昼頃まで晴れていた空は夕刻が近づき、どんよりとした薄暗い灰色に変わっていた。
ぽつんと窓ガラスに雨粒が落ちたことに気づいたのは、部屋の主ではなく側仕えの篠原だ。
彼の視線が動いたのを見て、つられるように書面へ向けられていた伊上の目線が動く。
最近は雨が多いため、外は蒸し暑いだろうと容易に想像ができた。
室内はいま、エアコンで除湿され涼しいものだが、湿気た空気を思い起こすだけで伊上の眉間にわずかばかりしわが寄る。
それでも決まった時刻になればいそいそと、この部屋を出て行くのを知っている篠原は少し前、伊上のジャケットに消臭スプレーを吹きかけていた。
今日は会合とは名ばかりの、面倒なヤジの飛ばし合いがあったので、些か自身が煙草臭く感じられる。
二ノ宮のボスである志築も頻繁に吸うものの、彼の傍に長く滞在しないので移るほどではない。
無意識に伊上が袖口を鼻先へ持っていくと、ハンガーに掛かっていたジャケットを手に篠原が近づいてきた。
「伊上さん、気がそぞろでしたらもう出られては?」
自分をよく知る男からの助言により、伊上の視線はちらりとデスクの時計へと向いた。
時刻は現在十七時半を回ったところだが、ここから本日の目的地までは車で三十分とかからない。
待ち人との約束は十九時なのでかなり時間が空いてしまうのは明白だ。
とはいえ篠原の言うように気持ちが乗らないまま書類を眺めていても、大して捗らないのは確かだった。
「篠原、あの店の利権」
「どこへ流れたのか調べておきます」
書類をファイルに戻した伊上が立ち上がると、なにも言わずともさっとジャケットが拡げられる。
二つ下の篠原を伊上が傍に置くようになって、なんだかんだと時間が過ぎた。最初に会った時、彼はまだ十代だったなと、少しばかり感慨深くなる。
「どうかしましたか?」
黙って顔を凝視されたのが落ち着かなかったらしく、篠原はわずかに眉を寄せた。
この男は初めの頃、大層かしこまっていたのに年々図太くなっていく。
「老けたな、と思っただけだよ」
「お互い様、と言いたいところですが伊上さんは年齢を感じさせませんね。でも俺が老けたのは貴方の後処理ばっかりさせられて苦労してるからです」
「それはご苦労さま」
「どの口が」
軽口で返すとあからさまにため息を吐き出す。
なるべく傍に人を置きたくないがゆえに、篠原を体よく使い回している自覚が伊上にはあった。
「休みたければいつ休んでもいいよ」
「やめてくださいよ。明日嵐とかになりそうですから」
「酷いね。せっかく僕が好意で言ったのに」
「はいはい、あとは片付けておきますのでいってらっしゃい」
ジャケットのしわや埃を払うと篠原は押し出すように背中を叩いてくる。
そんな仕草に肩をすくめつつ、伊上は片手をひらひら振ると黙って部屋を出た。
廊下を進むと会社の社員たちが通りすがりに頭を下げてくる。
普段は志築も伊上もあまり会社に顔を出さないので、遭遇する彼らは緊張を帯びた表情だ。
それでも近頃は伊上の恋人がアルバイトに来る日には、必ずと言っていいほど出没するため、以前よりかはマシだろう。
「今日は六日ぶりくらいだったかな」
学生のあの子と多忙な伊上では、予定を合わせようにもなかなか上手くいかない。
先週の別れ際に寂しがって甘えてきた恋人を思い出し、伊上の口元が緩む。
無意識に鼻歌を歌いながら駐車場へたどり着くと、ご機嫌な気分のまま愛車に乗り込んだ。
外は予想通りぽつぽつ落ちる雨粒が先ほどより増えている。
本当ならば雨に濡れないよう大学の門まで迎えに行きたいところだけれど、下手に目立って居心地悪い思いをさせるのは避けたかった。
順調に道を進んでいるとカーナビがメッセージの着信を知らせる。
伊上のスマートフォンへメッセージを送ってくるような人物はほぼいないと言っていい。
大抵は電話で直接話を済ませる。
となれば先ほどまで顔を合わせていた篠原か、これから会う恋人の二択だ。
いまのは後者だったらしく、メッセージが読み上げられた。
――ごめん。待ち合わせ場所を変更したい。少し手前のコンビニ駐車場でもいい?
