別に元カノの話は禁句ではないのだが、なんだか敦生的には言ってはいけない気持ちが芽生えている。
朝倉は敦生の元彼、ノブの話も気にせずしていいと言う。
忘れなくていいとさえ言うのだけれど、敦生は自身に置き換えて考えるとあまり良い気分がしない。
ノブとの関係を、当時は一生ものの恋だ、なんて思っていたとしても。
いまはいま、過去は過去だ。
ノブが自分を忘れて次に行けというのだから、薄情でもなんでもない。
敦生はいま流れている時間は、朝倉にすべてを注ぎたかった。
ただ彼にもそうしてほしいと強要するつもりはない。
自然と同じ考えになってくれたら嬉しいとは思えど。
「気にしてる?」
「……元カノの人間性は気にならないけど。なんで朝倉さんがフリーだったんだろうっていう、疑問が湧いただけ、かな」
「敦生くんに僕はどんな風に見えているんだろう。思うほど僕はできた人間じゃないよ。別れる原因は大抵、愛されている感じがしない、とか」
「は?」
一瞬浮かべたひどく疲れた表情。
そこも気になったものの、敦生が反応したのは最後の言葉だった。
「朝倉さんが? え? 女ってそんなに高度なこと求めてるのか?」
「ははっ、高度か。ある意味、僕にとっては高度な要求だったのかも」
本気で意味がわからなくて聞いたのに、朝倉は思わずといった感じで笑った。
よほどツボにはまったのか、しばらく笑っていて、敦生は驚きで目を瞬かせる。
「あー、おかしい。敦生くん、ありがとう。なんかちょっとだけすっきりした」
「ん? うん、朝倉さんがいいならいいけど」
「ごめんね、いきなり」
ワイングラスをテーブルに戻した朝倉は、おもむろに指先で涙を拭う。
泣いたのではなく、おそらく笑いすぎて涙が出たのだろう。
「僕は基本、相手に尽くすのは苦ではないんだけど。騒がしい生活が性に合わないって言ったでしょ? だから些細な部分がとにかく噛み合わなかったみたいで」
「塵が積もればとかって言うけどさ。休みなんだから自分と一緒に過ごしてとか、誰とどこに行くのとか、そういうのだろ? 朝倉さん、時々は一人で過ごしたいタイプみたいだし」
「……そうなんだよね」
夏休みは田舎にある祖父母の家を訪れていたが、朝倉は元カノを連れて行ったことはないと言っていた。
年に一度でも一人になれる場所で過ごしたかったのだ。
だというのにそんな些細な時間も自分のために、と言われたら――想像しただけで敦生はストレスが溜まりそうだった。
「俺、朝倉さんと似たタイプで良かった。人の多い場所は苦手だし、のんびりと静かな時間を過ごすの好きだから」
「敦生くんのそういった性格もいいなって思った部分。大きく人の輪を乱さず、自分時間を上手に過ごしている感じ?」
「見た目だけじゃ、なかったんだ」
「もちろんだよ。きっかけは容姿だとしても、どんな子なんだろうって目で追っていると、ちょっとした性格性質って見えてくる」
照れくさくなって、敦生がグビグビとワインをあおれば、小さく笑った朝倉は黙ってグラスに継ぎ足してくれる。
程よく注がれたワインを、今度はちびちびと飲み始めたら、優しい目で見つめられた。
「ねぇ、敦生くん。もし望まない話を振られたら、正直に交際している大事な子がいるって言ってもいいかな?」
「……言ってもらえるほうが、俺は嬉しい」
「ほんとに?」
「うん。俺さ、このあいだ……従兄弟の兄ちゃんに相談したんだ。いま付き合ってる人がいて、これからも一緒にいたいんだけど、親が反対しそうだからどうしたらいいかって」
「そうなんだ」
思いがけない話だったのだろう。朝倉は驚きに目を見開いた。
勝手に他人に話してしまったのは、さすがにまずかったのではと、いまになって敦生は思い至る。
「あっ! その兄ちゃんはノブのことも知ってて、うちの両親からもすごい可愛がられてて、もしものときに味方になってもらえたらなって。相談せずに、ごめん」
「ううん。僕との関係を真剣に考えてくれて、嬉しいよ」
敦生は両親に、ノブと付き合っていた話もしていない。
お互いにもう少し落ち着いたら話してみようと言って、結局それきりになった。
性対象についてはどうしようもない部分なので、両親は戸惑うだろうが敦生を許容してくれると思える。
ただ彼らにまったく知らぬ、九つも離れた年上の男性と付き合っていると言えば、どんな反応をするか。
幼い頃の色々があるため、過剰に反対しそうな気がしてならない。
「いきなり僕が現れても、ご両親は困惑するだろうしね」
「うん。だから味方を作りたくて」
「従兄弟の彼はなんて?」
「できたら一度、朝倉さんに会いたいって言ってた」
「まあ、当然の返答だよね。敦生くんが騙されてるんじゃないかと、心配しても仕方ない」
少しふて腐れた敦生に気づいたのか、朝倉は苦笑する。
彼が言うように、いくら信用に足る人だと説明しても、実際会わないと応援はできないと言われた。
高校時代に知り合ったノブはよく知っていたから、無条件に見守れたのだと言われれば、それ以上反論できず、モヤモヤした気分だけが残った。
