夏が過ぎて少しずつ空気が変わり始めた頃。長く続いた残暑もようやく終わり、夜は随分と涼しい風が吹くようになった。道行く人の装いもいまは随分と秋めいている。
過ごしやすい日が続くと人は活発になるものなのか。街に夜が訪れれば、人がそこかしこの店へと吸い込まれていく。人で賑わう気楽な居酒屋、しっとりとした大人のBAR、恋人たちが語らう洒落たレストラン。
けれど浮ついた人波を横目に見ながら通り過ぎていく青年がいる。柔らかなミルキーブラウンの髪を風にそよがせ、足早に彼は繁華街から少し外れた道を進んでいく。
そこは表通りと明るさに変わりはないが、少しばかり集まる人たちの様子が違っていた。いまどきそれほど珍しくはなくなってきたが、それでもうっかり迷い込んでしまった人はその空気に必ず戸惑う。
しかしそんなことは気にも留めずに彼はまっすぐに目的の場所へと向かった。細い裏路地を抜けてたどり着いたのは四階建ての小さなビル。
一階には古ぼけた喫茶店が入っているが、夜も遅いのですでに閉店している。二階には看板の錆び付いた興信所。三階から上は住居になっているが、住人たちは夜の街へと稼ぎに出ている。けれど彼が用があるのはそのどれでもない。
足元にある螺旋状の下り階段。その先に木製の扉が一枚見える。横には小さな看板が出ていて、横文字でBAR Rabbitと綴られている。そこはひっそりと街の隅に店を構える、知る人ぞ知る常連向けの酒場だ。青年は階段を下りるとOPENの文字に目を向けながらドアノブを捻った。
「いらっしゃい」
軽やかにドアベルが鳴った扉の向こうは、少し照明を落としたセピア色のほのかな明るさ。その中からは小さなざわめきを感じる。そのざわめきに首を巡らしながら、青年は声が聞こえたほうへ視線を向けた。
すると栗色の長いウェーブヘアーを揺らしながら、ほっそりとした色白美人が振り返る。青年を見ると見目麗しいその人は、目を大きく見開き驚きをあらわにした。
「蒼ちゃん! 久しぶりじゃない」
「うん、ミサキさん久しぶり」
蒼ちゃんと呼ばれた青年――喜多蒼二は、満面の笑みを返してくれたミサキに片手を上げて応える。そしてちらりと店の中に視線を向けてそこにいる顔ぶれを確認した。
さほど広くない店内には四人掛けのテーブルが三つとL字のカウンターに椅子が六つ。テーブルはすでに満席で、カウンターは奥のほうに一人。
見回した顔はほとんど見知った顔で、蒼二の姿を認めるとみんな歓迎ムードで声をかけてくる。その声一つ一つに返事をしながら、蒼二は入り口に一番近いカウンター席に腰かけた。
「もう! 何ヶ月ぶりよ。元気そうでよかったわ」
カウンターの中にいたミサキはすぐさま蒼二の目の前にやってくる。そしておしぼりを差し出しながら至極嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔に蒼二も穏やかなこげ茶色の瞳を細めて笑う。
「結構来てなかったよね。ミサキさんも元気そうでよかったよ」
「元気よ元気! でもまあ、うちに来ないってことは彼氏とうまくいってるってことよね。あの可愛い年下彼氏は元気?」
「ああ、うん。紘希も元気だよ。今日は会社の飲み会に行っててさ。ちょっと時間まで暇だから来てみた」
「あらあら、待ち合わせ? いいわねぇ。でもうちに来たら彼氏くんがヤキモチ妬かない? 蒼ちゃん人気あるんだから。ほら、もう誘いたがってるお馬鹿どもがいるわよ」
目を細めたミサキの視線に蒼二が振り返ると、テーブル席で盛り上がっている客の何人かがひらひらと手を振ってくる。こぞって蒼二に声をかける客はすべて年若い男たちだ。けれどそれは別段珍しいことではなく、この店は女人禁制なので当然のこと。
