外に出ると、綺麗な茜色の空が広がっている。夏の夕暮れは緩やかだなと思いながら、その空を見上げて、ぼんやりとバスがやってくるのを待つ。
だが目の前に止まったのはバスではなく、勢いよく滑り込んできた黒のセダンだ。
こんなところに止まるなんて、非常識だなと思ったら、その助手席から慌ただしく出てきた人に、目を奪われてしまう。柔らかな茶色の髪が風に撫でられ、揺れていた。
半袖のストライプシャツの襟元が大きく開いて、そこから見える鎖骨や首元が色っぽくて綺麗だ。
ワイシャツにデニムという簡素ないでたちなのに、その人はなんだか眩しく見える。
なによりもまっすぐに、こちらを見つめる茶水晶の瞳が、視線を捕らえて離さない。
「宏武!」
名前を呼ばれて、無意識に肩が跳ね上がった。駆け寄ってきた彼が目の前に立つと、身体が逃げ出しそうになる。
けれど右腕を大きな手に掴まれて、それは阻止されてしまう。そらすことのできない強い眼差しに捕まり、心臓がうるさいくらいに鼓動し始めた。
「宏武、よかった」
気づけば自分は彼の腕の中にいた。引き寄せられて逞しい腕に抱きすくめられている。触れ合った場所から熱が伝わる。
それだけのことなのに、心が喜んでいるのを感じた。ためらう気持ちとは裏腹に、腕を伸ばして彼の背中を抱きしめてしまった。
「宏武いないから、倒れた人、宏武だと思った。だから急いできた。間に合ってよかった」
隙間がなくなるくらい、きつく抱きしめてくる彼はとても温かい。全身から自分を案じていた気持ちが感じられて、嬉しく思ってしまう。
肩口にすり寄ったら、髪に頬を寄せ、こめかみにキスをしてくれた。
もう彼のことを考えるのはやめようと、先ほど思ったばかりなのに心が揺れている。どうしてもこの喜びを打ち消すことができない。
「リュウ」
顔を上げて綺麗な瞳を見つめ返す。そして久方ぶりに彼の名前を呼んだ。そうすると彼は――リュウは、嬉しそうに目を細めて笑い、優しく唇に口づけてきた。
甘くて柔らかな口づけに、思わずうっとりと目を閉じてしまう。
しかしふいに鳴り響いたクラクションの音に驚いて、目を開く。それと共に、触れていた唇も離れていった。
「送るよ」
手を引かれて、停車している車の傍まで行くと、後部座席のドアを恭しく開いて、リュウは自分を車の中へと促す。促されるままに車に乗り込めば、彼も続いて乗り込んでくる。
なんのためらいもなくこちらの手を取ると、彼はそれを強く握った。
運転席にはフランツがいて、バックミラー越しに自分たちの様子は見られている。
気恥ずかしさを感じて、握られた手に力を込めるけれど、逃すまいとするかのように、その手は絡みさらに強く繋がれてしまう。
繋いだ手は、手のひらに熱が集まったみたいに熱かった。どちらの手が熱くなっているのかわからないけれど、それだけのことで頬にまで熱が移ったようになる。
いま顔を合わせたら、それに気づかれてしまいそうで、さりげなさを装い流れゆく窓の外を見つめた。
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