「いつでも時間を空けますって、伝えて」
「わかった。なんか、変にややこしくしたみたいで」
「大丈夫だよ。そういえばうちの人たちが、敦生くんに会いたいって言ってたけど。面倒だから聞き流したままだったな」
「えっ? 朝倉さんの家族が俺に?」
「ちょっと前の話だけど。敦生くんが遊びに来る予定だったから、誘いを断ったんだ。そしたら家に招くような恋人ができたのか、と興味津々でね」
「そっ、そうなんだ」
(この部屋にも元カノを連れてきたことないんだ)
数秒前まで朝倉の家族がと聞き、そわそわしていたのに、ここに呼ばれたのが自分だけと知って敦生の口はニヨニヨと緩む。
緩みきった唇を誤魔化すために、料理を黙々と口へ運んだら、朝倉に吹き出された。
「ほんと、敦生くんは可愛いなぁ」
「そこまで笑わなくてもいいだろ」
「ふふっ、だって本当に素直で可愛くて」
こらえきれない笑いがこぼれて、朝倉は口元を手で覆う。
むぅっと口をへの字にした敦生だが、自身を繕いもせず素の笑顔を見せてくれる朝倉に、胸がキュンとした。
(朝倉さん、格好いいのに可愛いとかずるい)
自分などでは背伸びをしても届かないような大人。
ずっとそう思ってきたのに――実際の彼を近くで見るほどに、敦生は心が惹き寄せられる。
「笑いすぎてごめん。怒った?」
「別に、怒ってはない。朝倉さんがずるい大人だと思っただけ」
「え? 僕がずるい大人? なにか嫌な気分にさせた?」
「すげぇ、好きだなって気分になった」
「…………」
投げやりなそぶりで言い切って、グラスを傾ける敦生とは対照的に、目の前の朝倉はしばらく固まったのち首筋まで肌を紅くした。
(こんな言葉で真っ赤になるってことは、言われ慣れてないのかな? それとも俺だから?)
「朝倉さん、好きだよ」
「うん」
「俺、これから先、ずっと朝倉さんだけ」
「……う、ん」
言い募ると、全身が朱色に染まっているのではと思いたくなるくらい、朝倉は赤りんごの如く染まった。
落ち着きなく視線を動かし、手の甲で口元を押さえる姿は、どう反応していいのかわからないように見える。
「朝倉さん、あんまり好きって言われたことねぇの?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど。敦生くんに好きって言われるのにまだ慣れないというか。すごく嬉しいんだけど、過剰摂取すると夢見心地な気分になって。だんだん現実と思えなく」
「ちょ、ちょっと朝倉さん! 夢にすんなよ! 俺、いまちゃんと朝倉さんの恋人だよな?」
「うん、もちろん。ほら、僕は一年以上もしつこく片想いしてたから」
まさかの発言に敦生が慌てれば、申し訳なさそうに朝倉は眉尻を下げた。
(えーと、正式に付き合おうって言ったっけ? 夏頃には手を繋いだり、キスしたり進展したけど)
今年の春からいままでを懸命に巻き戻してみると――それらしい場面が思い当たらなかった。
敦生が振り向いてくれるのを待つと朝倉は言ってくれて、一緒に過ごす時間が増えて、いい雰囲気になり、いまがある。
「朝倉さん!」
「ん? えっ? なに? どうしたの?」
いきなり立ち上がった敦生に朝倉は目を丸くする。
急な展開についていけていないのは、何度も瞬く様子から見て取れたけれど、敦生はそのまま彼の近くまで歩いていく。
「好きです。俺と付き合ってください」
「――敦生くん」
敦生を見上げる、酔いが覚めたみたいな表情。
なぜ急にこんな告白をしたのか、思い至ったのだろう。朝倉はかすかに息を飲んだ。
「ありがとう。……もちろん喜んで」
嬉しそうに綻んだ、泣き笑いみたいな朝倉の顔を見て、敦生は飛びつくように彼の首筋に腕を回し、抱きつく。
ぎゅっと力を込めたら、応えるように背中を抱き寄せてくれた。
「朝倉さん、大好きだ」
「僕も敦生くんが大好きだよ」
「キス、してもいいか?」
「いくらでも」
そっと体を離して互いに見つめ合ったあと、ゆるりと顔を寄せ合う。
もう何度も触れた唇。だというのにいまの敦生の胸は、ファーストキスの時くらいドキドキとした。
優しい口づけ。
ついばむように繰り返し触れて、二人の熱が混じり合う錯覚がする。
(俺、キスだけでこんなにドキドキしてるけど。これ以上先に進んだら、心臓が爆発するんじゃ)
「敦生くん?」
「朝倉さん、あの……」
「ん?」
「この先はゆっくり、オネガイシマス」
「ふっ、なんで片言。大丈夫、敦生くんのペースに合わせるよ。伊達に長年、横恋慕してないから」
自分で先へ進みたいと言ったのに、前言撤回で敦生は恥ずかしさといたたまれなさで、地中に埋もれたい気持ちだった。
心中を察している朝倉に笑われても文句すら言えない。
「可愛い」
敦生の腰を抱き寄せ、膝の上に載せた朝倉は頬やこめかみに、たくさんのキスをくれる。
くすぐったくて、顔が熱くてどうにかなりそうだが、いまの敦生は幸せという言葉しか浮かばなかった。
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