「それにしても、人の気持ち乱すような発言をさらっとするのに、なんで片想いのままなんだろう」
心の声が聞こえなくとも、中原は紳士的かつ素直な性格だ。雪宮の言葉を鑑みても、彼があれこれと尽くしているのがわかる。
天音でさえ褒められただけで、胸がざわめくのだから、本気で気持ちを込められたら、トキメキどころかキュン死しそうだ。
「雪宮くんはよほど鈍感なのかな?」
やはり彼の中では、中原の優しさは友情でしかないのだろうか。言葉の少ない中原だから、想いをちゃんと伝え切れていないのかもしれない。もう一歩踏み出せば、ゴールは見えてきそうに思える。
これは恋愛のハードルが低い人間の考えだからなのか。
「中原くん、薬は飲んだ? 身体拭こうか」
部屋に戻ると、ちょうど中原が器をサイドテーブルに置いたところだった。
「うん。もう脱いでいい? 食べたら、すごく汗ばんできた」
トレーナーとTシャツをためらいなく脱いだ中原に、天音の胸の音が跳ねた。少し前の言葉がよほど効いているのか、ひどく彼を意識してしまっている。
「……せ、背中、拭いてあげるね」
服を着ている時は着痩せをしていて、さほど大きくは見えなかったのに、実際の中原の身体は、程よく筋肉がついていて男性らしい。
胸をはやらせながら、背中に触れると、小さく笑われた。
「な、なに?」
「照れてて、可愛いなって、思っただけ」
「中原くんは、ちょっと可愛いを安売りしすぎだよ」
「なんていうか、遠藤さんって、存在が可愛い」
「あんまりからかわないでよ」
「からかっては、ないんだけどな。嬉しかったから。……今日はありがとう」
「うん」
優しさのこもった、温かい声に胸がざわめく。もしも彼に片想いの相手がいなかったら、素直に嬉しいと思えていただろう。
いままで天音は、自分の力を煩わしく思うことが多かったけれど、いまばかりは感謝せずにはいられない。
報われない恋をして、痛い失恋をせずに済んだ。
彼が眠っていた時に、天音は窓辺に置かれたサボテンを見つけていた。その周りだけやけに綺麗で、とてもとても大切にされているのが一目でわかる。
指先で触れただけで、そこから雪宮への想いが、大きな波のように押し寄せてきた。
その感情を思い出し、この胸の想いは決して、膨らませてはいけないものなのだと、自分に強く言い聞かせるしかできなかった。
「遠藤さん?」
「あっ、ごめん。ちょっと考えごとしてしまって」
いつの間にか手を止めていた。冷たくなったタオルを慌てて湯に浸して、天音はこぼれそうなため息を飲み込んだ。
少しばかり優しくしただけで、熱を上げられては中原も迷惑だろう。根が優しいから、人に親切にしてあげたくなる、それだけ。
「いや、これはすごく卑屈だ」
「遠藤さん、なにか悩みごとがあるの?」
「ご、ごめん! もたもたしてたら風邪がまた悪化しちゃうね」
訝しげに振り返った、中原の視線に身体が反射的に飛び上がる。誤魔化すようにせっせと背中を拭くが、視線が離れていかず、今度は冷や汗が出た。
まっすぐ見つめられると、天音は弱い。嘘が得意ではないので、うっかり本音をこぼしてしまいそうになる。
「なんでもないよ」
「……」
「ほんとになんでもな……」
言葉を紡ぎ終わる前に押し止められ、状況把握するのに時間がかかった。手を取られて、身体を引き寄せられて、気づけば中原の腕の中。
しっとりとした、少し冷えた肌が頬に触れていた。
「な、中原くんっ」
恥ずかしいほどに声が裏返っている。自分でも感じられるくらいに顔が熱く、それどころか身体から湯気が立ち上りそうな気分だ。
それなのに身じろごうとする天音を、中原は強く抱きしめる。
「さ、さすがにこれは駄目だと思うよ」
慰めるためだとしても、これは勘違いせずにはいられない。こんなことをされたら、期待をしてしまうのが恋心だ。
