学生時代など、義理でもチョコを一つもらうだけで喜んでる級友はいた。おそらくステータスに似たものが、あるのかもしれない。
思えば昔からそういうのが面倒くさかったから、本命だろうが義理だろうがチョコはずっと突っぱねてきた。
なので生まれてこの方、バレンタインにチョコをもらったことがない。鴻上が寄こしたのも、ケーキだからチョコには含まれないだろう。
しかしあいつなら黙っていても、チョコはいくらでももらえるだろうに。俺なんかがわざわざ買わなくたって。
「ん? そういえばあいつからバレンタインがどうとか、いままで聞いたことないな」
あ、そうだ。そういえばそもそもあいつゲイなんだよな。女からのチョコレートなんて端から興味がないのか。
まあ、とはいえ仕事中に、そういう浮ついた話をするようなやつでもなかったか。だから信用しているところがあるわけだし。
いまでこそ二人の時は気安く話しかけてくるが、基本仕事中は真面目を絵に描いたやつだった。
「ただいま」
「おかえりなさい。早かったですね」
家に帰り着くと部屋には電気が灯っていて、寒い外とは違いしっかりと暖かい。冷えた身体に温かさが染みてくる。こういう時、家に人がいるといいなと思う。
台所に立っている鴻上は、ぼんやりと玄関に立ち尽くす俺に、不思議そうに首を傾げた。その視線に我に返ると、俺は瞬きをして息をつく。
「なんでもない。お前こそ早いな」
「恋人が待ってるので帰りますって、帰ってきました」
「面倒くさいことに巻き込むなよ」
「だって、本当のことじゃないですか」
至極楽しげに笑う鴻上に目を細めれば、ますます笑みを深くする。この顔はなにを言っても無駄な顔だ。面倒ごとは避けて通るのが俺のポリシー。肩をすくめて自分の部屋に足を向けた。
コートとスーツを脱いで部屋着に着替えると、ふと足元の小さな紙袋が目に入る。オレンジ色のそれを指先で持ち上げて、しばらくじっと見ていたが、諦めたように俺はため息を吐き出した。
「おい、これ」
部屋から顔だけ出して紙袋を鴻上に差し向けた。
俺の声に大きな背中が振り返り、こちらを見た目が大きく見開かれる。そして包丁を放り出し、火を止めると大股で近づいてきた。
「水地先輩っ! 本当に買ってきてくれたの? しかもここ俺の好きな店」
袋を両手で掴んで、鴻上は目をキラキラと輝かせる。そしておもむろに両腕を広げて抱きついてきた。勢い込んで抱きつかれて足元が少し揺らぐ。
「く、苦しい。離せ馬鹿」
「もう、先輩可愛い! めちゃくちゃ愛おしいです」
「ちょ、やめろ」
顔をだらしなく緩めながら、鴻上は人の顔中に口づけてくる。終いには唇に食いついてきて、顔を背けようとする俺などお構いなしに、口の中を荒らし始めた。
身長差があるから目いっぱい顔を上向かされる。
それだけでもかなり辛いのに、息つく間もないほど口の中を撫でられて、唾液が溢れてきた。変に上擦った声が漏れて、頬が熱くなる。
「や、離せ……も、う、やだっ」
首の後ろがざわざわする。身体の力が抜けて、思わず目の前の身体にしがみついてしまった。
「そのとろんとした顔、可愛い」
肉食獣が餌を前にするみたいな顔で唇を舐める。その仕草がやけに色っぽくて、少しだけドキリとした。けれどすぐさま我に返った俺は、目の前にあるその顔を思いきりよくつねり上げる。
「いでででっ! 痛い、先輩っ」
「黙れ、万年発情男め」
「いやいや、俺は淡泊なほうですよっ」
「どこがだよ。週に三回やらなきゃ気が済まないくせに」
「え、毎日じゃないだけいいじゃないですか」
「毎日なんて死ぬわ、ボケ!」
力任せにバシバシとあちこち叩いていたら、さすがに我慢ならなくなったのか後ろに避けられた。俺の手を捕まえようと構えている、その姿に舌打ちしたら、苦笑いを返される。
「でも先輩、エッチが気持ちいいから付き合ってもいいって言ってたくらいだし、嫌いじゃないでしょ?」
「はぁぁっ?」
「あれ? 覚えてないの?」
「言わねぇよそんなこと!」
「いやいや、忘れないでくださいよ。俺もそれはどうかなって思ったけど、先輩が可愛くお前ならいいって」
鴻上が言葉を言い切る前に、乾いた音が響いた。思わず振り上げた俺の手が、頬を打ったからだ。
