駅前までのらりくらりと歩いていたら、ふいに広海先輩はこちらを振り返った。
じっとこちらを見る黒い瞳にドキマギして、思わずキスしてしまいたくなるような唇から、紡ぎ出されるだろう言葉を待っていると、なぜか小さくため息をつかれた。
「あの、広海先輩?」
「お前さ、顔に全部出過ぎなんだよ」
「へ?」
呆れたように目を細められて、思わず間抜けた声を上げてしまう。
わけもわからず目を瞬かせている俺のことなど気にも留めず、彼は立ち止まった俺の目の前まで近づき、こちらを見上げる。
「そんなにキス、してぇの?」
「えっ、あ……はい」
うかつだった。改めて言われてみれば、先ほどからずっと俺は唇ばかりを目で追っていた。
意識するとそれは尚更で、目が離せなくなってくる。
そして目の前にある、ほんのり色づいている唇を見つめて、思わず生唾を飲み込んでしまった。
そうしたらふいにその唇が歪み、口角が上がった。
「馬鹿かお前、こんな道の往来でそんなこと出来るかよ」
「……いっ、痛」
にやりと笑った顔に見惚れていたら、指先で頬を摘まれてそれを思いきりよく引き伸ばされた。遠慮のない力加減に軽く涙目になった。
「お前この辺の店、詳しい?」
散々、人の顔をいじり回していた広海先輩は、それに飽きると、またさっさと歩き出す。さらに周りにちらりと視線を向けてから、俺を振り返った。
「え? あ、まあ、そこそこ」
職場から近い駅なので、この辺りは帰りに寄る店が多い。
しかし引っ越しをしてからマンションは彼の職場の近くになった。
ひと駅先だが徒歩や自転車でも行ける距離だ。それなのに家で待たずに電車にまで乗って、わざわざ俺の職場まで来たのはどうしてだろう。
マンションの周りにも、何軒か飲食店はあったような気はする。
「先輩はなにが食べたいです?」
「なんでもいい。お前が美味いと思うもの」
「俺?」
想定外の答えにうろたえれば、前を歩いていた広海先輩が立ち止まりこちらを見上げる。
「お前の飯に慣れると外で食ってもあんまり美味くねぇんだよ。だからお前が食って美味いもんならなんでもいい」
ぼそりと独り言のような声で呟かれた言葉に、思わず顔がだらしなく緩んでしまった。
それはどこで食事をしても、俺の作るご飯が一番美味しいと言われたようなものだ。
決して餌付けたつもりはないが、胃袋を掴むとはこのことかと、にやにやしてしまう。
思えば一緒に暮らすようになってから、あまり外食をして帰ってくることがなくなった。
どんなに遅くとも、帰ってきてからなにかしら俺の作ったものを口にする。
「広海先輩っ、愛おし過ぎる」
「ちょ、こら待て、抱きつくなバカ犬」
なに気ないこと過ぎて気づかなかったけれど、そんな意味合いが含まれていたなんて、幸せ過ぎて、広海先輩が愛し過ぎて、俺の尻尾は振り切れんばかりだ。
人の行き交う道の真ん中で勢い任せに抱きついたら、迷惑そうな鬱陶しそうな顔をされたが、無理やりき剥がされることはなかった。
でもそれに調子に乗って頬にすり寄ったら、肘が思いきり俺のみぞおちに決まった。
「げふっ」
「調子に乗るからだ。おい、それより腹減った」
みぞおちをさすり、肩を落とした俺を横目に見ながら、不満をあらわにして広海先輩は口を引き結ぶ。
ああ、その柔らかい唇に触りたい――なんて妄想に浸りそうになったら、鋭い視線を向けられて現実に返る。
いい加減、空腹を満たしてあげないと、本気でキレそうなところまで来てるかもしれない。
とりあえず思いつく限りの店を頭に思い浮かべて、俺は急いでそれをふるいにかけた。
「行きましょうっ、美味しいご飯屋さん」
そしてピンときた店に俺は当たりをつけて、コートのポケットに突っ込まれていた手を取って、大股で歩き出した。
半ば引きずられる形になった広海先輩の、焦ったような声がしたが、とりあえず俺は目的地に向かい歩みを進めた。
結果――犬のくせに猪突猛進だとこっぴどく怒られた。
目的を決めたら前しか見えなくなるのは、昔から持っている俺の悪い癖だ。
