会えない時間

 雨降りが続き、鉛色の空が続く毎日。今日も天音の一日は図書館で始まり、図書館で終わる。
 週休二日制ではあるけれど、休みの日も図書館に訪れてしまうくらい、天音は本の虫だ。中原ほど中毒ではないが、本に囲まれていると落ち着くので、この場の空気を味わうのが好きだった。

「道江さん」

 閲覧室で本を読んでいたら、道江がちょうどすぐ傍を通りかかる。手が空いている様子だったので、天音は思わず声をかけてしまった。

「あら、またいたのね。休みだって言うのに、職場にいるの遠藤くんくらいよ」

「僕の中では、遊園地みたいなものです」

「遊園地は驚きね。読んでる本から推測すると、さながらジェットコースターで急降下してるところかしら? でも私はテーマパークのスタッフじゃないわよ?」

 天音のあっけらかんとした答えに、道江は呆れたように肩をすくめる。それでもくだらない冗談に付き合ってくれるところが、とても彼女らしい。

「ところでなにか私に用事?」

「あー、えっと」

 急に言葉を濁す天音の顔を、道江は窺うように見つめてくる。その視線に思わず口ごもれば、なにかを悟ったのか、にんまりと笑みを浮かべられた。

「今日もあの子は来てないわよ。それが聞きたかったんでしょう?」

「えっ! あ、まあ、そう、なんですけど」

「ここ数日、顔を見ないわね。忙しいのかしらねぇ。毎日のように顔を見ていたから、見ないと気になるものよね」

「です、よね」

 マンションまで送ってくれた翌日から一週間、ぱたりと中原の姿を見なくなった。天音が把握している限りでは、こんなにも長く来館しないのは初めてのことだ。

 あのあとはひどく気恥ずかしくて、会話らしい会話ができなかった。顔もまともに見られず、素っ気ない態度に見えたかもしれない。
 もしかして怒っているのだろうか。

 態度だけではなく、余計なことも言ってしまった。突き放された瞬間を思い出すと、ひどく気が重たくなる。
 それでも中原は自転車とぶつかった天音を、とても心配してくれていた。

 鞄から聞こえてきた声も、まっすぐと自分に向けられているように感じた。
 言葉の続きはいまだによくわからないけれど、一緒にいて楽しい、と感じた天音の気持ちと同じように感じていてくれたのだろうと想像はできる。

 避けられている、とは思いたくなかった。
 しかしよく考えればたかが一週間、とも言える。学生の時間は大人よりも密度が高そうだ。予定が詰まって、来る暇がないだけかもしれない。

「またそのうち来るわよ。元気出して」

「え?」

「あの子と仲良くなってから、遠藤くんの笑顔が増えたから、私としても早くまた顔を出して欲しい」

「そんなに、わかりやすいですか?」

「空気が柔らかい、とでも言うのかしら。いままでは、そつなく淡々と仕事をこなしてるって感じだったけど、毎日とっても楽しそうだったわよ」

 微笑ましそうに目を細められて、天音は自分の頬が熱くなっていくのを感じる。そこまであからさまに態度に出ているとは、まったく思っていなかった。
 身近に友人というものがいない天音には、中原は気が置けない貴重な存在だ。

 心の声を聞いて嫌な気分にさせられることもなく、それどころかほっと息がつける。だからこそ彼が来るたび、小さな会話を交わせるのが、楽しいと思っていた。
 いまはあの言葉の先が気になって、ドキドキとしてしまうが。

「来たら教えてあげるわよ。せっかくのお休みなんだし、もうちょっと羽を伸ばしなさい。日曜日にお休みなんて、そう何回ももらえないんだから」

「はい、家に帰ってゆっくりします」

「そこでまっすぐ家に帰っちゃうのが、遠藤くんらしいわね」

 苦笑交じりにため息をつかれたが、天音は黙って笑みを返した。休日の人混みは人の声も雑多に溢れているので、あまり気が進まないのだ。
 その点、図書館は各々が自分の思考に没頭しているので、聞こえてくる声も穏やかなものが多い。

 道江が仕事へ戻っていくと、天音は開いていた本を閉じる。

「なにか甘いものでも、買って帰ろうかな」

 中原が気にかかるものの、気にしたところでどうこうできる問題でもない。いますぐ会ったところで、簡単に彼の気持ちを確かめられるわけでもない。

「気分転換。気分転換しよう。ちょっと奮発しようかな」

 天音の住むマンションは、図書館から徒歩で二十分ほどの場所。通勤路の途中にあるコンビニの隣に、小さなケーキ屋があり、そこでデザートを買うのが楽しみの一つだ。
 先日新作が発売されると、チラシをもらったばかりだった。

 目的が決まると、次の行動に移るのは早い。天音は軽い足取りで図書館をあとにした。

**

 ぽつぽつと傘に雨粒が落ちる音を聴きながら、今日はなにを買おうかと、思考を巡らせるのが楽しい。
 天音は大の甘い物好きなので、ショートケーキを一人で三個くらいはぺろりと食べる。スレンダーな体型をしているため、驚かれることが多いが、それでも控えめにした数だ。

 自分の誕生日には、毎年フルーツやクリームがたっぷりの、ホールケーキを一人で食べる、という贅沢をしている。
 目印のコンビニに着くと、ケーキ屋のほうは少し列になっていた。どうやら今日が新作の発売日だったようだ。

 ウキウキした気持ちで足を速めたが、ふいに横切る人と傘がぶつかった。向こうは天音に気づいていなかったのか、慌てたように後ろへ下がる。

「すみません」

「いえ」

 天音に道を譲った男性は、蒸し暑い季節だというのに、マスクに厚手のカーディガン、ネックウォーマーという完全防備。
 一歩間違えると不審者に思える。けれど咳き込んだその様子で、風邪を引いているのだと気づいた。

 天音が黙っていると、彼は軽く会釈をして歩き去って行く。

「あっ、落としもの」

 ぼんやり後ろ姿を見ていた天音だったが、ふいに靴先に当たったものに気づき、慌てて拾い上げた。――途端に、小さな音が響き、光が広がる。
 ラジオが混線したように不鮮明な音ばかりだが、覚えのある優しさと温かさを感じた。

「え? あ、待って! 中原くん!」

 道の先で角を曲がってしまった背中を、天音は大急ぎで追いかける。拾ったキーホルダーから感じた音は、間違いなく中原のものだ。

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