審査が通ったと連絡が来たのは翌日のことだ。思っていた以上に早い回答に驚いた。けれど前半でかなり時間をロスしていたので、このスピーディーさはありがたい。
契約を済ませたのは五月まで残り二週間と言った状況だった。あのまま部屋が見つからなかったら、実家住まいの穂村はともかく、いまの部屋を解約する自分は荷物共々、路頭に迷うところだった。
少しずつ片付け始めていた部屋は、引っ越し業者にも依頼していまは段ボールの山だ。大学を卒業してからずっと住んでいた場所なので、いらないものも多かった。家具家電は新居に持ち込んで、足りないものだけ先日二人で買いに出た。
そして気づけばどんどんと時間は過ぎて、引っ越しまで一週間。あとは当日までに段ボールにすべてを詰め込めばいいだけ、そんなことを思っていたけれど、珍しく日中に電話が鳴った。
着信は穂村からで、時間的に昼休みではある。しかしこれまで昼間にわざわざ、電話をかけてくるなんてことはなかった。不思議に思いながら、食べかけの弁当に箸を置いて通話を繋いだ。
「穂村? どうしたんだ?」
「は、春樹! あの、その、えっと、あー、うーんと」
「どうした? ちょっと落ち着いて話せ」
「ど、どうしよう!」
「なにが?」
先ほどから電話口の穂村は要領を得ないことをブツブツと呟いている。しまいには縋るような大きな声を出されて、思わず携帯電話を遠ざけてしまった。それでも根気よく待てば、今度は小さな声で囁くように話し始める。
「……だって」
「穂村、声、声が小さくて聞こえない」
「だ、だから! えっと、まさが、いま引っ越し屋でバイトしてるらしくて、うちに来るって!」
「え?」
ようやく聞こえてきた声に、思わず言葉が詰まる。まさ――とは、穂村の高校時代からの友人で、北川正樹のことだ。以前に遊園地に一緒に行ったという、彼の大親友のうちの一人だ。
いまは大学生なので、バイトをしているのはおかしくないが、よりにもよって引っ越し屋とは。穂村の家に来る、イコール引っ越し先に来る。自分とも鉢合わせることになるだろう。
北川ともう一人の友人、横山与一は、穂村自身かなり親しくしているけれど、自分との関係は話していない。滅多なことでは他人に言わないと言っていたとおり、近しい人で知っているのは彼の両親だけだ。
「こっちの引っ越しの日をずらせるか聞いてみようか?」
「む、難しいんじゃない? もう日にちもないし」
「念のため聞いてみるよ」
業者は連携の兼ね合いで同じところに頼んである。なのでおそらく穂村の言うとおり難しいだろうが、聞くだけ聞いてみよう。時間を少しずらして貰えるだけでも違うかもしれない。
「あ、あのさ」
「なんだ?」
「言ってみるとか、どうかな?」
「北川に?」
「うん。この先も付き合いは続くし、いつかは言わなきゃいけないのかなって、思うし」
「まあ、そうだな。家に遊びに来たいなんて言うこともあるかもしれないしな」
実家を出て暮らすと分かれば、引越祝いだなんて言い出しそうではある。当日来るという北川は寡黙で大人しい子だけれど、もう一人の横山は新しいもの好きだし、楽しいことには率先して飛び込みたいタイプだ。
「穂村がいいなら、自分はそれでいいよ。そこは三人の問題になってくるし」
「嫌われたら、嫌だな。俺、友達なんてできたの初めてだし」
「それは、大丈夫だとは思うけど。受け入れる受け入れないは別として、あの二人はそれだけで穂村を突き放すような子たちではないと思う」
「そう、だよね」
あの二人は穂村が具合悪くなった時に、保健室に飛び込んできた生徒たちだ。人のことを自分のように考えられて、端から見ているだけでも三人は本当に仲が良かった。
自分とのことは想定外だろうから、どんな反応が返ってくるかはわからない。それでもあの二人を信じていたいという気持ちになる。
「とは言っても、不安にはなるよな」
話してみる、そう言っていたが、穂村の声は少し暗かった。ずっと病院通いばかりで、ほかの子たちと一緒に遊べたことなんてなかったのだろう。ようやくできた友達を、こんなことで失わせるのは自分にとっても本意ではない。
通話の切れた携帯電話を見つめて、知らず知らずのうちにため息をこぼしていた。彼の判断に任せるとは言ったけれど、負担をかける選択だっただろうか。気に病んで具合まで悪くなってしまったら困る。
「だけど、自分にできることなんてなにもないし」
もしもの場合があったとしても、自分は彼らの関係に立ち入るべきではない。彼らには彼らの考えがあるし、首を突っ込むほうがまたややこしくなりそうだ。
自分たちの関係は時折窮屈に思えてしまう。そんな風に思うのは良くないとわかっているが、穂村が笑っていられない状況は好ましくない。あの笑顔が、彼の明るさがなによりも眩しいと思っていたから、それが陰るのだけは見たくない。
