この時期は決算があるので、事務仕事もなにかと多い。数字を一桁間違うだけでも大変な問題だ。
経理はピリピリしてるから、小さいミスでもかなりぐちぐちと言われる。
このあいだは、申請が一日遅れた社員のところに、速攻で内線がかかってきたくらいだ。金勘定には普段から厳しいが、こういう時は拍車がかかる。
「鴻上さん、いまいいですか?」
「ああ、うん」
いまはこうして、頼りにしてくれる後輩もできたし、いつまでものんびりは構えていられないと言うわけだ。しかし入社して四年目になるが、先輩にも後輩にも恵まれているから仕事環境は悪くない。
正直言えば、水地先輩に会った時に転職したい、と思ったことはあるけれど。しかしそんなことをしたらきっと間違いなく嫌われていたと思う。
先輩は俺の仕事をかなり評価してくれている。最初に担当を任されると決まった時に、山下から相手の担当はかなり気難しいから、気をつけろと言われていた。
けれど一緒に仕事をし始めると、気難しいの理由がよくわかった。
あの人は仕事に対しては、とことんまっすぐで真面目で、曲がったことが嫌いなのだ。
誤魔化したり、言い訳したり、うやむやにしようとする相手に厳しいだけ。だから俺はそれに応えるために、真正面から向き合った。
「プライベートのあの人はかなりうっかりしてるけどね」
そう言ったギャップも、また可愛いのだけれど。付き合うきっかけになった言葉を、覚えていなかったのにはさすがに驚いたが。好きかと聞けば、好きだと、リンゴみたいに真っ赤になりながら答えてくれるので満足している。
「よし、終わった。いま何時だ?」
しばらく集中して作業をしたおかげでかなり捗った。時計を見ると一時間ほど過ぎている。十五時にはまだ四十分ほど余裕があった。最終チェックしてコピーをするのには十分の時間だ。
「ん? なんか騒がしい?」
普段からしんと静まり返ったフロアではないが、いまはざわついた声が聞こえる。けれど野次馬根性を発揮している暇はないので、手早く作業を進めた。
しかしコピーが終わった書類を、山下のところへ持っていくと、席にはおらず騒ぎの中心を指さされる。
仕方なしに騒ぎの元へ行けば、山下を筆頭に集まった全員が、神妙な面持ちで顔を突き合わせていた。
「山下さん、なにかあったんですか?」
「あっ! 鴻上、いいところに来た」
「え?」
一斉に振り返った顔ぶれを見て、一瞬逃げ出したい気分になった。部署内のリーダー格が勢ぞろいしている。これはかなり厄介なことが起きている、と言うのが一目瞭然。
そこにうっかり足を踏み入れた俺に、白羽の矢が刺さった。
道理でほかのみんなは、視線を避けるように、パソコンから目を離さないわけだ。
「係長と一緒に六宮まで行ってきてくれ。俺が行きたいんだが、ほかの何社か回ることになって。お前、打たれ強いし大丈夫だよな」
「まあ、学生時代は体育会系ですけどね。……あー、これは帰れない」
ぼそりと口から、こぼれてしまった俺の声は、誰にも届いていないがひどく胸に突き刺さる。
いまの俺ができることは店に謝罪の電話を入れ、水地先輩にも謝って、今夜のご飯は弁当屋さんで済ませてもらうことしかない。
予約のキャンセル料は振り込みで良かったかな。
「先輩せっかく頑張ってくれてるのに。けど仕事なら仕方がないな、で終わりそう」
落ちた気分で水地先輩にメッセージを送ったら、わかった――の文字だけが返ってきた。
思った以上に簡素な返事にますます肩が落ちる。
しかしなにか一言、慰めてくれてもいいのにと思っていたら、しばらくしてまたメッセージが表示された。
――オムライス作っておいてやるから早く帰ってこい。
あの面倒臭がりの先輩から、最上級のデレだ。あの人はご飯を作るのが面倒臭いというだけで、作れないわけではない。
俺が弱って動けない時はちゃんとご飯を作ってくれる。風邪を引いてダウンしている時や仕事で失敗してしょげている時。
作らせればなんでも器用に作ってしまう。特にその中でも俺はオムライスが一番好きだ。言葉にして伝えてはいないが、しっかり把握されていたらしい。
「よし! オムライス!」
思わずガッツポーズをして、声を上げてしまうくらいには浮上した。周りからは帰れなくなった俺が、現実逃避をし始めたと思われているようだが、哀れみの視線を受け流して、気持ち軽やかに会社を出た。
