初めて見る姿に

 仕事ができる男と名高いだけあって、篠原の手回しは本当に早かった。
 ちょうど近い日に、連休があるのでと天希にも配慮してくれ、伊上と二人で出掛ける日取りはすぐに整った。

「今日、行く所って紹介がないと泊まれないってほんとか?」

 朝に自宅の近くまで、迎えに来てくれた伊上の車に乗ってから、天希はずっとそわそわしている。
 あれこれと話しかけ、ネタが尽きて篠原から事前に聞いていた、宿泊先について聞いてみた。

「確かそうだったかな? 僕は昔からよく行っていたから、あまり気にしたことがないんだけど」

「ふぅん。そうなんだ」

 せっかく絞り出した質問も自分の短い相づちで終了。
 手にしていたスマートフォンを額に当て、天希が一人で唸っていると、運転席の伊上が訝しそうにしているのが感じられる。

「あまちゃん、さっきからどうしたの?」

「あー、いやー、ほら、あのさ」

「うん?」

 ちらっと天希が横目で見ると、伊上も視線をちらりと向けてくる。
 運転中なので、さすがに天希の様子をマジマジと見られないのだろう。

「そういや、伊上の私服を見たことがなかった、なぁって」

「……え?」

 思い返すとのんびりデート、なんていうのも初めてではないだろうか。
 食事に行ったり、買い物に行ったりくらいはある。
 そしてよく考えるとスーツ以外の伊上は、寝間着のTシャツにスウェット姿以外なかった。

 大抵、彼は仕事があるのでスーツが普段着という勢いだ。
 だというのに、迎えに来た伊上はノーネクタイで首筋がチラ見え、ラフなジャケットにスラックスで、オフである事実を噛みしめられた。

 ダーク系の装いなのはいつもと変わらない。
 確かに変わらないのだが、仕事だからと普段のように、とんぼ返りになる心配もなさそうだった。

「聞いた僕も悪かったけど。事故りそうな可愛いこと急に言わないで」

「仕方ねぇだろ! だって珍しくて新鮮で、すげぇ萌えたんだもん」

「……あまちゃん、わざとなの?」

「は? なにが? とにかく今日明日、あんたはオフで、俺が独り占めなんだなって、いま噛みしめてんの!」

「無自覚に小悪魔だな」

 気持ちがいっぱいいっぱいで、伊上の言う意味がさっぱり理解できない天希は、大きなため息を吐き出されてぷくっと頬を膨らませた。

「伊上が格好良すぎるのが悪いんだろ!」

「ほんとあまちゃんが可愛すぎるのがいけないね」

 理不尽な八つ当たりに再びため息交じりに返され、天希はぷいと窓の外へ視線を移した。
 このままブーブー文句を言っても、ただの運転妨害である。

 車窓の向こう側は騒がしい街中から抜け出し、目に優しい景色が流れていた。
 これから行く場所は隠れ家的な旅館で、人の溢れる場所から縁遠い。周りは山や林ばかりらしいので、いま時期だと紅葉が見頃かもしれないとか。

 温泉もあると聞いたので天希はとても楽しみにしている。
 目的はしっぽり温泉デート、ではないけれど、楽しんでもバチは当たらないだろう。

 伊上もリラックスできる環境のほうが、本音を話してくれる可能性が高い。
 別れるつもりでいるのか。それとも別れなければと思っているのか。

 どちらでも正直、天希は許せないのだが、後者であればしっかり言い聞かせる必要がある。
 前者の場合も話し合いが必要ではあるものの、それが〝別れたい〟ならば天希は追いすがるわけにはいかない。

 伊上の立場と自分の立場。
 住む世界が違うのは最初からわかっている。それを承知で手を伸ばして、受け止めてもらえて、いまがあるのだ。

(でも今回は説教コースだな、たぶん。まったく、別れなきゃとか思ってんなら大間違いだ。勝手に俺の感情や環境を決めつけんな)

 こんなときは大きな年の差、ちっぽけな力なきものである自分が、ひどくもどかしくなる。
 天希ができるのは、ただ伊上を抱きしめるという些細な行為のみで、彼の不安を拭い去ってあげられるとは思えない。

 今回の件を吹き込んだ志築は以前、散々別れろ別れろと言っていたが、いまは二人の意思に任せる姿勢だ。
 横やりを入れようとしたのではなく、伊上が自分勝手な判断をして、天希が置いてきぼりな状態にならない気遣いだと予想できた。

 知らない間に決断され、一方的に別れを切り出されるなんて――

「冗談じゃない」

「あまちゃん?」

「あとどのくらい?」

「……もう少しだよ。眠かったら寝て良いよ」

 おそらく伊上は天希が腹の内に、なにやら溜め込んでいるのに気づいている。
 それでも黙って要求を飲んでくれるのは、すでに志築から聞いているか、彼も自分と向き合いたいのか。