しかしこのおかげでこうして今、広海先輩と付き合ってるのも事実。当たって砕けろ精神で告白したのだから、あの時の俺は勇猛果敢だ。
「先輩、美味しい?」
「ん、美味い」
嬉し恥ずかし初デートだったが――あれこれ悩んだ末、おしゃれさは捨てた。
とりあえず彼の腹を充分に満たそうと、美味しさではダントツの定食屋を選んだ。
飲みに行くと言っていたので居酒屋も考えたけれど、味で選ぶならこっちだ。とりあえずビールは頼んだが、お酒はまた場所を変えてゆっくり飲めばいい。
夜遅くまでやっているこの店は、いつも仕事帰りのサラリーマンで溢れ返っている。
そんな中で鯖の味噌煮定食を頬張る広海先輩は、見た目のよさで少々浮いてはいるけれど、幸せそうに食べてる姿を見られて俺は満足だ。
「ヒレカツも美味しいよ」
俺の手元にある、サクサクの衣をまとったミックスフライ定食の中から、肉厚のヒレカツを選んで皿の隅に乗せてあげる。
するとちらりとこちらに視線を向けてから、広海先輩はそれをぱくりと口に運んだ。
瞬間、微かに見えた舌先がちょっとエロいなぁと、思ったけれど、それはなんとか心の中に押しとどめた。
でもゆっくりと咀嚼して飲み込む喉元を見ながら、そういえば最近ご無沙汰だなと、やはりそちらの方から頭が離れなかった。
「お前、もの欲しそうな顔してこっち見んな」
「あ、ごめんなさい」
やましい気持ちは、やはりすぐに気取られてしまうようで、眉をひそめてこちらを睨まれてしまった。
ため息混じりに食事を続ける、先輩に申しわけないと思いつつも、つい唇や指先、喉元を視線で追ってしまう。
明日が休みなら今夜したいなぁ――と、ぼんやり考えていたら、テーブルの下でつま先を蹴り飛ばされた。
慌てて前を見れば「顔に締まりがない」と舌打ちされてしまった。
でもいいのだ。
きつく当たられるのは、これでいて彼の照れ隠しなのだ。その証拠に、俯いて髪の毛で隠れた頬がほんのり赤い。
「この近くに先輩が好きそうなバーがあるんです、行きません?」
「ん、食ったらな」
俯いたままそう返事をする広海先輩に、残念なくらい俺の顔は緩みっぱなしだ。
誰がどう見ても、可愛いというよりもカッコイイの方が当てはまるのだけど、俺の目には可愛いなぁとしか今は映らない。
こういう時に押していくと、かなりいい感じになることが多いのだが、今日はまだまだデートを楽しまないともったいない気がする。
普段見られない彼が見られるようなそんな予感がした。
のだが――店を出てしばらく歩いたところで、思わず俺は「あっ」っと呟いてしまった。そして目の前から歩いてくる二人連れもまた、目を丸くして同じように驚きの声を上げた。
「嘘ぉやだっ、瑛治さん、偶然だねぇ」
「あ、うん、そうだね」
俺の顔を見るなり喜びをあらわにし、ひらひらと手を振る女の子に思わず、引きつった笑いを返してしまった。
そして隣の広海先輩は、そんな彼女の親しげな様子が気に入らなかったのか、眉をひそめ、ほんの少し気配がひやりと揺らいだ気がした。
「小宮さんと城戸さん、今日は一緒だったんだ」
急に現れた二人の同僚に戸惑いながら、とりあえずこの場をやり過ごそうと俺は当たり障りのない会話を持ちかける。だがどこで切り抜けるか、難題で頭が痛くなってきた。
「そうなのぉ、詩織と一緒にご飯してたの」
「……」
にこにこと笑みを浮かべている小宮さんの横で、驚きをあらわにしている城戸さんは、こちらをじっと見つめ、口を開かない。視線を向けると、気まずい空気が俺と彼女の間に広がる。
それもそのはず、そこにいるのは城戸詩織、小一時間前に俺が振ったばかりの子だ。
なんというタイミングの悪さだろうか。しかも俺の名前を呼んで笑っているのは――。
「あんたの声、聞き覚えがある」
「え?」
以前、俺と広海先輩が喧嘩した元凶の女の子だ。酔っ払った小宮さんを送った際に、服に匂いが移ってしまったことがある。
鼻の利く先輩は雑多な匂いが嫌いだ。
ヤキモチも含まれていたんだろうけど、それが原因でかなりガチギレられた上に、泣かせてしまった経緯があり、彼女のことは正直避けて通りたいところだった。
