あなたはいつか壁にぶつかる。
それいつの言葉だっただろう。俺は幼い頃からいつも焦りを抱えていた。
いまでこそ新星だ、新進気鋭のピアニストだと騒がれているが、名前が売れ始めたのは二十歳を過ぎてからだ。
それまでは鳴かず飛ばず。いつも人よりなにもかもが遅くて、それがもどかしくてたまらなかった。
壁なんてずっと前から、目の前にあるじゃないか、正直言えばそんなことを思っていた。
だがその壁、というのはこういうことだったんだ。自分自身の心の壁。それは自分自身で作り上げてしまったもの。
その大きさにすくんで、いま俺は動けなくなった。
そびえる壁に向かって、大声を張り上げる。拳が潰れそうなほど叩きつける。けれど果てしなく高い、その壁をいまの俺は越えられない。
まだあなたには早い。
宏武を守るには、自分は未熟なのだと言われた時、俺はひどくムキになった。自分が人より劣っている、無力であることを認めたくなかったのだと思う。
だから止める声を振り払って、俺は宏武を迎えに行った。
結果、こうして立ち止まっている自分がいる。彼のすべてをあの影から奪い返したいと思いながら、その影に足をすくませている。
「リュウ、顔色が悪い。具合が悪いのか?」
「ううん、なんでもないよ」
「でも、ひどい顔色だ」
ざわめきの中から視線を感じる。それは宏武に向けられていた。驚きを浮かべる視線、懐かしむような視線、そして好奇の視線。
彼らの視線の向こうには、あの影がきっと見えている。
俺と宏武を見比べて、十年以上も前の記憶を重ねている。
いまの俺は目に見えないものと一緒に、天秤に乗せられているんだ。それがどちらに大きく傾くのか。それを知るのが――怖い。
「リュウ、ゆっくりと呼吸をしなさい。桂木さん、水をもらってきてください」
「あ、はい」
息苦しくて足元をふらつかせたら、大きな手が背中を支えた。そしてざわついた心をなだめるように、優しく背を撫でる。その感覚に記憶が少し幼い頃まで巻き戻った。
「出番の前にいつもこうやって、フランツが背中を撫でてくれていたっけ」
「もうあなたは子供ではないでしょう」
「そうだね。俺はもう子供じゃない。いつまでも怖がってばかりじゃ前に進めない」
あの影はもうこれ以上、大きな存在にはならない。肩を並べることはできなくても、それを追い越すことはできるはずだ。
いま宏武を愛しているのは自分、いま宏武の隣に立つパートナーは自分なんだ。
そう繰り返し唱えれば少しは楽になる。こういうのは結局、気持ちの持ちようだ。
だったらこの世界をすべてを塗り替えて、あの影を消し去るくらいの大きな存在にだってなれる。過去の人物とは違って、俺にはまだその時間がある。
俺は前を向かなくてはいけないんだ。宏武のために、自分のために。それを乗り越えなければ、迎えに行った意味がなくなる。
「ねぇ、フランツ。俺にはまだ早いって言ってたけど。俺はいま宏武の傍にいるのは、間違いじゃないって思っているんだ。こうしてもういない影に怯えて、立ちすくんで動けなくなるけど。それでも宏武の傍にいると、俺は臆病で情けない過去の自分に立ち向かえる気がするんだ」
宏武と離れているあいだは、彼のことを考えてしまわないように、仕事にのめり込んだ。息をつく間も与えずに自分を追い詰めながら、時間を過ごした。
しかしいまは、穏やかな時間の中で宏武を愛して、傍にいて、これまで以上に心が満たされている。
もう胸に空いた大きな穴は塞がりかけていた。後悔ばかりしていた毎日が、宏武の笑顔で癒やされている。
それは自分の奏でる音にも、少なからず影響を及ぼしていた。前よりもずっと、優しい音が響くようになった。
前よりも音楽そのものを、愛せるようになった。自分自身が少しずつ変わり始めているのがわかる。
「怖いよ、確かに。形のないものに覆い尽くされるのは。だけど俺は宏武の傍にいることを選んだ。だって俺は、宏武の傍でなければ、生きた心地がしないんだ」
