その感情をどんなに否定されたとしても譲れない想いがある。だからどんなこと言われても一歩も退けない時が必ず来る。
いつもより耳につくざわめきに気づいたのは、登校してすぐのこと。ひそひそと囁き、じろじろと視線が向けられる。けれどそのあからさまな好奇心に対して、雪羽に焦りや戸惑いはなかった。なぜならそれは、予想の範囲だったからだ。
こんなことになるんじゃないかと思っていた。そんなことを心の中で呟いて、雪羽は深いため息を一つ吐き出す。生徒玄関に足を踏み入れた瞬間も、靴を履き替えているあいだも視線が刺さる。
けれど決してその視線を振り返ることなく、いつものように雪羽は教室へ向かった。けれどいつもとは違い二階へ上がると廊下の先が少し騒がしい。それは雪羽が向かおうとしているクラスの前だ。ゆっくり近づいていくと、ひどく慌てた滝川の声が聞こえてきた。
「落ち着け葛原! 神谷が来るまで早まるな!」
「うるせぇ、あの女ぶっ殺す!」
一際大きな声が響き、雪羽は少しあ然としたようにそこにある背中を見つめてしまった。滝川より十センチ以上は背が高いその人は、前と後ろから滝川や木山、小出たちに羽交い締めにされ、取り押さえられている。
「どうしたんだ?」
「神谷! いいところに来た。こいつをどうにかしてくれ」
傍まで行って滝川の背中を叩くと、振り向いた瞬間に羽交い締めにしていた身体を雪羽のほうへ押しつけてくる。驚いて手を広げたら、腕の中に日向が収まった。
「日向?」
先ほどまで大騒ぎをしていた日向は、雪羽に抱きとめられると途端に大人しくなる。そしてじっと雪羽の顔を見下ろしてきた。その眼差しを受け止めれば、そっと持ち上げられた手に頬を撫でられる。
「雪羽、大丈夫か?」
「なにが? 俺はなんともない。日向も気にしなくたっていいんだぞ」
「馬鹿、もっと気にしろ! 間違ったことは間違ってると訂正すべきだ。俺はそうだけど、お前はそうじゃない」
「噂なんてそんなに長く続くもんじゃない。わざわざことを荒らげなくたっていいだろ」
綺麗な茶色い瞳の中に怒りの色が揺らめいているが、雪羽は小さく息をつくように笑う。そして頬に触れる手をゆっくりと引き離す。けれどその手は身を引こうとする雪羽の背中を抱き寄せ、きつく抱きしめた。
広がった噂はいままでとさして変わらない。ただそこに少しばかり悪意が加わっただけ。――神谷雪羽はゲイで、男好きだ。それは事実ではないけれど、端から見たら本当かどうかの判別なんて曖昧なもの。雪羽が日向を好きな時点で、その噂は本当のように流れていく。
「おい、こら葛原! お前のそういう行動も噂を助長すんだよ! ちょっとは控えろ!」
突然の抱擁に雪羽が目を瞬かせていると、日向の背後からバシバシと遠慮なく背中を叩く音が聞こえる。それと共にこちらを窺うような視線と小さな囁きが耳に届く。
「やっぱりあの二人ってそうなんだ」
「神谷くんがそうだってことは、葛原くんも?」
「えー、かなりショック」
その言葉を聞いて雪羽は考え込むように俯いた。誰になにを言われても気にはしないと思っていたけれど、日向まで槍玉に挙げられるのは納得がいかない。この現状を作り出してしまったのは昨日の言動のせいだ。だから攻撃の的は一人だけで充分なはず。
両手に力を込めると、雪羽は日向の身体を押し離した。
「別れるとか、そういう言葉は一切受け付けねぇぞ。そんなことになったら、俺はあの女の顔をいますぐぶん殴りに行く」
「それは困る。日向にそんなことさせられない」
「じゃあ、あの女に訂正させろよ」
「日向、よく考えて見ろよ。こんな噂の出所がどこかなんてみんな興味ないし、あの人を責めたところで噂が消えてなくなるわけじゃ」
「おい! 神谷! 大変だぞ、お前の姉さんが大喧嘩し始めた!」
眉をひそめる日向をなだめる雪羽の声がふいに遮られる。遠くから近づいてくるその大きな声に驚いて振り返ると、見覚えのあるクラスメイトが駆け寄ってきた。慌てた彼の口から吐き出された言葉に、雪羽は驚きに目を丸くしてしまう。
「え? どういうこと?」
「三年の教室で何人かの女子とつかみ合いの喧嘩になってる」
「……あの馬鹿姉、なにやってんだよ」
「早く行って仲裁してこいよ。あの人を止められるの神谷しかいないだろう」
姉の鞠子がいま騒動を起こす原因など一つしかない。噂を聞いてその主犯であろう君島美智のところに殴り込みに行ったのだ。急に痛み出した頭を抑えると、大仰なため息を吐き出しながら雪羽は足を踏み出した。
「俺も行く」
「間違っても日向まで手を出すなよ」
「わかってる」
先へと進もうとした雪羽の手を掴んだ日向は、ひどくまっすぐな目をする。その視線に手を振りほどくこともできず、雪羽は小さく肩をすくめた。そして二人で頷き合うと、急いで三年の教室へと向かう。
「あの人の教室って何組だろう」
「行けばわかるんじゃねぇの? 多分騒ぎになってんだろ」
「それもそうか」
慌てて雪羽を呼びに来るくらいだ、相当鞠子は大暴れをしているのだろう。性格はまっすぐで曲がったことが嫌い。人の陰口などもっとも毛嫌いしている。そして鞠子は自他共に認める重度なブラコンだ。こんな状況で黙っていられるわけがない。