「湯川先生!」
ぼんやりとしてどのくらい過ぎたのだろう。ふいに背後から声かけられて、背中に感じる気配に肩が跳ね上がった。慌てて振り向こうとして、すぐにそれをやめた。覗き込むように寄せられた顔が真横にあったからだ。
「相変わらず近いなあんたは」
「呼びかけても返事がないので」
なんてことない顔で肩をすくめる男に眉を顰めたら、へらりと締まりのない顔で笑われた。まだすぐ傍にある顔を片手で払えば、渋々といったていで離れていく。まっすぐと立つと無駄に背が高い。
瞳を輝かせて、なにかこちらの反応を待つような表情がそこにあるが、なにも言わずに弁当へ向き直った。
「えー、湯川先生、無視しないでくださいよ」
「鹿島先生、いつも言ってますよね。用がないなら来ないでくださいって」
「お昼休みだしいいじゃないですか」
「私はあなたに用はないので、帰ってください」
「用、用ならあります! ゴールデンウィークは全日お休み取ってますけど、どこかに行くんですか? 旅行ですか? ゆっ、指輪の彼女と!」
「鬱陶しい」
ふいに伸びてきた手に左手を取られて、思わずそれをすげなく突っぱねた。それでも恨めしく薬指にあるものに視線を向けられているのがわかる。
「ただの引っ越しです」
「結婚を前提に?」
「違います。……って言うか、あんたはどうしてそう、人のプライベートにずかずかと」
「酷いです。俺、ずっと湯川先生が好きって言ってるのに聞いてくれないし、いつの間にか指輪なんてしてるしっ! 結婚秒読みなんでしょう?」
「しません。……相手は穂村なので」
「えっ?」
それはするりと口からこぼれ出た。言った自分にも驚くが、後ろで声を上擦らせた男もまたおそらく驚愕している。ふっと頭の中が真っ白になって、しばらくしてからなぜそんなことを言ったのだろうと、自問自答してしまう。
けれどそんな空気は読めないのが鹿島という男だった。
「男は駄目なんじゃないんですかっ?」
「そんなこと言った覚えはない」
「だって俺のこと見向きも、……あっ! もしかして当時からそういう」
「そんなわけあるか! 生徒だぞ!」
「えー、でも、卒業してまだ一年過ぎたばかりですよ。それなのに一緒に暮らすって、その頃から気持ちがあったってことですよね?」
とっさに箸を叩きつけて振り返ったら、鹿島はひどく不可解そうな顔をして見つめてくる。そのもの言いたげな視線に言葉が続かない。あの頃の自分は、確かにあのお日様みたいな彼に惹かれていた。――けれど。
「あったのかな」
「湯川先生?」
自分の気持ちがそこに、彼の気持ちがそこに、あったのかな。そう思ってしまう自分はどうかしている。あった、間違いなくお互いのあいだに気持ちはあったはずなのに、ふいにまた不安に襲われた。
しかしこの気持ちはいままでの不安とは少し違う。漠然としたものではなくて、吊り橋効果のようなものだったらと、いまある気持ちまで疑った。
「もしかして、マリッジブルー的な? 一緒にいるのが不安なら、俺にしておきませんか?」
「なんであんたと。いい加減諦めたら?」
「相手が穂村だって聞いたら諦めたくなくなりました! 俺のほうが間違いなくいい男です!」
「……あんた、そういうキャラだったっけ? ああ、いや、相変わらず暑苦しいけど」
一人で頭から湯気を噴き出しそうになっている男に、呆れてため息が出た。それでも鹿島はしつこいくらいに乗り換えるならいまだ、なんて言う。だがそんなことは考えたこともない。穂村以外の男なんて。
「湯川先生。好きですか? 穂村のこと」
「好きだよ」
「その答えだけは淀みないんですね。悔しいなぁ」
しゅんと萎れるその様子は穂村に似ている。開いていた花が萎れるみたいな、しょんぼり影を落とすような顔。けれどあの子だったら抱きしめてあげたいと思うが、この男には欠片も思わない。
彼がなによりも特別で、すごく好きなんだ。本当になににも代えがたいくらい。
「なにを悩んでるんですか? 思わず言っちゃうくらい、なにか不安があるんでしょう?」
「……未来に、確かな答えがない、ことかな」
「それ、ずるいです。俺、完全に利用されてるじゃないですか。言葉にして、その答えを形にしようとしてる。いまの関係を明確にしたいんですよね? 俺だったら言いふらさないと思ってるんでしょう。ずるいです」
「うん」
二人の関係はこれまで誰にも言えなかった。言ったら手にしたものを失う気がして口に出せなかった。
それでも言葉にしないままでいたら、自分の想いが、彼の想いが――ちゃんとあるのに、見えなくなりそうで。だから無理矢理に、自分はいまそれを現実に引き寄せようとした。
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