眩しいくらいなんだ。宏武のいる世界がなによりも輝いている。この輝きを知ったら、もうほかの世界では生きていけない。だからそれを失いたくない。
もうなにかを諦めて俯くのは嫌だ。手にしたものを失うのは嫌なんだ。
「俺はもう過ちは繰り返さない。俺は宏武の隣で生きていきたい」
「そうですか。それならば、うな垂れている場合ではないですね」
背中を撫でていた手が、身体を押し出して前を向かせる。俯いていた顔を持ち上げて、まっすぐと前を見る。
俺はこんなところで自分に負けている場合ではない。背筋を伸ばして、足を大きく踏み出し、誰の視線にも負けないように。
「宏武」
「リュウ! 大丈夫なのか? 休んでいたほうが」
「平気だよ。それよりどうしたの? またなにか」
ホールの片隅――宏武の背中の向こうに見えたのは、上地孝彦だった。俺が近づいてきたことに気がつくと、向こうはあからさまに、居心地悪い表情を浮かべる。
その顔に向ける視線は、どうしてもきついものになってしまうが、俺の視線を遮るように宏武が割り入ってきた。
「違うんだリュウ。彼に謝ろうと思って」
「謝る? 宏武が? なぜその男に宏武が謝る必要があるんだ」
宏武を傷つけて泣かせたのは、この男だ。謝るべきはこの男ではないのか。しかし不審がる俺に、宏武は大きく首を振った。
さらには上地に向き直り、深々と頭を下げる。それには俺だけではなく、上地も驚きをあらわにした。
「孝彦、本当に申し訳なかった。自分はあなたの期待に添えないだけでなく、この世界に必要であった人までも失わせてしまった。詫びて済むことではないし、謝ったところでなにも戻らないこともわかっている。これは自分の自己満足だ。許してもらおうとは」
「……だったら! 証拠を示せ!」
「え?」
頭を下げ続ける宏武の言葉を遮り、上地は急に声を上げた。その響くような大きな声に、宏武は弾かれるように顔を上げる。
そして目を瞬かせて、なにかを飲み込んだかのような、苦しげな表情を浮かべる上地を見つめた。
だが宏武の視線には言葉を返さず、上地はゆっくりと腕を持ち上げる。そして指先で、ホールにあるグランドピアノを指し示した。
「だったら、いまここでピアノを弾いて聴かせろ」
「孝彦、自分はもう、ピアノは」
「それができないのなら、先ほどの言葉は聞かなかったことにする。僕はこれからもあんたを許さない」
唐突な上地の言葉に、宏武はうろたえたように表情を曇らせる。それでも見据えてくる視線は、揺るがないほどまっすぐだ。
その目を受け止め、宏武は両拳を握って息を吸い込む。気持ちを整えるように瞬きをして、一呼吸置くと小さく頷き返した。
「それであなたが、納得してくれるのなら」
しばらく二人で視線を合わせていたが、宏武は踵を返してグレーテの元へ足を向ける。おそらくピアノの使用許可をもらいに行ったのだろう。
きっとグレーテは喜んで、ピアノを明け渡してくれるはずだ。だがこんなことに、なんの意味があるのか。
「宏武に恥を掻かせようなんて、考えているなら大間違いだ」
「当然だ。ここで無様な音を鳴らしたら、僕は許さない」
「え?」
「あの男はあの人が選んだ、この世界で一番になるはずだったピアニストだ。あの人がすべてを賭けて育てたんだ」
まっすぐに宏武を見つめる上地から、感情を読み取るのは難しかった。正直なにを考えているのか、よくわからない。
以前はあんなにひどい態度を見せていたのに、いまここで宏武を貶めてやろうと思っているわけではない、それだけは言葉から伝わった。
「僕は早咲きの花だった。そしてリュウ、君は随分と遅咲きだった。早く咲いた花も、遅く咲いた花も、寿命は同じはずなのに、どうしてこんなに差がついてしまうんだろうな。きっと君はまだまだ花を咲き誇らせていくのだろう。そしてあの男は、昔もいまも咲き続ける。それが羨ましいよ。だけどあの男がピアノを弾けば、あの人のピアノはずっとこの先も続く」
ゆるりと細めた上地の視線の先に、また影がちらついた。それは神々しく光でも放っているのか、やけに眩しそうに目を細める。
