沈み始めた太陽は、晴れ渡っていた青空をいつしかオレンジ色に変え、高く伸びた建物や道行く人々を照らしていた。
時刻は十八時十六分――大きな噴水が、初夏の暑さを和らげる夕刻の公園、仕事帰りのスーツ姿が多く目に留まる。
みな帰路へつくのか、それとも夜の街に繰り出していくのか、急ぎ足の人もいればゆっくりと歩いている人もいる。
そんな人の流れを見つめる青年が一人、公園のベンチに腰かけていた。
夕陽に照らされた青年の赤茶色の髪は、陽に透けて燃えるような赤に染め上げられていた。
その鮮やかな色と青年の中性的なその美しさに、振り返る人たちは引き寄せられるように視線を向けた。
けれどそんな視線に気づいていないのか、青年の瞳は特になにを映すでもなく遠くを見ていた。
しかし公園の入り口から足早に近づいてくる人に彼は弾かれたように顔を上げ、髪の色と同じ赤茶色の目を瞬かせた。
「敦生くん」
青年の名を呼び近づいてきたのは、スーツ姿の背が高い男だった。柔和な顔立ちにふさわしい優しげな笑顔を浮かべ、顔を上げた敦生に向かって男は手を振った。
少し急ぎ足な彼の姿を認めた敦生は、いつの間にか腰かけていたベンチから立ち上がっていた。
「お待たせ」
「朝倉さん、お疲れ」
「ありがとう」
おずおずと紡ぎ出された敦生の言葉に、朝倉は至極嬉しそうに笑みを浮かべた。
目の前に立った彼は敦生よりも頭一つ分ほど背が高く、俯きがちな顔を腰を屈めて覗き込む。
すると伏せられていた瞳は驚きに見開かれて、見る間に頬が赤くなっていった。オレンジ色の陽射しの中でも白い肌に朱色はよく映えた。
「待っているあいだ暑くなかった? もう最近は夕方も暑いよね」
「大丈夫」
「そっか、じゃあ、ご飯食べに行こうか」
小さく頷いた敦生を見て、満面の笑みを浮かべた朝倉は、先を促すように背に手を回した。
そんな手の感触に驚いたのか、敦生は目を瞬かせながら彼を見上げる。けれどそんな視線に朝倉は目を細めて優しく笑うだけだった。
「食欲はどう? ご飯どのくらい食べられそう?」
歩き始めると、背中へ回された手は離れていった。けれど並んで歩く二人の距離は、手を伸ばせば相手の手が触れてしまいそうなほどしかない。
隣を歩く人の熱が伝わりそうな距離。いつの間にか二人の距離は近づいていた。
三ヶ月ほど前までは、朝倉の歩く斜め後ろを敦生は俯いて歩くだけだった。けれど心は日を追うごとに、目の前を歩く人へと傾いていた。
「多分、普通に食べられる」
敦生にとっての朝倉は、優しくそしてまっすぐに愛情を向けてくれる、心の拠り所のような存在だ。前の恋愛をこじらせて、立ち直れずにいた敦生に付け入るようなこともせず、ただ傍で優しく見守り同じ歩調で歩いてくれた。
心が渇いて愛情に飢えていた敦生が、そんな朝倉の心に寄り添うのに、時間はそれほどかからなかった。
「うん、それはよかった。これから暑い夏が来るからね。栄養つけていこう」
目を細めて笑った朝倉の手が、サラサラと音を立てそうなほど柔らかい、赤茶色の髪を優しく撫でる。
その手に敦生は目を伏せながらも、嬉しそうに小さく笑った。そしてそんな表情を目に留めた、朝倉もまた頬を緩め、優しげな眼差しを向ける。
「ここのお店、お肉と野菜が美味しいらしいよ」
公園を抜けて十分と少し歩いたところで、朝倉が足を止めた。そこは表通りから一歩入った道にぽつんと明かりを灯す、レンガ調の外壁に赤いテントを張った外観が洒落たレストランだった。
ウッドデッキにテーブルが二席、ガラスサッシの向こうに見える店内は、テーブルが五席程度で、比較的こぢんまりとした店構えだ。
オレンジ色の温かい色合いのランプが灯されていて、見るからに落ち着いた雰囲気が想像できた。
「敦生くんの口に合えばいいけど」
窓際の予約席に通された二人は、テーブルの上のメニューを開く。すると敦生は小さく首を傾げた。
「朝倉さん」
「ん?」
不思議そうな顔で自分を見つめる敦生の視線に、朝倉はなにごともないような表情で小さく首を傾げてみせる。
けれどそんな反応に、敦生は少し困ったように視線をさ迷わせた。けれどしばらくすると、意を決したようにメニューをテーブルに広げた。
「これ値段、書いてねぇよ」
