人の心を惹きつけて止まない音色。宏武のピアノのあとに弾くのは、なかなかのプレッシャーだった。しかし演奏会はその余韻もあって、かなり大盛況で幕を下ろした。
終わったあとは、昔からのファンだと言う人たちに囲まれる宏武を救い出して、上手く邸宅を出るのが本当にもう大変で。
車に乗って大急ぎで脱出した。
きちんとグレーテに、挨拶ができなかったのは申し訳なかったが、また会える機会はいくらでもあるだろう。
久しぶりに人に囲まれた宏武は、緊張のせいかしばらく俺の手を握って離さなかった。なんだかそれがすごく可愛くて、車の中でキスを迫ったらフランツに怒られた。
終演後、宏武を囲んだ人たちは口々にこの世界に戻らないのか、そう何度も問いかけていた。
その問いかけに宏武は少し寂しそうに笑いながら、もう戻ることはないと答えた。
その答えに、もうここは自分の居場所ではない、そんな想いが込められているような気がして、ますます俺は未来への野望を胸に誓ってしまう。
まだ行ったことのない場所に連れて行きたい。色々な音楽を聴かせてあげたい。
そのためにも俺はいままで以上に努力を怠らないようにする。仕事をもっと頑張るし、ピアノの練習だってたくさん、目いっぱい、毎日だって頑張る。
宏武を言い訳に、少し俺はピアノをおろそかにしていた。それはきっと彼が望まないことだ。
俺にピアノを続けて欲しいと、俺からピアノを取り上げたくないと宏武は泣いた。それを忘れてはいけない。
「リュウ! ちょっと手伝って」
ぼんやりしていた思考から、宏武の声で我に返る。目を瞬かせていまを確認すると、広々としたリビングに午後の柔らかな陽射しが振り注いでいた。
まだ見慣れない室内と、手元には中途半端に広げられた食器の数々。
あれから四ヶ月。季節が秋に移り変わった頃に、俺と宏武はあの思い出深い部屋を離れた。
新しい家は多分いままでの三倍くらい。広いリビングとダイニング。寝室に書斎にピアノの部屋。
宏武は広すぎて落ち着かないな、などと言っていたけれど、大きなグランドピアノを見てかなり嬉しそうだった。
「どうしたの、って……宏武、本は引っ越す前にかなり処分したはずだよね?」
「ああ、うん。そうなんだけど」
声がした書斎を覗いたら、床一面に段ボールが広げられていて、その仕分けに宏武が顔をしかめているところだった。元々彼は持っている本が多かった。
仕事の資料や参考書、色々な本がそれはもう山のように。
だが前の家を出る時に、大半を処分していた。それなのに和書に洋書にスコアに、いま目の前にあるこの本の山は、どういうことだろう。
「確かに増えてもいいように、本棚は大きいのを備え付けたけど。いきなり増えすぎじゃない?」
「わ、悪い。このあいだ本屋に行ったらフェアをやってて、欲しかった本がたくさん入荷してて」
「ふぅん、まあ、いいや。本は俺も読むしね。タイトル順? 作者順?」
「作者で」
「OK! これを片付けたら食事にしよう」
申し訳なさそうな顔をする宏武に笑みを返せば、少しほっとしたような表情を浮かべた。その顔が可愛かったので、今回のことは目をつむろう。
それにこの段ボール箱に、収められている本をすべて収納しても、まだまだ壁面いっぱいの本棚には余裕がある。
この先また宏武が本を大量に買い込んでも、大丈夫なくらいだ。部屋一つ一つに余裕を持たせてよかった。
「宏武、夕飯はなにを食べたい?」
「あ、まだキッチンもそんなに片付いてないだろう? なにか頼もう」
「うーん、そうだね。じゃあさ、ピザにしようよ」
「珍しいな、リュウがそういうの。いいよ、あとで一緒に決めよう」
「うん」
それから二人で黙々と本の仕分けをして、時折興味を惹かれるものに手を止めたり、ついつい読み込んでしまったり、しんとした中で作業を続けた。
