心の声を聞く力は、時折傍にいる人へ伝染する。天音がものを介するのに対し、相手は直に触れるだけで天音の声を聞く。
これまでの経験では、長く付き合った相手に移ることがほとんどだった。
伝染するまでの期間は早くて一年。遅くとも二年ほど経った頃だ。蜜月を過ぎて、二人の関係が緩やかに落ち着き始める、安定期とも言える頃合い。
そしてその現象が起きたあと、関係は必ず壊れる。
いつも告白してくる相手は、天音の見た目の良さと、ものごとにあまり執着しない、さっぱりとした性格を好んだ。
だが実際の天音は、恋をすれば人一倍、執着心も嫉妬心も強い。表面にわかりやすく現れていない、だけの話なのだが、相手は天音の本心を知ると途端に離れていく。
続いたとしても、お互いが力のせいで触れ合うことをためらうようになり、関係は自然消滅した。
この力がある限り、誰かと愛し合うことなど到底無理だ。
恋がしたい、だなんて高望みだった。
誠の優しさを疑うわけではない。あんなにも優しい彼が、心の綺麗な人が、酷い仕打ちをするとは考えられない。
それでも本心は?
重たすぎる感情に気づいて、うんざりとした気持ちになって、鬱陶しいと思った時、誠はどうする?
すぐさま手を払いのけるだろうか。いや、優しい彼のことだ、きっと我慢をさせてしまう。
いくら好きでも、心がないのに傍にいるのは辛い。
すべて妄想で、憶測で、確かな答えではないとしても、考えること全部がマイナスへと働く。
それほどまでに天音にとって、相手に力が移ることはトラウマだ。
「遠藤くん、大丈夫?」
「え?」
「このところ顔色が良くないわね」
帰り支度をしている天音の顔を、横から見つめる道江はひどく難しい顔をする。そんな彼女の反応に、天音は平気な素振りで笑みを返した。
「ちょっと寝不足なだけです。いま読んでる本が、なかなかやめられなくて」
心配される原因には、心当たりがありすぎるが、それを口にすることもできない。とはいえそろそろ言い訳も尽きてきた。
面倒な作業をすべて引き受けて、裏方ばかりに徹する天音に、道江が疑問を抱いているのを感じる。
あれほど気にかけていた誠とも、二週間以上、顔を合わせていない。彼が何度か天音が出勤しているか、訊ねてきたことは知っている。
同僚たちに、絶対に取り次がないで欲しいと言ったので、いまはそれもなくなった。
表での作業中に、うっかり遭遇しかけたこともあるけれど、向こうはまだ一度も天音の姿を見ていないはずだ。
あのあと出勤するなり退職届を出した。当然だがいますぐに辞めることは難しく、代わりの人が来るまでいて欲しいと言われている。
しかしこれ以上、逃げ続けるのも難しい。少しでも出勤日を減らして欲しいと、朝に願い出たところだ。
収入が減るのは痛いが、貯金を崩せばしばらくはなんとかなる。
「遠藤くん、気分が落ち込む時は、ぱあっと飲みに行きましょう。今日は私のおごりよ」
「いや、でも」
「のんびりしてるし、別段予定はないんでしょう?」
「そうですけど」
「じゃあ、決まり! 行きましょう」
ロッカーを閉めると、道江は逡巡する天音の背を叩いて強引に連れ出す。その行動に戸惑うものの、気を紛らわしたいのも確かだった。先を歩く彼女の背中に、わずかばかり気持ちが浮上する。
いまはあれこれと考えるより、ストレスを発散するほうがいいだろう。
離れたいと思っているのに、以前にも増して頭の中は誠のことばかりだ。
――忘れてしまいたい。
いっそ記憶喪失にでもなったら、すっきりできるのではないか。そんな都合のいいことが、起きるわけがないのに、馬鹿なことを考える。
近づかなければ良かった。
秘密を話してしまったことを、天音はいまさらひどく後悔する。言わなければ誠は興味など持たなかった。こんなにも近づくことはなかったはずだ。
**
「今日はここにしましょ」
駅前に向かって歩いていた道江は、表通りから少し裏に入ったところにある、チェーン展開している居酒屋を選んだ。そこは店が広く、席にゆとりがあるので、のんびり飲むにはもってこいだ。
値段も格安で、財布にもあまり響かないため、給料日前は二人でよく来る。
「今日はちょっといつもより賑やかね」
「学生さんですかね。……あっ」
店員に案内されながら席へと向かう途中、通路に面した座敷から騒がしい声が響き、天音はなにげなく視線を向ける。
そして学生とおぼしき集団の中に、誠の姿を見つけた。思いがけない遭遇は、途端に気まずい気持ちを湧き上がらせる。
さらには彼の隣に座る青年を見ると、胸の中がざわめいて、息苦しさを覚えた。
べったりと甘えるように、誠にもたれかかる雪宮。すりつくように身体を寄せても、呆れた表情を浮かべるだけで、誠は彼を拒むことをしない。
そんな二人の様子を見つめる天音の中に、羨ましいという感情が湧く。
少し前までは、誠の心に触れて、自分が誰よりも彼のことを知っているような気になっていた。小さな声を聞いて、なにげない会話をして、それだけで満足だった。
好きになりそうだと気づいた時も、いままで通りでいれば、好きにならない、諦められると思っていた、はずなのに。
本当は最初から、彼の優しさすべてが欲しいと思った時から、恋に落ちていた。
「初恋って、実らないんだっけ」
初めて自分から好きになった人。本当はいますぐにでも声をかけて、名前を呼んで欲しい。まっすぐなあの瞳に見つめられたい。
ここにいる自分に気づいて欲しい、そう思うくらいなのに、天音は一歩も動くことができなかった。
それ以上に怖いからだ。誠に触れられて、自分の醜い心を知られて、嫌われるのが、なによりも怖くて仕方がない。
彼に冷たい瞳を向けられるくらいなら、粉々に砕け散って消えてしまいたい。
このまま会わなければ、そのうちきっと忘れてくれる。天音の本心としては忘れて欲しくないけれど、嫌な思い出として誠の中に残りたくなかった。
散々気のある素振りをしながら、逃げ出すなんて――最低だ。
「まだ始まる前で良かったじゃないか」
自分に向けた苦し紛れの言い訳に、天音は自嘲の笑みを浮かべた。
誠なら、いつか心の中を覗かれても、大丈夫ではないか。そんな期待があった。
それでもいざその時が来ると、怖くて踏み出すことができない。
いままで何度期待して、何度打ちのめされてきたか。
「おかしいな。いままではちゃんと、笑ってさよなら言えたのに。逃げたら、言えない」
「遠藤くん、どうしたの?」
「なんでもないです」
いつの間にか先へ進んでいた道江の声に、天音は意識を引き戻される。心配そうな彼女の面持ちを見て、長らく立ち止まっていた足を動かした。
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