そういえば小宮さんに言った電話口での「瑛治は俺のもの」宣言、あれからに彼女に対して肯定も否定もせず、そのままだったことを今頃になって思い出した。
「……誰?」
突然、広海先輩に声をかけられ、首を傾げる小宮さん――覚えていないのは仕方ないことかもしれない。
酔っ払ってかけた電話に出た、見ず知らずの男の声などそうそう覚えていないだろう。
「都合の悪いことは全部忘れんの?」
でもすぐ気づいてしまう広海先輩には、変な冷や汗が出た。別になにもやましいことはないし、二人とも俺からしてみればただの同僚だ。
けれど先ほどより明らかな不機嫌なオーラを感じて、慌てふためきそうになる。
「あなた、もしかしてこの間の電話の男?」
しばらく考える素振りをしていた小宮さんが、はっと思い出したように顔を上げ、広海先輩を指さした。そしてまじまじと食い入るように、彼の顔を見つめる。
「瑛治さんの、友達?」
一瞬ひるんだ表情を見せてから、少し虚勢を張るように肩をすくめると、彼女は俺にそう問いかける。
どうやらなにか現実逃避を試みたようだ。
まあ、広海先輩は普通の女の子ならつい見惚れてしまうような男前だし、電話の内容が内容だけに混乱しているのだろう。
「ふぅん、顔は想像通り中の下、だな。人のもんに手つけんなよ、ハイエナ女」
「ちょ、ちょっと、広海先輩それは言い過ぎ」
ふっと目を細めた彼の口から出た言葉に思わず飛び上がってしまった。
いくらなんでもそれは初対面の女の子に対して言い過ぎだ。というより、なぜこんなにも珍しく好戦的な態度なんだろうか。
普段はそんなに固執するタイプではないのに、いつもと違ってひどく焦る。
でもかなり広海先輩が不機嫌になっているのはわかるので、それ以上は強く言えなくて、眉間にしわを寄せた彼の顔を見つめるしかできなかった。
ハイエナ女呼ばわりされた、小宮さんは「冗談じゃないの?」と呟きながら、呆然と立ち尽くしてしまっている。
「ひ、ひろみ先輩って……瑛治くん、ほんとにその人と付き合ってるの?」
「えっと、うん、まあ」
今まで口を閉ざしていた城戸さんが震えた声で呟き、こちらを見上げた。
その視線に、俺は苦笑いを浮かべ肯定をするしかなかった。広海先輩の名前は、すでに職場ではかなり知られているようだし、彼女にもそう伝えたばかりなので誤魔化しようがない。
響きが女性的な名前だったので、職場の人間は歳上の彼女なんだと疑っていなかったが、実物を目の前にして驚くのは当然だろう。
彼はどう見たって男性だ。
「男の人が好きなの?」
「いや、違うから、あとにも先にも広海先輩だけだし」
と言うか、彼以外は絶対に無理だ。
「……信じらんない、気持ち悪い」
俺の必死の訂正は彼女に届いていないようで、思いきり後ろへ引かれてしまった。
しかし城戸さんが後ろへ下がった分だけ、広海先輩が俺の前へ足を踏み出した。
「気持ち悪いとかってそう簡単に思うんなら、あんた大して瑛治のこと好きじゃなかったんだろ」
「え?」
「あんたらはちょっと人が好くて優しくて、なんでもにこにこ笑って話を聞いてくれる、そんな都合のいい彼氏が欲しかっただけだ」
広海先輩の明け透けな言葉に、二人は一瞬うろたえたように顔を見合わせる。
「そ、れは」
「……」
口ごもりながら声を詰まらせる、彼女たちの姿に、俺は少なからずショックに似た感情を覚えた。
気持ちが悪いとか、同性愛者なのかと批判され言われるのは、それなりに覚悟が出来てるのでまだいい。
でもどんな理由であれ、都合のいい人間だと思われるのは、やはり寂しいものがある。
「あんたらには一生、瑛治のよさなんてわかんねぇよ」
皆一様に俯いていると、力強く腕を掴まれた。
その手を見下ろして、その手の持ち主を見つめれば、無言のまま腕を引かれる。そしてそれに従いついて行けば、後ろから微かな声で「ごめんなさい」と聞こえた。
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