それから結局取引先を三社ほど回り、ひたすら謝罪の繰り返し。しかし今日の大惨事を招いた、同僚の明日の顔を思い浮かべて溜飲を下げた。
ただし、彼女とデートだと浮かれていた昨日の自分を恨むがいい、と思わず腹黒い笑いがこみ上げてくるくらいは疲れている。
すべてが終わって、最寄り駅に着いたのは、二十三時になるかという頃。お腹は空いたし、もうヘトヘトだし、早く水地先輩で充電したくて仕方がない。
「先輩もうそろそろ寝るかな」
普段から早寝早起きの人だから、二十四時には寝てしまう習慣がある。帰ってもそれほど、ゆっくりと話などはできないかもしれない。けれど顔を少しでも見て、ハグでもさせてくれたら明日も頑張れると思う。
「おい、鴻上」
「えっ?」
外灯の明かりに照らされた道を、とぼとぼ歩いていたら、ふいに声をかけられた。聞き覚えがありすぎる、その声に肩を跳ね上げて振り向けば、少し息を切らせた水地先輩が立っている。
その姿を認めたものの、俺は立ちすくんだように動けなかった。口をあんぐりと開けてその姿を見つめ続ける。
洗いざらしの柔らかい茶色の髪が、風に揺れているのを見つめ、瞬きさえも忘れてしまう。けれど足早に近づいてきた先輩に、つま先を蹴飛ばされて我に返った。
「駅で待ってろって言っただろう」
「え? あ、メッセージ送ってくれてました?」
「見てないのかよ」
「すみません。疲れてて携帯電話を見る余裕もなくて」
慌ててポケットから取り出した、携帯電話を確認すれば、迎えに行くから待っていろと確かに連絡があった。いまから電車に乗って帰ると、メッセージを送ってからすぐに返信をくれたようだ。
「買い物?」
「ああ、足りないものがあって」
「そうなんだ」
オムライスの材料が足りなかったのかな? 手提げの袋は小さいけれど、中身までは見て取れない。しかしさして気にする部分でもない気がして、隣に並んだ水地先輩に視線を向けた。
お風呂から上がって、それほど時間が経っていないのか、ほのかにシャンプーの香りがする。
爽やかなシトラスの香り。
それに誘われて横顔に唇を寄せたら、すかさず手で防御されてしまった。いつものことながら、気配を察するのが早すぎる。
けれどその代わりに、空いた左手を握れば、躊躇いがちに握り返してくれた。
「それで、見積もりの送り先を全部間違って送信していたんですよ」
「そいつ今度から窓際でいいだろう」
「ほんとやってくれましたよ。それほど各社大きな差がなかったので、交渉にひびは入らなかったんですけど。それでも散々です」
「そりゃあ、大変だったな。お疲れさん」
十分ほどの帰り道。水地先輩は俺の愚痴にずっと付き合ってくれた。もう最後のほうは、恨み辛みくらいしか出てこなかったのに、最後まで聞き流すこともしなかった。
俺が怒れば頷いてくれるし、俺がしょげれば握った手を強く握り返してくれる。寄り添おうとしてくれる気持ちが、ひどく嬉しくて、それだけで疲れた身体も沸点が上がった感情も癒やされていく。
「ただいまー」
「おかえり」
マンションに帰り着くと、部屋の中は暖かくて、ようやく帰ってきたとしみじみ実感してしまう。俺の声に自然と返事をした、水地先輩を抱き寄せると、回された手でなだめるように優しく背中を叩かれる。
そして先ほどは防がれた、頬へのキスも許してくれた。頬に口づけて、まぶたに口づけて、朝ぶりの唇にも口づける。
「先輩お腹が空いた。先輩が食べたいしオムライスも食べたい」
「まずは飯を食ってからにしろ」
「あれ? オムライスできてる」
「作って待ってるって言っただろう」
するりと腕の中から抜け出た先輩は、ダイニングテーブルに置かれたお皿を、電子レンジの中に収める。それはどう見ても、黄色い卵が載ったオムライスで、先輩の言葉通りにすでに出来上がっているように見えた。
では先ほどの買い物の足りない物とはなんだろう。
「ああ、買い物はこれ」
「ん? ピンクの、ザラメ?」
「そう、これに使うんだ」
「なんですかこれ」
テーブルの片隅に置かれた、小さな機械らしきもの。土台に半球が受け皿のようにくっついている。まじまじとそれを見つめていれば、水地先輩はキッチンから串に刺さった白と茶色の物体を持ってきた。
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