敦生は呟くような小さな声で朝倉に声をかける。
「朝倉さん?」
そんな様子をじっと見つめていた朝倉が、ふっと息を吐くように笑った。けれどその意味がわからない敦生は、訝しげな顔をして首を傾げる。
「いや、ごめんね。敦生くんが可愛かったから」
口元を片手で覆いながら笑いをこらえている、そんな様子に敦生は困ったように眉を寄せた。
「敦生くん値段見ていつもメニュー決めちゃうでしょ。だから今日は気にせずに頼んでいいよ。大丈夫、ここそんなに高くないから、ね」
満面の笑みで押し切られると、さすがにそれ以上は言い出せないのか、敦生はテーブルに広げたメニューを手に取り、まじまじとそれを見つめた。
そのあとは、しばらく悩んでいた敦生が二品ほど料理を決め、残りは朝倉が手早く注文していった。
「敦生くん美味しい?」
「うん、うまい」
「よかった」
最初は遠慮がちだった敦生も、料理が運ばれてくると、朝倉に勧められるままに手を伸ばした。料理とグラスの赤ワインを交互に口へ運ぶ、そんな様子を見つめる朝倉は満足気な笑みを浮かべた。
テーブルに広げられた料理は、どれもさしてボリュームはなく、二人でいくつかシェアをして食べるには、ちょうどいい量だった。
しっかりとした味付けながらも、しつこさのないあっさりとした料理は、少食の敦生の口にも合ったのか。ボトルのワインと共に、料理が順調になくなっていった。
「敦生くん、来月から大学は夏休みだよね? なにか予定ある?」
「え? いや、特には」
「じゃあ、来月になったら僕も数日夏休みをもらえるんだ。どこかに一緒に行かない?」
戸惑いがちに首を傾げた敦生に、朝倉は子供みたいに無邪気な笑みを浮かべて、目を輝かせた。その笑顔を見て敦生はふとワインのボトルに目を向けた。
食事を始めてボトルは一本を、もう少しでカラにしようとしている状況だった。
いつにもまして朝倉はニコニコと笑っている。まさか酒に酔っているのだろうかと敦生は首を傾げた。
「それって」
「ごめん、ちょっと言い方が誤解させたかな。泊まりで行こうとか、やましいことは考えてないよ」
敦生の窺うような視線に、朝倉は慌てたように首を振った。酒のせいではないだろう顔の赤みに、敦生は少し驚いた顔をしたが、すぐに口元を緩めて笑みをこぼした。
「朝倉さんでもやましいこと考えるんだな」
時折冗談を言う余裕も見せるが、朝倉は敦生にとってとにかく誠実で、真面目な人だという印象が強かった。
それは出会ってからいまもずっと変わらない。
最近やっと付き合い始めて、二人は手を繋ぐこともキスをすることも、何度かあった。けれど朝倉はその先を急くことは一度もなかった。
「考えちゃうこともあるよ。いまもどうしたら君を繋ぎ止められるだろうって」
「え?」
「あ、いや、ここでするような話じゃないね」
慌てたようにグラスのワインを飲み干すと、朝倉は軽く手を挙げて店員に会計を申し出た。その少しぎこちないくらいの行動に、敦生は目を瞬かせ不思議そうに首を傾げる。
「別のところで少し飲む?」
「朝倉さんまだ飲めんの?」
酒に強い敦生と違い、朝倉はそこそこ飲めるくらいの強さだった。現にワインボトルの三分の二は敦生が飲んでいる。
「僕はあと一杯くらいかな。でもあと少し敦生くんと一緒にいたいな」
「……じゃあ、少しなら」
まっすぐな言葉に、敦生は少し目を伏せ考え込んでいたが、じっと見つめる朝倉の視線に小さく頷いた。
「ありがとう。ここからちょっと先へ行ったところにいい店があるよ。ここはそろそろ出ようか」
敦生がワインを飲み終わるのを見計らっていた朝倉は、ゆっくりと席を立つ。
店を出るとすっかり陽も暮れ、空では月がうっすら光をまとい輝いていた。時折ひんやりとした夜風が吹き抜けて、酒で火照った二人の肌を優しく撫でていく。
特別言葉を交わすこともなく、二人は並んで道を歩いていくけれど、そんな沈黙もいつものことだ。二人は別段それを気にすることはなかった。
「敦生くん行きたいところある?」
ふいに問いかけられた敦生は、朝倉を見上げて小さく首を傾げた。けれど先ほどの話の続きをしているのがわかったのか、すぐに顔を俯けて考えるような表情を浮かべる。
またしばらく二人のあいだに沈黙が続く。
「暑くないところ」