とはいえわかりきった答えに、期待は持ちたくなかった。
「中原くん、離して」
「なにか悩んでるなら、教えて。遠藤さんが泣いてるところは、もう見たくない」
「……え? 僕、中原くんの前で、泣いたことあった?」
「あ、それは」
あからさまに肩を跳ね上げた中原を見上げると、珍しく目が泳いだ。視線を追いかければ、顔までそらされる。
いつ泣いたところを見られたのだろう。そもそもここ最近、天音は泣いた覚えもない。
「いつの話?」
「いつ、だったかな」
「そんなに前の話? でも人前で泣くようなこと、記憶にないんだけど、……って中原くん?」
急にきつく抱きしめられて、心拍数が一気に上がる。これは心臓に悪い。好きになりかけている人に、抱きしめられている、というだけでもキャパオーバーなのに。
半裸なせいで目のやり場に困るうえに、触れる熱がはっきりと伝わる。
「中原くん、すごく胸の音が早い」
「言わないで。恥ずかしいから」
「じゃ、じゃあ、離して」
「嫌だ。遠藤さんが悲しそうにしてるのは見たくない」
「ほんとにそれ、いつの話?」
中原と会話をするようになって、まだそれほど経っていない。以前から認識されていたようだけれど、図書館で泣くなどあり得ない。
「恋人はいないけど、好きな人はいるんだよね?」
「す、す、好きな人?」
先ほどよりもひどい、自分の動揺っぷりに焦りが増す。もしや邪な気持ちが伝わってしまったのか。
天音の頭の中で、これまでのやり取りが早送りで駆け巡る。
「モデルみたいにすらっとした。長い黒髪の綺麗な人」
「ん?」
「銀縁眼鏡で知的そうに見えるけど、神経質で嫌味っぽそうな人」
「んん?」
ぽつぽつと呟く中原の言葉を聞いて、天音の中に思い浮かんだ人物がいる。しかし彼女に泣かされた覚えは――あるが、もう随分昔の話だ。
中原が図書館にやってくる、ずっと前。
「親しそうに腕を組んで歩いてた。彼女と別れたあと、しばらく寂しそうに背中を見つめて、泣いてた」
「僕があの子と付き合ってたの、もう五年も前だし。腕を組んで歩いてなんか……あっ」
きゅるきゅると巻き戻る記憶の中で、思い当たるものを見つけた。思えば春頃に会っている。
会ってはいるが、中原の想像しているような甘い関係ではなく。ばったり出くわしたところで拉致られた、が正しい。
「別れた男が自分より幸せになっていないか、確認されただけだよ。そのあと自分の結婚と、旦那さん自慢をして帰って行ったくらいで」
「プライドの高いタイプが好みなの?」
「そういうわけじゃないよ。んー、出会った頃はもう少ししおらしかったんだけどね」
「その話を聞いて、泣くくらい好きだった?」
「な、泣いてないよ! 全然、これっぽっちも。いまはそういう気持ちもないし、どうしてそういう勘違い」
労るように頬に触れた手が熱くて、まっすぐに見下ろしてくる瞳が切なげで、天音は言葉が詰まった。本当に心配をしてくれているのが、伝わってくる。
「最近、元気ないから。その人となにかあったのかと」
「違うよ! それとは全然関係ない! あの時も泣いてないよ。……あっ、コンタクト。コンタクトレンズがズレただけ」
ふっと天音の頭に浮かんだ記憶。泣いてはいなかったけれど、涙はこぼしていた。タイミングが悪く、彼女を思って泣いているように見えたのか。
「ほんとに好きな人じゃない?」
「違うよ」
「……良かった」
安心したようにほころんだ中原の表情に、胸が早鐘を打つ。ぎゅっと包み込むように抱きしめられて、髪に頬をすり寄せられるだけで、心臓が飛び出してしまいそうになった。
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