 伸ばされた手に頭を優しく撫でられて、天希はウトウトとした。
 大きくて男らしい手。
 いつも天希を誰よりも愛してくれる男の手だ。

「伊上」

「ん?」

「俺、あんたが好きだよ」

「ありがとう。僕もあまちゃんが好きだよ」

 わずかに息を飲んだ気配。しかし返ってきたのは優しくて甘やかな声だった。
 天希だけに向けられる甘い声音に、ほっとした気持ちになる。

(大丈夫。まだきっと俺のこと好きでいてくれる。これは嘘の声じゃない)

 周りの皆が天希は伊上の特別だと言う。
 うぬぼれるわけではないけれど、自身でもそう感じていた。
 だが〝特別〟に胡座をかきすぎだといまは反省する。

(うん。俺も暢気に恋愛ごっこしてる場合じゃないんだよな)

 初めての恋人。キスもセックスも愛されるのも初めて。
 気づけばいつでも受け身だった。
 今回は普段、一歩引いていた天希が踏み出す大きな一歩なのだ。

「伊上、昼ご飯はなに食べる?」

「着いた先に知り合いの店があるから」

「おー! 良かった。一緒に食べられるな」

(ほら、これだって気遣いが足りてない。泊まりで出掛けるってことは篠原さんは一緒に来ないんだし、伊上が食事できなかったらとか、全然考えてなかった)

 食事、泊まり先、環境――知り合いが誰もいない場所。
 天希には可能だけれど、伊上には難しい。
 行き先について話を聞いた時、自分の知り合いがいる場所になるがいいかと確認された。

 二ノ宮や組織に関わりのある人間ではないからと言われ、伊上が完全に誰の目にも届かない場所へ行くのは不可能だと悟ったのだ。

「不自由させて、ごめんね」

「なにが? 俺はちっとも不自由とか思ってねぇよ」

(まったく、ごめんってなんだよ。っていうか弱ってんなぁ。珍しい。こんなことで謝るの)

「俺は好きであんたの傍にいるの。俺は俺の意思でここにいるんだ。そこんとこ、忘れんなよ」

「ふふっ、あまちゃんには敵わないね」

(好きだからこそ身を引くとか、冗談じゃねぇっつーの)

 苦笑気味の伊上をドアに肘をつきながら見つめ、天希はふんと鼻息を荒くする。
 今回は甘やかして、なだめすかして、本音を全部吐き出させてやると心に誓った。


 そのあと二十分くらい経った頃に目的地へ着く。
 伊上が連れて行ってくれたのは、こぢんまりとしたカフェレストランで、オーガニックの野菜や国産の肉を扱っていて、大変おいしいランチだった。

 というより伊上が連れて行ってくれる店は基本、敷居が高い雰囲気ではないのに、なにを食べてもうまいのだ。
 背伸びをしなくていい店というのがポイント。天希をよくわかっている。

 食後は店の近くで散歩をして、軽い紅葉見物。
 街中とは違い、思った以上に色づいていて秋を堪能できた。

「伊上はこの辺、いつぶり?」

「んー、いつだったかな。昔は毎年、来ていたんだけど。いまはすごく久しぶりなのは確か」

「そうなんだ。二人でゆっくりしような」

 なんて言っていた天希だけれど――着いた旅館を見て既視感を覚えた。

(これはあれだ。初めて二ノ宮の本邸に連れて行かれた時の)

 写真で先に外観を見ていたが、実際の風格は老舗旅館という貫禄がすごい。
 一瞬で古き良き時代へタイムスリップした感覚で、着物姿の女性がまた雰囲気があり、微笑まれると天希は緊張してしまった。

「伊上様、ご無沙汰でございます」

「お世話になります」

(伊上が敬語の相手、珍しい)

 女将らしき女性は非常に整った顔立ちをしているので、実際の歳がわからないものの、伊上の言葉遣いから行けば彼より年上。
 四十歳以上、と考えて、天希はしわ、染み一つない彼女を思わずじっと見つめていた。

「あまちゃん?」

「あ、いや、綺麗な人だなと」

「ん? なんだって?」

「だから、綺麗な――って、なんで青筋立ててんだよ、馬鹿!」

 声が一段低くなったのに気づき、天希が隣を見上げたら、口元を引きつらせた伊上が自分を見ていた。
 よもやこんな場面で嫉妬されるとは思わなく、見当違いな感情に天希はとっさに肘で伊上を小突く。

「うふふ、伊上様の面白い様子が拝見できて嬉しく思いますわ。お部屋、ご案内いたしますね。ちなみにわたくしは今年五十六になりました」

「…………」

「すげぇ、あんたの周りって、規格外の人しかいないのな」

 決まり悪そうな伊上にコロコロと笑う、女性の年齢を聞いた天希はあんぐりと口を開けた。

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