小さな幸せのひととき03

 別に元カノの話は禁句ではないのだが、なんだか敦生的には言ってはいけない気持ちが芽生えている。
 朝倉は敦生の元彼、ノブの話も気にせずしていいと言う。

 忘れなくていいとさえ言うのだけれど、敦生は自身に置き換えて考えるとあまり良い気分がしない。
 ノブとの関係を、当時は一生ものの恋だ、なんて思っていたとしても。

 いまはいま、過去は過去だ。
 ノブが自分を忘れて次に行けというのだから、薄情でもなんでもない。
 敦生はいま流れている時間は、朝倉にすべてを注ぎたかった。

 ただ彼にもそうしてほしいと強要するつもりはない。
 自然と同じ考えになってくれたら嬉しいとは思えど。

「気にしてる?」

「……元カノの人間性は気にならないけど。なんで朝倉さんがフリーだったんだろうっていう、疑問が湧いただけ、かな」

「敦生くんに僕はどんな風に見えているんだろう。思うほど僕はできた人間じゃないよ。別れる原因は大抵、愛されている感じがしない、とか」

「は?」

 一瞬浮かべたひどく疲れた表情。
 そこも気になったものの、敦生が反応したのは最後の言葉だった。

「朝倉さんが? え? 女ってそんなに高度なこと求めてるのか?」

「ははっ、高度か。ある意味、僕にとっては高度な要求だったのかも」

 本気で意味がわからなくて聞いたのに、朝倉は思わずといった感じで笑った。
 よほどツボにはまったのか、しばらく笑っていて、敦生は驚きで目を瞬かせる。

「あー、おかしい。敦生くん、ありがとう。なんかちょっとだけすっきりした」

「ん? うん、朝倉さんがいいならいいけど」

「ごめんね、いきなり」

 ワイングラスをテーブルに戻した朝倉は、おもむろに指先で涙を拭う。
 泣いたのではなく、おそらく笑いすぎて涙が出たのだろう。

「僕は基本、相手に尽くすのは苦ではないんだけど。騒がしい生活が性に合わないって言ったでしょ? だから些細な部分がとにかく噛み合わなかったみたいで」

「塵が積もればとかって言うけどさ。休みなんだから自分と一緒に過ごしてとか、誰とどこに行くのとか、そういうのだろ? 朝倉さん、時々は一人で過ごしたいタイプみたいだし」

「……そうなんだよね」

 夏休みは田舎にある祖父母の家を訪れていたが、朝倉は元カノを連れて行ったことはないと言っていた。
 年に一度でも一人になれる場所で過ごしたかったのだ。

 だというのにそんな些細な時間も自分のために、と言われたら――想像しただけで敦生はストレスが溜まりそうだった。

「俺、朝倉さんと似たタイプで良かった。人の多い場所は苦手だし、のんびりと静かな時間を過ごすの好きだから」

「敦生くんのそういった性格もいいなって思った部分。大きく人の輪を乱さず、自分時間を上手に過ごしている感じ?」

「見た目だけじゃ、なかったんだ」

「もちろんだよ。きっかけは容姿だとしても、どんな子なんだろうって目で追っていると、ちょっとした性格性質って見えてくる」

 照れくさくなって、敦生がグビグビとワインをあおれば、小さく笑った朝倉は黙ってグラスに継ぎ足してくれる。
 程よく注がれたワインを、今度はちびちびと飲み始めたら、優しい目で見つめられた。

「ねぇ、敦生くん。もし望まない話を振られたら、正直に交際している大事な子がいるって言ってもいいかな?」

「……言ってもらえるほうが、俺は嬉しい」

「ほんとに?」

「うん。俺さ、このあいだ……従兄弟の兄ちゃんに相談したんだ。いま付き合ってる人がいて、これからも一緒にいたいんだけど、親が反対しそうだからどうしたらいいかって」

「そうなんだ」

 思いがけない話だったのだろう。朝倉は驚きに目を見開いた。
 勝手に他人に話してしまったのは、さすがにまずかったのではと、いまになって敦生は思い至る。

「あっ! その兄ちゃんはノブのことも知ってて、うちの両親からもすごい可愛がられてて、もしものときに味方になってもらえたらなって。相談せずに、ごめん」

「ううん。僕との関係を真剣に考えてくれて、嬉しいよ」

 敦生は両親に、ノブと付き合っていた話もしていない。
 お互いにもう少し落ち着いたら話してみようと言って、結局それきりになった。

 性対象についてはどうしようもない部分なので、両親は戸惑うだろうが敦生を許容してくれると思える。
 ただ彼らにまったく知らぬ、九つも離れた年上の男性と付き合っていると言えば、どんな反応をするか。

 幼い頃の色々があるため、過剰に反対しそうな気がしてならない。

「いきなり僕が現れても、ご両親は困惑するだろうしね」

「うん。だから味方を作りたくて」

「従兄弟の彼はなんて?」

「できたら一度、朝倉さんに会いたいって言ってた」

「まあ、当然の返答だよね。敦生くんが騙されてるんじゃないかと、心配しても仕方ない」

 少しふて腐れた敦生に気づいたのか、朝倉は苦笑する。
 彼が言うように、いくら信用に足る人だと説明しても、実際会わないと応援はできないと言われた。

 高校時代に知り合ったノブはよく知っていたから、無条件に見守れたのだと言われれば、それ以上反論できず、モヤモヤした気分だけが残った。

「いつでも時間を空けますって、伝えて」

「わかった。なんか、変にややこしくしたみたいで」

「大丈夫だよ。そういえばうちの人たちが、敦生くんに会いたいって言ってたけど。面倒だから聞き流したままだったな」

「えっ? 朝倉さんの家族が俺に?」

「ちょっと前の話だけど。敦生くんが遊びに来る予定だったから、誘いを断ったんだ。そしたら家に招くような恋人ができたのか、と興味津々でね」

「そっ、そうなんだ」

(この部屋にも元カノを連れてきたことないんだ)

