三月の中頃――その日はいつもと、変わらない始まりだった。まだこの時も仕事を始めていなかったので、僕の仕事は目下、美代子さんのお手伝い。
アパートの周りを掃き掃除したり、空き部屋が痛まないように、軽く掃除したり、ご飯の支度もした。
この場所に転がり込んでから、ここへやってくるのは園田さんと、八百屋の吉吾さんくらいだ。
六世帯入る部屋が三つも空いていて、収入には困らないのだろうかと、不思議でならない。
そもそも建物自体が古いし、内装も古めかしい。苦学生が集まるような場所でもないし、今どき風呂なしでは入居者も見つからなさそうだ。
レトロと言えば聞こえはいいが、やはりボロアパートなのだ。
それでも美代子さんの部屋の畳は新しいし、ホットカーペットが敷かれて最新のエアコンもついている。
家電製品も新しいものばかりで、あまりお金には困っているようには、見えなかった。
紺野さんは売れっ子作家のようだから、それなりの収入があるのかもしれない。そもそも僕が一人増えたところで、なんてことないという顔をしている。
「今日はお日様ぽかぽかだね」
「本当ね。お洗濯物がよく乾きそうだわ」
入居者がほかにいないので、庭は広く使い放題。
大判のシーツやタオルケットまで存分に干せる。一番の大仕事、洗濯を終わらせて、美代子さんと二人縁側でほっと息をつく。
そうしていると上のほうで、カタンと小さな音がした。
おそらく窓を開けた音だろう。
「紺野さん起きたのかな? 布団を干して、ついでに掃除もしてくるよ」
「そう? よろしくね」
作家というのは、いつも仕事に追われて、徹夜をしているようなイメージがある。けれど普段の紺野さんは、そこまで追い詰められて仕事はしていない。
ただ夜のほうが捗るようで、深夜まで執筆をして、お昼の少し前に起きてくることが多い。
そして適当に部屋にあるものを食べながら、ひなたぼっこをして、また仕事に向かう。少々生活がずさんではあるが、光合成しているだけマシである。
「紺野さんおはよー! 今日は天気がいいから布団を干そう」
ノックもせずに玄関扉を開いたら、台所でパックから牛乳を直飲みしている彼と目が合った。
呆れて目を細めたけれど、なにも言わずにさらにごくごくと飲んで、それを冷蔵庫にしまう。
よれたスウェットの上下、ボサボサの頭、これにいつもなら無精ひげが加わっている。だが今日は、顔を洗った時に剃ったのか、スッキリとしている。
これはだいぶ珍しい。
そうこうしているうちに、オーブントースターがチンと音を立てて、焼けたトーストを取り出してそのままかぶりつく。
「もう、ながら歩きしちゃ駄目だよ! パンくずがこぼれちゃうよ」
後ろを追いかけて、皿を差し出したら、黙ってそれを受け取る。起きたばかりだけれど、今日はあんまり寝起きは悪くないようだ。
僕が布団を干している傍で、黙々とトーストを食べている。
喉に詰まらないのかな、と心配になるが、難なく飲み込んでしまった。そして手のパンくずを、そのまま払い落とそうとするので、慌ててゴミ箱を差し出した。
「二階の掃除するから、美代子さんのところ行ってて」
大きなあくびを噛みしめる顔に、肩をすくめたら、立ち上がった彼はじっと僕を見つめる。そしてぐしゃぐしゃと、乱雑に人の頭を撫でて部屋を出て行った。
「子供扱い、されてる?」
見えなくなった後ろ姿に、ため息が出る。どう見たって自分のほうが、年下なのは明らかだけれど。端から相手にされてないみたいな態度は、へこむ。
あんまり雄弁ではなく、あんまり表情豊かではないけれど、僕はあの人が好きだ。
どこに惹かれる要素があったか、それを深く考えるとわからなくなるのだが、小さな優しさが温かい。
面倒くさがっても鬱陶しがっても、紺野さんは僕を否定しないのだ。この心にある気持ちをないものにはしない。
だいぶ無視はされている気はするけれど、絶対に拒否しない。
だからいまはまったく相手にされていないが、いつかきっと振り向かせてみせるんだ。
「ほんと紺野さんの部屋ってものが少ないなぁ」
押し入れから掃除機を引っ張り出して、日に焼けた畳の上を滑らせる。これが締め切り目前だと、資料やらなにやらが散らばっているのだが、基本的にあるのは布団と机、本棚くらいだ。
掃除のし甲斐がない、とも思うが片付いているのはいいことだ。
「わっ、風っ」
窓を開け放っていたので、急に吹いた風でカーテンがはためいた。それとともに引っかかったものが、バサリと畳に落ちた。
仕事机の本立ての端っこに、少し出っ張っていた冊子のようなもの。
掃除機を止めてそれを拾い上げると、それは写真集だった。青色を集めた不思議な写真集だ。
わかりやすいのは空、海、シーグラス――ほかは、青を映し出した空間や外壁、階段、風に煽られたような布、グラスやカップ。
色んな色合いでは、あるけれどすべてが青色だった。
濃淡のある、青が滲むように混ざり合ったシーグラスは特に綺麗だ。鈍い光だけれど、宝石みたいにキラキラして見える。
「ふぅん、紺野さんこういうの好きなんだ。青って言っても色んな色があるもんなんだな。すごく綺麗だなぁ」
かなり年季が入っているのか、写真集は少し古ぼけている。表紙が色褪せていたり、へこみがあったり、ちょっとだけ破けがあったり。
それでも大事にしているのは、なんとなく伝わる。
それを見て、僕は胸をわくわくさせてドキドキさせた。今日のために選んだものは、間違いじゃないかもしれないと思えたからだ。
そっと写真集を元の位置に戻して、小さな含み笑いをすると、もう一度掃除機のスイッチを入れた。
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