それにはさすがにやつも、驚いた顔をして固まる。そして手を上げた俺も固まってしまう。そんなつもりではなかったのだが、口を塞ぎたいと思ったら手が出ていた。
「わ、悪い」
「……酔っ払った先輩をなし崩しに押し倒した俺にも責任はありますけど、ちゃんと俺、日を改めて確認しましたよね? 俺でいいんですか? って。それに返事をくれたから覚えてると思ったんですけど。どういうつもりで俺の言葉に返事したの?」
「え? そ、それは」
やばい、なんだっけ。これはさっきも思い出そうと思って、思い出せなかった。なんで思い出せないのか、多分それはかなりいい加減に返事をしたってことだ。
心の内をのぞき込むような視線に、冷や汗をだらだら掻きそうな気分になってくる。
ああ、ちょっと待ってくれ。いくらなんでも告白のきっかけとしてそれはあまりにも最悪すぎるだろう。
最初に寝た時のことは酔っ払っていたけれどなんとなく覚えている。付き合う前だが、合意の上であるのは確かだ。
しかし言った言葉はまったく覚えていない。
「水地先輩、俺のこと好き?」
「……す、好きだ」
「本当に?」
「当たり前だろっ! 好きでもない男とキスしたり寝たり出来るかよ」
「先輩付き合う前に俺と寝てるけど。その前から好きってこと?」
こいつと付き合う前? そりゃ、少なからず好意はあっただろうけど。男相手に寝てもいいか、なんて思えたんだから。でもその時、好きだったかどうかなんて、よく覚えていない。
一緒に飲んだりするのは楽しかった。一緒にいて気が楽だった。それから、ほかのやつより近いパーソナルスペース、それは戸惑ったけど嫌じゃなかった。
「わ、わかんねぇよ。でも、あの時は嫌じゃなかったし」
一年も前の酔っ払った時の記憶なんて曖昧なものだろう。ことこまかにはっきり覚えているほうが珍しい。
そもそもだ。この面倒くさがりの俺が他人に合わせているだけでも珍しいことなんだぞ。
プライベートに干渉されるなんて嫌だったし、ベタベタとまとわりつかれるのだって嫌だったし、恥を忍んでまで言うこと聞くなんてあり得ないことだ。
「お前は、元々特別なんだよ。それ以外わからねぇよ」
「んー、まあ、いいか」
「なんだよ」
「口下手で面倒くさがりの先輩がそこまで言うならそれでいいかな、って」
「試してたのかよ!」
「だって先輩、結構いい加減ですし。まあいいか、で振られたらたまらないし。俺は必死なんですよ、飽きられないように」
じとりと睨み上げたら肩をすくめられる。シャツを握りしめる手に力を込めれば、ふっと小さく笑う。口を引き結ぶと、ゆっくりと近づいてきた鴻上の唇が口先に触れた。
「もう一回、言ってください。俺のこと好き?」
「……好きだ」
「うん、忘れていたこと許してあげます」
俺の言葉に満足そうに笑って、鴻上はまた唇に触れてくる。小さくついばむように触れて、何度もそれを繰り返す。リップを音がかすかに響いて、そのたびに胸の音まで響いてくる。
好き――心の中でそう繰り返せば、少し気持ちが落ち着いてくる。特別だから好き。ほかの誰でもない、この男だから好きなのだ。
大きな理由なんて多分ない。ただ、傍にいることが嬉しい、楽しい、そして幸せだ。
「咲良さん、好きですよ」
「名前で呼ぶな」
「可愛い名前なのに。俺は好きだけどな」
「お前はなんでもいいんだろう」
「はい、先輩ならなんでもいいです」
チョコレートより甘ったるい笑顔と囁きで、こいつはいつも俺を絡め取ろうとする。けれどそれが嫌じゃないから困る。むしろ少し嬉しいとさえ感じてしまう。いつからそんなに慣らされてしまったのか。
付き合いましょう――そう言われた時は、こんなに好きになるなんて思わなかった。この男にひどく調子を狂わされている気がする。それでも後悔するような気持ちにはならない。
それどころかこの毎日が、長く続けばいいなんて考えてしまう。飼い慣らしてやるつもりが、すっかり飼い慣らされている。そんな自分に気がついて思わず笑ってしまった。
しかしそんな自分も悪くないって、思えるのだから好きという感情は、ひどく厄介だ。
チョコより甘いもの/end
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