鈴凪荘に転がり込んだのは、年がもうすぐで明ける、というような頃だった。それから僕は、一度も小さなあの町を出たことがなかった。
いままできっと何度も乗っただろう電車も、そこから見える景色も、珍しくて少しはしゃいでしまう。
いつも以上にお喋りな僕に、美代子さんはにこにことして、紺野さんは少しだけ穏やかそうな顔をしていた。
年の暮れに着の身着のままで、一体なにがあったんだろうって、いまでも考えることがある。ここにたどり着いた時には、僕は僕のことがわかっていなかった。
そもそも人が記憶をなくすって、どんな時なのかと不思議に思う。それにいつから記憶がないのか、正直定かではない。
ここについてから記憶をなくしたのか、それとももっと前から記憶がないのか。
気づいた時にはあの町にいたんだ。
お金は持っていなかった。あったのはICカードが一枚。
これで電車に乗ってきたようなのだが、それは連絡先などが登録されていない無記名のものだったらしい。
真新しいカードの記録を見れば、どの辺りから乗ってきたかは、わかるだろう。
それでもこの二人は、僕に思い出すよう急かさないし、それについて問いかけてくることもない。
「あ、海だ! 夕暮れで綺麗だね」
電車の窓から海が見えた。隣町に海があることは知っていたが、実際見るとなんとなく感動する。広い海、広い世界、それはどこまで続いていくんだろうか。
だけどいまは、あの小さな町だけでいいやって思ってしまった。多分僕は帰りたくないんだと思う。
この温かくて優しい、幸せの中にいたいんだ。
こうしてすぐ傍で、紺野さんや美代子さんが笑っていてくれる。それ以上の幸せってあるのかな。
「下りるぞ」
「はーい!」
電車に乗って四十分と少しくらい。各駅停車の小さな駅に下りた。
海が近いようで少し潮の香りがする。日が暮れてきて、辺りは薄暗くなっていたけれど、外灯の明かりがぽつぽつと灯っていた。
駅前でタクシーに乗ると、町並みが通り過ぎていく。小さな商店街や神社があって、いま住んでいる町に少し似ている。
車はどんどんと進み、十分くらいすると上り坂を上って、小さなレストランの入り口で止まった。
それほど大きくない、こぢんまりとした印象のその店は、外壁や屋根も真っ白で、薄闇の中にぼんやりと浮かんで見える。
周りに遮るものがないから、日が射し込んだり夕陽がかかったりしたら、綺麗だろうなと思う。
「あ、もしかしてここって、お店の中から海が見えるんじゃない?」
「あら、素敵ね」
「紺野さんが、こういうおしゃれなところ知ってるのって、ちょっと意外だね」
「うふふ、本当ね」
失礼極まりない僕と美代子さんに、ほんの少し複雑そうな表情を浮かべた紺野さんは、黙って店の扉を開いた。
足を踏み入れて、まず目に入ったのは青色の照明。店全体が青いのではなく、グラデーションのようにブルーの光が滲んで見えるのだ。
まるで水族館、いや海の中にいるような気分になる。
店内も白が基調となっているので、余計に青色が映えるのだろう。店の前に出ていた看板に、横文字でブルー・オーシャンと綴られていたその意味に気づく。
海の見える店という意味もあるけれど、これはこの店ならではの演出なのかもしれない。
「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
ぼんやり店内に目を奪われていると、ふいに女性の声が聞こえてきた。それに振り向けば、紺野さんよりも少し年上と思える女の人が立っている。
僕の視線にやんわりと笑ったその人は、とても綺麗な人だった。
こんな素敵なお店に、こんな素敵な女の人がいて、無頓着極まれりな紺野さんがおそらく何度か来ている。
もしかして、……彼女とか?
「お前、いま下らねぇこと考えてんだろ」
「く、くだらなくないもん! 大事なことだよ。紺野さんいま付き合ってる人いるのっ?」
呆れた目で振り返られて、思わず声が大きくなってしまった。静かな店内に僕の声がかなり響く。
その声に女性陣は驚きに目を丸くするが、次の瞬間には吹き出すように笑い出した。
「わ、笑い事じゃない!」
「お前はほんとに馬鹿だな」
「紺野さん酷い! 僕、毎日毎日言ってるでしょ! それなのにこんな綺麗な人と会ってたなんて!」
みんなに笑われるのも恥ずかしいけれど、紺野さんに馬鹿にされるとちょっとムカつく。
噛みつくように文句を言えば、なだめすかすみたいに額を叩かれた。さらにムッとして、頬を膨らませると頭を撫でてくる。
そうすると僕がなにも言えなくなること、きっと知っててやっている。
だって僕の頭を撫でる、紺野さんはいつも優しい目をするんだ。呆れてても馬鹿にしてても、なに考えてるかわかんない時だって、温かい目をする。
「……好き、好きだよ。ほかの人に目移りしないでよ」
小さな声で呟いた。彼に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で。それでも優しい大きな手で撫でてくれるから、ささくれだった心が和らいでいく。
「心配しないで、私と紺野くんは友達みたいな感じなの。私は伊達彩芽って言います。うちの旦那さんが彼と仲が良くて、それでたまに二人でここに来てくれるのよ」
「あっ、……そうなんですか」
きゅっと紺野さんの着物の袖を掴んだら、なにかを察したのか、それともわかりやすすぎたのか。
美人なお姉さん――彩芽さんは、素性を明かしてくれた。恥ずかしさで顔が熱くなるけれど、彼女は最初と同じ柔らかい笑みを浮かべてくれる。
「さあ、どうぞ。……あっ、えっとミハネくん、お腹空いてない?」
「は、はい! 空きました」
「んふふ、いっぱい食べていってね」
窓際の海が見える席に、案内してくれた彼女はにっこりと微笑む。その笑顔に笑みを返すけれど、なぜかしばらく見つめられてしまった。
その視線に戸惑って、誤魔化すように視線を泳がせる。
店内はテーブルが四席に、カウンターテーブルがある。そしてカウンターの横には白い階段があり、二階へと伸びていた。
「ここって二階があるんですね」
「ええ、上は事務所だけれど」
「ふぅん、……ん? あれ? これ、どっかで見た気がする」
「えっ?」
浮かんだのは既視感。白い空間に青色があって、角度は違うけれどこの階段も見覚えがある。しかしそれに悩んだのはほんの少しだけで、すぐに思い出した。
写真集だ。
紺野さんの部屋で見た、青色の写真集に載っていた場所が、ここに酷似している。
しかしそれに気づいて納得した僕に反して、向かい側にいる紺野さんも、傍に立つ彩芽さんもやけに驚いた顔をしていた。
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