 数秒前まで朝倉の家族がと聞き、そわそわしていたのに、ここに呼ばれたのが自分だけと知って敦生の口はニヨニヨと緩む。
 緩みきった唇を誤魔化すために、料理を黙々と口へ運んだら、朝倉に吹き出された。

「ほんと、敦生くんは可愛いなぁ」

「そこまで笑わなくてもいいだろ」

「ふふっ、だって本当に素直で可愛くて」

 こらえきれない笑いがこぼれて、朝倉は口元を手で覆う。
 むぅっと口をへの字にした敦生だが、自身を繕いもせず素の笑顔を見せてくれる朝倉に、胸がキュンとした。

(朝倉さん、格好いいのに可愛いとかずるい)

 自分などでは背伸びをしても届かないような大人。
 ずっとそう思ってきたのに――実際の彼を近くで見るほどに、敦生は心が惹き寄せられる。

「笑いすぎてごめん。怒った?」

「別に、怒ってはない。朝倉さんがずるい大人だと思っただけ」

「え? 僕がずるい大人? なにか嫌な気分にさせた?」

「すげぇ、好きだなって気分になった」

「…………」

 投げやりなそぶりで言い切って、グラスを傾ける敦生とは対照的に、目の前の朝倉はしばらく固まったのち首筋まで肌を紅くした。

(こんな言葉で真っ赤になるってことは、言われ慣れてないのかな? それとも俺だから?)

「朝倉さん、好きだよ」

「うん」

「俺、これから先、ずっと朝倉さんだけ」

「……う、ん」

 言い募ると、全身が朱色に染まっているのではと思いたくなるくらい、朝倉は赤りんごの如く染まった。
 落ち着きなく視線を動かし、手の甲で口元を押さえる姿は、どう反応していいのかわからないように見える。

「朝倉さん、あんまり好きって言われたことねぇの?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど。敦生くんに好きって言われるのにまだ慣れないというか。すごく嬉しいんだけど、過剰摂取すると夢見心地な気分になって。だんだん現実と思えなく」

「ちょ、ちょっと朝倉さん! 夢にすんなよ! 俺、いまちゃんと朝倉さんの恋人だよな?」

「うん、もちろん。ほら、僕は一年以上もしつこく片想いしてたから」

 まさかの発言に敦生が慌てれば、申し訳なさそうに朝倉は眉尻を下げた。

(えーと、正式に付き合おうって言ったっけ? 夏頃には手を繋いだり、キスしたり進展したけど)

 今年の春からいままでを懸命に巻き戻してみると――それらしい場面が思い当たらなかった。
 敦生が振り向いてくれるのを待つと朝倉は言ってくれて、一緒に過ごす時間が増えて、いい雰囲気になり、いまがある。

「朝倉さん!」

「ん? えっ? なに? どうしたの?」

 いきなり立ち上がった敦生に朝倉は目を丸くする。
 急な展開についていけていないのは、何度も瞬く様子から見て取れたけれど、敦生はそのまま彼の近くまで歩いていく。

「好きです。俺と付き合ってください」

「――敦生くん」

 敦生を見上げる、酔いが覚めたみたいな表情。
 なぜ急にこんな告白をしたのか、思い至ったのだろう。朝倉はかすかに息を飲んだ。

「ありがとう。……もちろん喜んで」

 嬉しそうに綻んだ、泣き笑いみたいな朝倉の顔を見て、敦生は飛びつくように彼の首筋に腕を回し、抱きつく。
 ぎゅっと力を込めたら、応えるように背中を抱き寄せてくれた。

「朝倉さん、大好きだ」

「僕も敦生くんが大好きだよ」

「キス、してもいいか?」

「いくらでも」

 そっと体を離して互いに見つめ合ったあと、ゆるりと顔を寄せ合う。
 もう何度も触れた唇。だというのにいまの敦生の胸は、ファーストキスの時くらいドキドキとした。

 優しい口づけ。
 ついばむように繰り返し触れて、二人の熱が混じり合う錯覚がする。

(俺、キスだけでこんなにドキドキしてるけど。これ以上先に進んだら、心臓が爆発するんじゃ)

「敦生くん?」

「朝倉さん、あの……」

「ん?」

「この先はゆっくり、オネガイシマス」

「ふっ、なんで片言。大丈夫、敦生くんのペースに合わせるよ。伊達に長年、横恋慕してないから」

 自分で先へ進みたいと言ったのに、前言撤回で敦生は恥ずかしさといたたまれなさで、地中に埋もれたい気持ちだった。
 心中を察している朝倉に笑われても文句すら言えない。

「可愛い」

 敦生の腰を抱き寄せ、膝の上に載せた朝倉は頬やこめかみに、たくさんのキスをくれる。
 くすぐったくて、顔が熱くてどうにかなりそうだが、いまの敦生は幸せという言葉しか浮かばなかった。

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