しかしそれが三分の二くらい片付いたところで、二人とも腹の虫に負けてしまった。
壁掛けの時計を見れば、三時間くらい過ぎていて、顔を見合わせて頷き合うと、本を放り出してリビングに向かった。
越してきたばかりでチラシなどはないから、タブレットで検索をしてピザ屋を探す。
お腹が空いているから一番早く届く店を選んで、Lサイズのクォーターピザを頼むことにした。
「宏武なにか飲む?」
「空腹が紛れるものがいい」
「じゃあ、牛乳があるから、甘いココアとかにしようか」
「ああ、うん、それがいい」
宏武をソファに残し、キッチンへと向かった俺は、真新しい冷蔵庫を覗く。中身はまだほとんど空で、ここに来る途中で買った卵と牛乳、バターくらいしか入っていない。
荷物が片付いたら、買い物に行こうと思っていたが、食パンは買ってあるし朝の分は問題ない。
今日は行かなくてもいいだろう。
「ココア、ココア、っと、あった。砂糖はいつもより多めがいいかな」
ミルクパンに砂糖とココアを入れて、少量の牛乳で練る。ペースト状になったものを、また少しずつ牛乳を増やして伸ばしていく。このひと手間でココアはかなりおいしくなる。
いままでただ溶かして飲むだけだった宏武は、このココアを飲んだ時は大層感動してくれた。なにをしてあげても、素直に喜んでくれるから、彼が相手だと本当にやり甲斐がある。
「宏武、広いの落ち着かない?」
ココアを作ってリビングに戻ると、宏武はソファの上で膝を抱えて小さくなっていた。
以前のソファよりも大きくなったのだから、もっとゆったり座ればいいのに、なんだかそれがひどく可愛い。
ローテーブルにマグカップを置いて、隣に座ったら少し安心したような顔をする。その表情に、ますますたまらない気持ちにさせられて、思わず肩を抱き寄せて頬に口づけてしまう。
「どうしたんだ、急に」
「ううん、なんでもない。ただ宏武が可愛いなぁって」
「リュウはいつも唐突だな」
からかうように言いながらも、宏武は至極優しい顔をして笑ってくれる。抱き寄せる手に力を込めれば、もたれるように肩に頭を乗せてくれた。
その小さな重みは、噛みしめてしまうほどの大きな幸せを、俺に与える。
「宏武、俺ね。これからはもっと真面目にピアノに向き合うよ。正直言うと、俺はピアノが弾けなくても宏武の傍にいられたら、それでいいって思ってたんだ。けどそれじゃ駄目だよね。宏武は俺のピアノを愛してくれている。その気持ちに応えるためにも、俺はたくさんピアノを弾かなくちゃ駄目だ。そして宏武を世界に連れて行くんだ」
「リュウ」
「宏武は俺の隣でピアノを弾いてくれるだけでいいよ。その代わりに俺が宏武に世界を見せてあげる。宏武が見るはずだった世界は、俺が連れて行って見せてあげるよ。だから二人で一緒に行こう」
「すごい自信。頼もしいな。リュウなら本当にしてしまいそう」
「俺はあの人には負けないよ。いつかみんなの記憶の中にあるものをすべて塗り替える。宏武の隣は俺だけのものだって、みんながそう思うように」
「そんなこと、考えてたのか」
俺が持つ対抗心は、思いがけないものだったのかもしれない。大きく目を見開いて、宏武は俺の顔をじっと見つめる。さらには瞳に涙を浮かべた。
けれどそれは悲しい涙ではなくて、きっと嬉しいほうの涙。だって宏武は、花が綻ぶみたいな笑顔を浮かべた。
「だからずっと俺の隣で見ていて、俺の音を聴いていて」
「ああ、もちろんだ。ずっとずっと、リュウの傍でリュウのピアノを聴いていたい」
「うん」
「んふふ、そっか」
「なに?」
「だから急にまた、スケジュールがいっぱいになったんだな」
