二階の掃除を終わらせて、一階に下りた頃には、紺野さんはどこかへ出掛けていた。いつもなら家で、ぼーっとしていることがほとんどなのに、珍しいこともあるものだ。
仕事だろうか。
普段は園田さんがやってくるけれど、時折出掛けていないことがある。そういう時は、身綺麗にしていることが多いのだ。
その辺へ出掛けるくらいだったら、ひげが生えたままでも気にしないから、元より出掛ける日だったのだろう。
「美代子さん、今日の夕飯の買い物は?」
「今日のお買い物はないわよ」
「そうなの?」
昼を過ぎて、のんびりと美代子さんの部屋でテレビを見ていた。そうして夕方近くなり、そろそろ買い物時だと、立ち上がった僕に彼女はやんわりと笑う。
しかし僕は冷蔵庫の中身を思い浮かべて、首をひねった。
作り置きのおかずは昨日食べきったし、野菜も買い足してもいい頃だ。いまの食材では今晩は大したご飯を作れない。
「ええ、いいのよ。今日は外で夕飯を食べる予定だから」
「え! そうなんだ?」
今日は珍しいことが続くものだ。わりと慎ましい生活なので、外でご飯を食べるなんていままでしたことがなかった。
いや、紺野さんが面倒くさがって、外へ出ないだけなのかもしれないのだが、ここへ来てから初めてのことだ。
「あ、紺野さんは帰ってくる?」
「大丈夫よ」
「そっか、良かった」
「そうそう、ミハネちゃん。そろそろお着替えをしましょう」
「え?」
外でご飯の上にお着替えって、一体どんなところに連れて行かれるのだろう。
にこにこ笑う美代子さんは、隣の部屋へ行くとスーツカバーを手にして戻ってくる。
この日のためにわざわざ? と言う激しい疑問が浮かんでくるが、少し嬉しくもなる。
「これって」
「文昭からよ」
自分のものも、僕の着るものも無頓着なあの人だから、美代子さんが選んでくれたというのが正しいのかもしれないけれど。
これは彼が僕のために、買ってくれたものということだ。
「今日ってなにか特別な日なの?」
「そうね、記念日かしらね」
「紺野さんの?」
「そうかもしれないわ」
僕の問いかけに返ってくるのは曖昧な答えで、正直言うと要領を得ない。
それでも今日がなにか特別な日で、そこに僕も混ぜて貰える、そのことが素直に嬉しかった。
用意してくれた、ネイビーのセットアップスーツはカジュアルで、九分丈のパンツにジャケット、少しラフにストライプのシャツの裾を詰めずに着る。
地味な僕に着こなせるか不安に思ったが、姿見で見た自分はわりと様になっていた。けれどしつらえたみたいにぴったりで、少し驚いてしまった。
「ミハネちゃん素敵よ」
「美代子さんも素敵だね」
僕が着替えたあとに、着物に着替えた美代子さん。薄い桜色の着物は、優しい顔立ちの彼女にとてもよく似合っている。
普段は動きやすい洋装だけれど、背筋もピンとしていてすごく綺麗だ。
「今日はどこまで行くの? ここまで着替えて近所ってことはないよね?」
「隣町よ。電車で少し行った先のお店だって言ってたわ」
「美代子さんも初めて行くんだね」
「ええ、……あら、もういい時間。そろそろ出掛けましょうか。きっとあの子が待ってるわ」
「うん!」
遠足へ行く子供みたいに、気持ちがウキウキとした。新しい真っ白いスニーカーで進む足取りも軽くて、顔がニヤニヤして仕方がない。
駅までの道、商店街の人たちに見送られながらあの人のことを考えた。今日はどんな格好をしているんだろう。
一度だけスーツを着ているのは、見かけたことがある。背も高いし、肩幅もあるし、顔もいいのでそれも抜群に似合っていた。
普段のだらけた姿からは、想像もつかないくらいのイケメンっぷりで、そんな格好で誰に会いに行くんだろうって、ちょっと嫉妬してしまったくらいだ。
けれど実際の彼は、僕の想像を上回っていた。見慣れた小さな駅、その入り口に佇む人に見惚れてしまう。
「紺野さん!」
思わず弾かれるように駆け出して、彼の元へ走り寄った。僕の声に振り向いた紺野さんは、少し眩しそうに目を細めたように見える。
けれどそんな仕草よりも、目の前にある姿から目が離せない。
顔立ちは決して和風ではないのに、深い紺色の着物を身にまとったその姿は、堂に入っていた。
着せられている感がなく、おそらくこれまで何度も着ているのだろう。仕草も動作も着慣れている感じがする。
「すごいすごい! 格好いいね! わぁ、美代子さんっ、写真、写真を撮りたい!」
四方すべてを見渡そうと、ぐるぐると忙しなく彼の周りを回ってしまう。そんなはしゃぐ僕に、美代子さんは笑ってデジタルカメラを手渡してくれる。
それを渡されるや否や、一人で大騒ぎしてシャッターを切りまくった。
「ミハネ、ウザい」
「えー! えー! こんな紺野さん、次いつ拝めるかわかんないじゃない!」
しばらくちょこまかとしていると、伸びてきた手に頭を押さえつけられる。それでもジタバタしたら、大きなため息を吐き出された。
むぅっと口を尖らせると没収、とカメラを取り上げられてしまう。
「馬鹿、容量がなくなるだろう」
「いいよ! 紺野さんが写ってたら僕それだけで満足!」
「そんなのいらねぇよ」
ピンと額を指先で弾かれて、ちょっとだけ星が飛ぶ。大げさに痛がって見せたら、肩をすくめて歩き出してしまった。だけど慌てて背中を追いかけて、くっついたら頭を撫でられる。
なんだか今日の紺野さんは、いつもよりももっと優しい気がした。
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