綺麗に化粧をして、女性の衣服を身にまとっている子たちもいるが、みんな元の性別は同じ。ここは出逢いの場所にもなっている同性同士が集まるバーだ。女の人と見紛うほど綺麗なミサキ自身もニューハーフ。
彼らが気兼ねなく集まれる場所を作りたいとミサキが十年ほど前にこの店を始めた。蒼二は開店当初からの常連客なのでミサキとも長い付き合いだ。
「蒼ちゃんに惚れる男は昔からたくさんいたけど。あの子はあっという間にさらっていったわよね。蒼ちゃん結構身持ちが堅かったのに、すぐ返事しちゃうんだもの。びっくりしたわ」
ミサキの呆れたような声にやんわりと笑った蒼二は、性格も穏やかで優しげな顔立ちも整った好青年。今年三十になったが若い頃からあまり変わりがなく、この十年のあいだ彼に告白した男は数知れず。
中には交際にこぎ着けた幸運な男もいたが、それほど多くはない。しかし今年の冬に出会った年若い青年が、あまたの男を押しのけて蒼二を捕まえた。
「なんか紘希って警戒するところがないって言うか。まっすぐ見つめられると、頷きたくなるんだよな。純粋さがにじみ出ているって言うか」
「確かに真面目な子だったわよね。忠犬っぽい、黒い柴犬みたいな感じかしら。でも蒼ちゃんそういうタイプが好みだった?」
「うーん、そうでもなかったんだけど。なんでかな、紘希はほかの人と違ったんだよ」
「まあ、いやぁね、さらっと惚気られたわ」
からかうように笑ったミサキに蒼二は困ったように笑みを返す。そんな曖昧な反応を見せる蒼二にミサキは小さく首を傾げた。けれど少し俯いた彼は自分に向けられる視線には気づいていない。
ウィスキーグラスに琥珀色の酒を注ぎながらミサキはじっと見つめる。そっと視線の先にグラスを滑らせると、ようやく蒼二は顔を上げた。
「蒼ちゃん、なにか悩みでもある? 今日はなにか言いたいことがあってきたんじゃないの?」
「え? あ、うん、まあ」
「ほらほら、彼氏が来ないうちにこのミサキさんになんでも話してごらんなさい」
「あー、うん。えっと」
カウンターに腕を乗せてのぞき込んでくるミサキの視線に蒼二は右往左往と目をさ迷わせる。けれど言い淀む蒼二を急かすことなくミサキは口をつぐんで静かに見つめた。
そして沈黙が続いて五分は経とうという頃にようやく落ち着いたのか、蒼二の視線が持ち上がりミサキの目を見つめ返す。そして目の前のグラスを両手でぎゅっと握って大きく息を吐き出した。
「こんなこと相談するのも正直どうかと思うんだけど。なんか俺、微妙に距離を取られてるみたいで、いまだに、その、したことないんだよね」
「え? それってもしかして夜の話? あなたたち付き合ってどのくらいだった?」
「知り合って八ヶ月、二人きりで会うようになって六ヶ月くらい?」
目を瞬かせるミサキの反応に蒼二は気恥ずかしそうに頬を染める。こんな話題は誰彼無しにできるものではない。去年の春に大学を卒業した恋人の紘希と蒼二は少し歳が離れている。年上だからこそ蒼二は本人にもなかなか言い出せずにいた。
奥ゆかしく強引さのない蒼二の性格をよく理解しているミサキは、少し悩むように口元に手を当てる。
「そういう雰囲気にもならないの? ほら、泊まったりとか」
「最近はよくうちに来て泊まりはするんだけど、全然」
「えっ? 横で寝ていてなにもしてこないってこと? この蒼ちゃんを横にしてなにもしないの? は? 嘘でしょ。私だったら間違いなく襲うわよ!」
「え? いや、ミサキさんに襲われても困る」
鼻息荒く答えられて蒼二の顔が困惑したものに変わる。しかし目の前のミサキはありえない、信じられない、もったいないとブツブツ呟き始めた。