柔らかな笑みを浮かべたまま、おかしそうに目を細めた宏武は腕を伸ばして、俺の背中を抱きしめた。ぎゅっとしがみ付くように抱きつかれ、思わず固まったように動けなくなる。
少し寂しい思いをさせてしまうだろうか。
「家を空けることが多くなるけど、一緒に行ける時は行こう」
「そうだな。リュウについて行ったらそのうち世界一周できそうだ」
「一緒においしいものも食べようよ」
「それもいいな。なんだか楽しみなことがいっぱいだ」
胸元にすり寄るように頬を寄せて、背中を握る手に力を込める。そんな些細な仕草にも、胸がぎゅっと鷲掴まれる気持ちになるのはどうしてだろう。
愛おしさが募って溢れ出すものに、溺れてしまいそうだ。
「宏武、キスしたい。顔、上げて」
ねだるように耳のフチをくすぐれば、埋めていた顔を持ち上げて、まっすぐにこちらを見る。相変わらず綺麗な黒い瞳。ゆるりと瞬いて、その瞳の中に俺を映す。
それだけのことにひどく嬉しくなって、両手を頬に添えて恭しく唇を寄せた。
やんわりと触れるだけで口元が笑みをかたどって、その先を求めるみたいにまぶたを閉じる。柔らかな唇を優しく食んで、小さなリップ音を立てて味わう。
キスするだけでこんなに幸せな気持ちになるなんて、初めてだ。
「リュウ、もっとして」
甘えたようにねだられたら、もう身体はゾクゾクするほど高ぶって、指先に力を込めてしまう。
きつく引き寄せて、深く唇を合わせてその奥へと忍び込む。それを待ち望んでいた宏武の舌先は、俺のものを絡め取り唾液を滴らせた。
口づけが深くなるほどに、しがみつく手に力がこもる。震えてしまいそうなその手に、また愛おしさが増した。
「ねぇ、宏武。俺は宏武を愛するために宏武と出会って、宏武のために生まれ変わろうって思う。俺たちは大きなものを失ってしまったけど、これからの時間いくらでもやり直せるよ。辛い時は手を伸ばして、怖い時は俺にしがみついて。俺は宏武の手を決して離さない」
「……うん、そうだな。まだこれから自分たちはやり直せる」
「そうだよ。二人のためにも、俺たちは幸せにならなくちゃ」
俺たちは愛した人に、死を選ばせてしまった。その罪はこの先一生、消えないのかもしれない。だが俺たちはその分だけ、幸せになるべきだ。
誰よりも幸せになって、遺された命をなによりも輝かせるべきだ。なかったことにしようなんて、考えていない。
愛していたから、愛しているからこそ、すべてを過去にするんだ。
「ねぇ、宏武」
「なに?」
「結婚しようか」
「え?」
優しく囁いた俺の告白は予想外だったのか、驚きに見開かれた瞳がまん丸になる。それがたまらなく可愛くて、額を合わせてその瞳をのぞき込む。
俺の言葉を飲み込むのに、時間がかかっている宏武は、瞬きを忘れて俺をまっすぐに見つめていた。
「この国を離れるつもりはないから、形だけだけど。どう?」
「……なんて返事を、したらいいんだろう」
「そんなの決まってるでしょ! YESだけだよ」
じわじわと瞳たまる涙がすごく綺麗だ。それを潤ませて、唇を震わせて、一生懸命に言葉を紡ごうとする。そして極まったように涙を溢れさせると、そっと唇を触れ合わせてきた。
「Oui、喜んで」
「やった! じゃあ、今度の休みは指輪を選びに行こう!」
俺たちは少しずつ前に進んでいく。いつか過去の思い出を、愛おしい日々だったと語り合えるように。
そしてこれからもずっと二人で生きていく。毎日が幸せだと笑い合いながら、二人で一緒にピアノを奏でていくんだ。
その重なり合う音は、伸びやかにどこまでも響いていく。二人の明日が輝いていくように。
二つの軌跡/end
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