いつもはあまりひと目につかないコインパーキングが待ち合わせ場所だ。
指定のコンビニは大学の学生が立ち寄ることも多く、珍しいものだと些か疑問に思ったが、すぐさま伊上は音声入力で了承の旨を伝えた。
コンビニへ向かうならば道を変えようと車を左折させる。
そこから五分ほどでコンビニの駐車場に到着をすれば、予定時刻より随分と早いのに見慣れた横顔を見つけた。
「あまちゃん」
ウィンドウを下げて声をかけてみると、パッと振り向いた恋人の天希が駆け寄ってくる。
透明傘にショルダーバッグ、ラフなTシャツにデニムといういつもと変わらぬ格好だが、なにやら大事そうに抱えていた。
「伊上、ごめんな。急な変更しちゃって。あと、さ。あんたってアレルギーあったりする?」
「アレルギー? これと言って引っかかったものはないけど。抱えているそれかい?」
「うん。実は今日の昼過ぎに正門そばの植え込みにいて、親が離れてるだけかなって思ったんだけど。雨が降り出してもまだそこにいたから」
「……とりあえず乗って。病院に連れて行こう」
コンビニで購入したらしいタオルに包まれているのは、生まれて三週間前後とおぼしき、白っぽいグレーの子猫だった。
視線に気づいた子猫がキトンブルーの大きな瞳で伊上を見上げながら、か細くミーと鳴いた。
まさか久しぶりの逢瀬におまけがついてくるとは思わなかったけれど、こういった出来事を人任せにできないところも天希の長所だ。
助手席に乗り込んだ彼が子猫の様子を覗き見ている姿に、伊上は小さく息をついた。
その後、自宅マンションからわりと近い場所にある動物病院で子猫の診察をして、直近で必要な用品などを買ってから帰路につく。
「あまちゃん、泊まっていくならいまのうちにお風呂に行っておいで。雨で少し濡れただろう?」
「泊まる泊まる! 明日は午後に予定があるから、ここから出ていいか?」
「構わないよ」
「あ、猫どうしよう」
「明日、僕が仕事へ行く前に二ノ宮へ寄って預けるよ。ほら、行っておいで」
玄関先に荷物を置くと、伊上はキャリーを気にかける恋人をキスでなだめてバスルームへ見送る。
ほんのり頬を染めた表情に若干ムラッとした気持ちになりつつも、足元でミーミーと存在を訴える子猫に意識を戻した。
「猫なんて何年ぶりだろうね」
ぼんやりとした遠い記憶にため息を吐いて、面倒ながらも子猫の居住スペースをこしらえる。
天希がシャワーを浴びているあいだに一通り済ませれば、ミルクで腹が膨れた子猫はあくびをするとうつらうつらと眠り始めた。
「次は人間さまの番だね」
子猫にかかりきりで買い物をする間もなかったので、今夜はデリバリーにすると二人で決めていた。
リクエストは受諾済みなため、手早くスマートフォンで注文を済ませる。天希が戻ってきたあとに届くだろう。
予定外の出来事が割り込んでようやく一段落、ソファに腰を下ろした伊上は背もたれに体を預けながら室内に視線を走らせる。
この部屋に天希がやってくるまではまったく味気のない空間だったというのに、様々な物が増え、いつの間にか温度を感じさせるようになった。
元々執着心が薄い伊上は、生活するのに必要最低限なスペースと寝る場所さえあれば良いと、だだっ広いワンルームを選んだ。
観葉植物さえなかった殺風景な部屋がいまでは、わずかに生活感を漂わせる。
相手が天希ではなかったら、こうはいかなかったはずだ。
彼のなにがそこまで特別だったのか、問われると非常に答えが難しい。
小さな存在が必死に踏ん張って前を見据えている姿に感動した、とも言える。
どんなに見た目や態度で大きく見せてもハムスターや、すぐそこで寝ている子猫のようにか弱く脆い存在なのがよくわかった。
自分の手で簡単に握りつぶしてしまえそうな、そんな人間を伊上は山のように見てきたけれど、己と真逆なまっすぐすぎる瞳がいじらしくて心が震えた。
振り返って考えれば、もっと傍で見てみたいという好奇心が強かったのだろう。
威嚇をし、警戒するそぶりをしながらも、こちらへ惹かれているの隠しきれていない天希を見て、普段の伊上であれば一瞬で冷めること間違いなしだというのに、気づけば自身が沼にハマっていた。
「ほんと、あまちゃんは恐ろしい子だよね」
小さく笑った自分の声が響き、伊上は再び不思議な心地になった。
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