そんなミサキに蒼二は返す言葉も見つからず引きつった笑いを浮かべる。けれどしばらく黙って彼女の独り言を聞いていたが、ふいに背後に気配を感じて蒼二は振り返ろうとした。
けれど後ろに立っていた人物との距離は思いのほか近かった。振り返る前に背後から伸びてきた手がカウンターに置かれ、肩にはグラスを掴んだ手が乗せられる。あまりにもパーソナルスペースが狭くて、驚いた表情のまま蒼二は後ろに立つ人物の顔を見上げた。
「明良さん」
「よう、蒼二。久しぶり」
「あれ? 今日は一人?」
「……あんた、可愛い顔して痛いところつくんだな」
蒼二の後ろでにやりと笑みを浮かべたのは、同じ常連の一人。男らしい精悍な顔つきといささかきつい眼差しが色気を感じさせる男前。
カウンターの奥に一人でいた人物だ。しかし蒼二の記憶では彼がこの店に一人きりでいるのは見たことがないくらい、常に誰かと一緒だった。だからてっきり相手と待ち合わせていたのだと思っていた。
「ちょっと、明良くん! 蒼ちゃんに手を出さないでよね! この子はもうお手つきよ」
「わかってるって、俺を節操なしみたいに言うなよ。人のもんに手を出すほど落ちちゃいねぇよ」
「そんなこと言って! こないだ振られたばっかりで適当に隙間を埋めようとか思ったりしてるでしょ」
「面白いことに首を突っ込みたいだけだって」
「それがよくないって言ってるでしょ! まったくもう。蒼ちゃんいまのこの男は要注意よ」
いきなり言い合いを始めたミサキと明良に目を瞬かせ、蒼二は小さく首を傾げる。この色男はかなりモテるが、遊びが長く続いても本命には長続きしないという噂があった。少し強引さもあるが、根は優しくて面倒見もいい。蒼二自身も何度か声をかけられたことがあったが、しつこく言い寄るようなタイプでもない。
「明良さん優しいのに、なんで振られるんだろう?」
「それは俺も知りてぇな」
「明良くんのは愛情過多よ。盲目になりやすいの。普段の明良くんとギャップがありすぎてそれについていけないのよ」
「ふぅん、でも一途な人に愛されたら幸せだと思うけど」
「そうだろう。よくわかってんな。蒼二、あんた可愛いな」
不思議そうに横にある顔を見つめると、蒼二は肩を抱き寄せられて頬ずりされた。間近に迫るとほのかにコロンの香りが鼻先をかすめる。胸に抱き寄せられてやっと感じるその香りは、鼻につくような匂いでなく、身だしなみにもかなり気を使っているのが感じられた。
それと共に蒼二はふいに紘希を思い出す。彼もまた爽やかな香りを身にまとっている。隣に並んでやっと感じるくらいの優しい香り。いい男は気遣いがほかの男とは違うのだなと蒼二は思った。
「それはそうと、彼氏はあんたを大事にしすぎて手を出せないでいるんじゃないのか」
じっと明良を見つめていた蒼二は、ふいに目を細めたその視線にふっと我に返る。そして隣に腰かけた明良の顔をまたまっすぐと見つめた。けれどウィスキーグラスをカウンターに置いた明良は、なにも言わず頬杖をついて蒼二の顔を見つめ返す。
その視線を受け止めながら、こんなに夜の雰囲気が似合う人はそういないだろうと蒼二は変に感心してしまった。明良にはまだ若い紘希が持っていない大人の魅力がある。
「蒼ちゃん! なに見つめちゃってるのよ」
「あ、いや、つい。明良さんは昔からほんと変わらないなぁって思って」
「そうか? 少しは大人になっただろう?」
色気を含んだ眼差しが細められると、明良の手が蒼二の柔らかな髪を撫でる。その感触に驚いて肩を跳ね上げれば、明良はやんわりと笑って手を引いた。容易く手のひらの上で転がされるような感覚に蒼二の胸は鼓動を速める。
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