しかし俺はそれを打ち消すように、声を上げた。
「それは違う! 宏武のピアノは宏武の音だ。誰かの移しでも代わりでもない。宏武のピアノは誰とも比べられないものだ。他人の真似事みたいな言い方をするな!」
「あの人だって、唯一無二だった」
「そんな過去、俺が塗り替えてみせる。もう二度と思い出せないくらい、俺がこの世界を変えてやる」
「あの男のために? 君が世界を変えるのか? どうしてそこまであいつは、愛されるんだろうな」
眉間にしわを寄せて、唇を引き結んだ上地に、過去の自分の姿が重なって見えた。
高みへと登っていく、ライバルたちを見上げて、悔しさに歯を食いしばって涙をこぼしていたあの頃。どうして自分はそこへたどり着けないのだろうと、何度も嘆いていた。
ピアノを誰よりも愛しているはずなのに、そのピアノがなによりも憎らしくも思えた。きっと上地は自分の壁に、行き当たってしまったんだ。
それを超えられないと諦めてしまった。
だから宏武の存在が不快だと感じるし、妬ましいとも感じる。宏武は才能の塊だと思う。もし本当にピアノを弾き続けていたら、きっと世界が変わっていた。それは間違いない。
ざわめきの中にピアノの音が響いた。
それはどこかもの悲しく、寂しさを滲ませる「エチュードOp.10-3ホ長調」――「別れの曲」と言う邦題でも有名な曲。
世界一美しいと称されるその曲は、静けさの中に様々な感情を呼び起こさせる。ゆったりとした柔らかな音色に、その場にいる者はみんな耳をそばだてた。
決して派手な曲ではない。それでも宏武の指先から奏でられる音に、誰もがうっとりと酔いしれる。
「ああ、あの人が好きな曲だ。だが、君の言うように、これはあの人とは違う。一音一音が水の煌めきのように輝いている。あの人の音は胸にずっしりと染み込んでくるような音色だった。……はは、さすがに十年も弾いていないと、下手くそになるな。でも音は、昔と変わらない」
至極穏やかな笑みが浮かび、懐かしむような少し遠くを見つめる眼差しが、宏武に向けられる。満足げに笑った上地は曲が終わると共に、ホールから出て行ってしまった。
彼がいなくなった場所には、割れんばかりの拍手が響き渡る。
誰もが頬を紅潮させて、興奮するように目を輝かせていた。感情が高ぶり涙をこぼす人もいる。宏武を称える拍手はしばらく鳴り止まなかった。
きっと上地は、宏武に成り代わりたかったに違いない。ピアノに愛されて、「あの人」にも愛されて、こうして人に感動を与えられるものになりたかった。
それなのに諦めてしまったんだ。もう先へは進めないと、歩くことをやめてしまった。
その気持ちを理解はできても、俺は絶対に諦めたりはしない。いまよりずっと先へ進んで、高みへと上ってみせる。
宏武に広い世界を見せてあげるために、宏武と一緒にピアノを弾いていくために、羽ばたける大きな翼を手に入れる。
俺の傍にいてくれる宏武が、これからも音楽を愛せるように、世界で一番のピアニストになるんだ。
「宏武!」
「リュウ」
「ほら、やっぱり拍手喝采だったでしょ!」
弾き終えた高揚感に頬を染める宏武は、俺の言葉に恥ずかしそうに目を細めた。赤く染まった頬に手を伸ばせば、照れくさそうに小さく笑う。
その可愛らしい笑みをそっと引き寄せて、俺は鼻先に口づけをする。
「ねぇ、宏武。二人で弾ける大きなピアノを買おうか」
「えっ、ピアノ? それって」
「日本に帰ったら、一緒に俺たちの新しい家を探そう!」
古い思い出に縋るのは、もう今日でおしまいだ。もうそんなものがなくても俺は歩いて行ける。
これからは新しい思い出を二人で作っていけばいい。そのほうがきっと毎日が楽しくなる。宏武が一緒なら、どこだって進む道は輝いていくはずだ。
そう、隣に愛する人がいてくれる、それ以上の幸福なんてどこにもないのだから。
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