「それにしても、姉ちゃん。なんで確かめもせずに直接向こうに行くかな」
「わかりやすいのあの女くらいだからな」
「もしかして日向、結構あの人に言い寄られてた?」
「まあ、そうだな。鬱陶しいと感じるくらいには」
「そうだったんだ。知らなかった」
向こうはずっと雪羽の目が届かない場所でアプローチをしていた。それは考えてみれば想像が容易いことだ。雪羽が傍にいれば日向は雪羽のほうへ意識を向けてしまう。だから恋敵がいない隙を狙うしかない。
一年の頃から日向が告白されるなんて珍しいことではなかった。それでも雪羽が傍にいるようになって、誰がいつ告白したなどという噂は減っていった。それは日向が雪羽にしか興味を持っていないのが、目に見えてわかるくらいあからさまだったからだ。
けれどそんな状況でも想いを寄せる人は少なからずいる。他人に興味をもたない日向に告白するのは、よほど想いを募らせているか、自分に自信があるかのどちらかだろう。見た限り君島美智はどちらも当てはまる。だからこそ厄介な相手なのだ。
日向に盲目的で、自分が相手にふさわしいと自負している。実際に美智は性格に難こそあれ、容姿はほかと比ぶべくもないほど秀でていた。二人で並べば美男美女と見目麗しいのは納得できる。雪羽と比べた時に、世間はそれが正しいと口を揃えるはずだ。
「雪羽、あのクラスじゃないか?」
「え? ああ、うん」
ぼんやりと考えごとをしていた雪羽は日向の声に我に返って顔を上げる。視線を向けた先では、廊下から教室内をのぞき込む生徒たちが集まり人垣ができていた。けれどざわつくそこへ近づいていくと、雪羽の存在に気づいた者たちが道を空けるように身を引く。
「ふざけるんじゃないわよ! なに被害者面してるのよ!」
教室をのぞき見る前に中から鞠子の怒声が響いた。その声の大きさに空気が震えたような気になる。
慌てて雪羽が教室に足を踏み入れれば、教室の奥のほうに鞠子の姿が見えた。長い黒髪を揺らしながら仁王立ちする彼女の目の前には美智とそれを取り囲む女子生徒が三人。しかし美智以外は怯えた顔で身をすくませている。
ネクタイや髪が乱れているところを見ると、取っ組み合いになったのはこの三人のようだ。けれど鞠子の剣幕に恐れおののき逃げ腰になったというところか。
睨み付けるキツい視線におどおどとして、いまにも美智の後ろに隠れてしまいそうだ。真ん中に立つ美智はと言えば、少し顔が青ざめてはいるが鞠子を見る目に負けん気の強さが伺える。
「私がなにをしたって言うの! あなたこそ何様のつもり?」
「あることないこと吹聴したくせによく言うわ」
「それを私が広めたって言う証拠はどこにあるの? 言いがかりはやめてちょうだい」
「そうやって強気に出てるところがなによりの証拠だわ! 自分はまったく悪くないみたいな顔してる! 自分がなにをしたか自覚がないんでしょう?」
「いやぁね、煙は火のないところに立たないって言うじゃない。噂じゃなくて本当だから広まる」
鞠子と美智の激しい言い争いが続いていたが、ふいに美智は言葉を途切れさせた。なぜなら振り上げた鞠子の手が美智の横っ面を叩いたからだ。ざわめいていた空間が乾いた音が響き渡った途端にしんと静まる。驚きに目を見開いた美智は口を引き結びいまにも泣き出しそうな表情を浮かべた。
「泣くな! あんたが泣いていい場面じゃない。あんな嘘をばらまかれた相手の気持ちがあんたにはわかる? 人は傷つくんだよ! 力で打たれなくたって、心に傷がつくの! あんたはそれをわかってない。他人の人生に責任を持てないくせに大きな顔をするな!」
突きつけるような鞠子の言葉に、この場にいる全員が黙り込んだ。ピリッと緊張をまとったような空気に、みんなそこから動き出せずにいる。けれどそんな中で雪羽は鞠子に向かい足を踏み出す。
「姉ちゃん、もうそこまでしな」
「雪羽」
「ったく、無茶するなぁ。人に手を上げたら駄目だろ」
近づく気配を察した鞠子は弾かれたように振り返り、雪羽の姿を認めると飛びつく勢いで抱きついた。背の高い鞠子にすっぽりと抱きしめられ、雪羽は苦笑いを浮かべながら華奢な背中を叩く。何度もあやすように叩いて、鼻をぐずつかせた姉を強く抱きしめた。
「雪羽が傷つけられるのが許せない。あんなやつ別れちゃいなよ」
「姉ちゃんの頼みでもそれは聞けない。俺は男が好きなわけじゃない。だけど、日向がいいって思ったんだ。この感情にだけは嘘がつけない。だから俺は誰になんて言われたって構わないよ。好きとか、愛してるってそういうことだろ?」
「馬鹿ね、格好いいこと言ったって駄目なんだから。……ああ、もう! 葛原日向! あんたはこの先、雪羽を守れる自信はあるの!」
誇らしげな雪羽の言葉に小さく笑った鞠子は、すっと息を吸い込むと顔を上げてまっすぐ前を見据えた。その視線の先には二人をじっと見つめている日向の姿がある。いつもより神妙な面持ちをする日向は鞠子の言葉を受け止めて、ゆっくりと雪羽に向けて手を差し伸ばした。
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