「……大雑把だね」
ぽつりと呟いた敦生の言葉に、朝倉は吹き出すように笑った。いつまで経っても笑いがおさまらないその反応に、敦生は少し不満げに口を引き結ぶ。
けれど「ごめんね」と優しく髪を撫でられると、その口元が微かに綻んだ。
「暑くないところか」
小さく唸りながら考え込む朝倉を見上げながら、敦生はそっと隣に手を伸ばす。けれど触れそうで触れない指先に、届きそうになった瞬間、彼はなにかを思いついたのか急に振り返った。
敦生は伸ばした手を慌てて後ろへ隠した。
「車で少し行くけど、うちの旧家があるところは避暑地だったから静かで夏でも涼しいよ。あー、でもなにもないな」
「涼しければ、なくてもいいけど」
少し困ったように唸った朝倉に、敦生は目を細めて笑みを浮かべた。
「そう? じゃあ行く日までに掃除しておいてもらおうかな。日程はいつがいいか今度教えて」
「わかった」
小さく頷いた敦生に、やんわりと目を細めて笑った朝倉は、隣り合わせだった手をそっと握った。その感触に顔を跳ね上げた敦生は、優しい眼差しで自分を見下ろす視線に、握られた手をほんの少し力を込めて握り返す。
「朝倉さん酔ってる?」
「うん、ちょっと。でも酔ってるせいにしたくないかも」
朝倉はそう言って小さく微笑み、身を屈めると敦生の頬にふわりと口づけた。
「敦生くん、目閉じて」
「え? 朝倉さんここ外だけど」
「一瞬だから」
裏道は外灯のみで、それほど明るさもなく人通りもない。一瞬の口づけなど誰に見られるわけでもない。
けれど慌てて周りを見回した敦生は、子供みたいな駄々をこねる朝倉を見つめて、戸惑っていた。
いつもなら我がままなんて、言う人ではないとわかっているから、雰囲気に流されて後悔させるのは可哀想だと思った。
しかし繋いだ手を引かれて、敦生は諦めたように目を閉じた。戸惑いはあるけれど、期待がないわけではない。
まぶたを閉じた敦生を見つめ、朝倉は嬉しそうに目を細めて、そっと唇を重ねた。
「ね、一瞬」
「恥ずかしい」
「敦生くん、可愛いね」
手の甲で口元を覆って、頬を染める敦生に朝倉は目を細めると、また頬に口づけをした。そして愛おしくて仕方ないと言わんばかりに、強く抱きしめる。
突然の抱擁に、敦生は肩を跳ね上げて驚きをあらわにするけれど、朝倉の腕から逃げ出そうとはしなかった。
「君がこうして傍にいてくれることがなによりも嬉しいよ」
「大げさだ」
「うん、でもほんとだよ」
耳元で囁かれる甘い言葉に、敦生はくすぐったそうに肩をすくめる。それに気づいているのか、朝倉はこめかみや耳のフチに、小さな口づけを落としていく。
「朝倉さんやっぱり酔ってる」
「ごめんね、嫌だった?」
そっと身体を離し俯いた顔を朝倉が覗き込むと、頬を赤く染めて目を伏せる敦生の表情が目に映る。
長いまつげが頬に影を落とす艶めいたその表情に、朝倉は瞬きをするのを忘れるほど見惚れていた。
「嫌じゃないから困ってる」
そしてぽつりと呟かれた、敦生の言葉に目を見開き、頬を染めて惚けたまま固まっている。けれど視線が持ち上がると、朝倉は我に返ったように瞬いた。
「敦生くん、いま僕すごいやましい気持ちになってるんだけど」
「朝倉さん正直過ぎ」
至極真面目な表情を浮かべる朝倉に、敦生は吹き出すようにして笑った。
「でもそういうところがすげぇ好きだ」
「敦生くんの口から、その言葉を聞くのは初めてかも」
再び目を瞬かせ、朝倉は敦生をじっと見つめる。そして頬を緩めると、赤茶色の髪を梳いて撫でた。
「そうだっけ?」
「うん」
「そうか」
小さく笑った朝倉に、敦生は少し考え込むように顔を俯けた。けれど悩んだ素振りを見せたのは一瞬で、背伸びをして目の前の両肩を掴むと、敦生は先ほど優しく自分に触れた唇に口づけた。
「俺、いまちゃんと朝倉さんが好きだ」
突然の口づけに朝倉は驚き戸惑うが、それを実感し噛み締めると、頬を緩めて笑った。
「ありがとう、嬉しいよ」
優しい朝倉の声に、敦生の頬がほのかに朱色に染まる。改めて確認し合った想いに、二人の心に芽吹いた花が、柔らかな蕾を膨らませた。
恋に芽吹く花/end
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