第10話 黒い外猫、飼いました?

 早く自分のものに――最後の一言が希壱の最大の願いだったのだろう。
 あの晩から、わかりやすいアプローチが増えてきた。

 一真が忙しくて時間を作れないと、ちゃっかり家にやって来ては泊まっていく。

「俺は外猫を飼った覚えは全然ねぇんだけどなぁ」

 部屋にインターフォンの音が鳴り響き、一真は仕方なしに玄関扉を開けた。そこにはにこやかに笑う希壱の姿。
 仕事を終え、帰宅した約三十分後の出来事だ。

「一真さんの邪魔はしない。大人しくしてるから、部屋のオブジェだと思って」

「それにしちゃデカいな」

 夕刻に希壱から電話が来て、泊まりに行ってもいいかと聞かれるのが、最近のお決まりパターン。
 一真はいい加減、このままでは駄目だと断るつもりでいるのだが、文字ではなく声なのが確信犯だ。

 希壱に甘えねだられると、どうしてか一真は最終的に頷く結果になる。文字だけならおそらく悩むが断れるだろう。

 それなのに必ず電話をかけてくるのは、一真が自分に弱いと理解しているからだ。
 本当にずる賢い猫で非常に困っていた。

「今日は電話で言ったとおり、晩ご飯を用意してきた。兄さんに教えてもらって練習したよ。一真さんの好きなもの」

 そろそろ断られるかも、と危惧したらしい希壱は、ついに一真の目の前に餌をぶら下げ始めた。
 一真は一人暮らしなので料理ができる。

 できるが、疲れていると出来合いの食事が多くなるのは、必然でもある。
 そこで口に合う料理をぶら下げられると――まんまと招き入れてしまうのだ。

(意志が弱すぎんだろ、俺)

 ご機嫌で「お邪魔しまーす」と部屋に上がる希壱を見ながら、一真は思わず壁にもたれ額を押さえる。
 完全に期待させてしまっている状況下。

 答えを伸ばし伸ばしにしていても、いつか自分のものになると、ほぼ確信されているのがわかる。
 まったく断る隙を与えてくれない。

 こんな中途半端な関係、もうやめよう。
 言葉にすることすら、希壱は許してくれず、結局は最後まで言えずに飲み込まされる。

「ある意味、最強に執着心が強ぇよな」

「ん? なに?」

 キッチンで料理を温め直し、皿に盛っていた希壱に独り言が届いたらしく、きょとんとした表情で顔を上げた。
 黙っていると純粋、素直、従順で大人しそうな雰囲気。

 蓋を開けてみれば、執着心バリバリの男だった。
 以前好きだった相手も、好意を寄せていた期間が長かったようなので、気がものすごく長く、そうそう諦めないのだ。

(さて、どうするべきか)

 希壱の存在は一真にとって、友人の弟であるが、彼が十代前半の頃に会っているため、自身の弟のようにも感じていた。

 だからと言って二十歳を過ぎた、これから社会人になる男へ対し、弟のようで――なんて言い訳は通じない。
 さすがにそこは一真も理解している。

 すでにキスをしたり、体に触れることを許したりしている、その時点で希壱は恋人として一真の範囲内。
 であるものの、踏ん切りがつかないのは心の癖だろう。

 もう十年くらい、一真は決まった相手がいなかった。ブランクが空きすぎて、誰かと恋愛する自分を想像できない。
 さらには他人に心を預ける、勇気が持てないのだ。

 我ながら面倒くさい性格だ、と一真も思っていた。しかし人の心はそう簡単に、スイッチがオンオフできるわけではない。

「一真さんは和食が好きなんだね」

「なんでも食うけどな」

「和食は作るのに時間がかかるもんね。今日は定番の肉じゃが、きんぴら、酢の物と大根と油揚げの味噌汁」

「どれもすげぇ具がデカいな」

「まあ、でも味は保証する」

 ダイニングテーブルに並んだ皿の上で、ゴロゴロとした具が存在を主張していた。

 苦笑いする希壱だけれど、小さく丁寧に作られたのもいいが、これはこれで食べ応えがありそうである。

 三島家の主夫であった弥彦直伝なら、味は間違いないだろう。
 肝心の白米は常日頃、一真が冷凍保存してあるものでまかなった。

「そういや来月、入社式だよな」

「うん。緊張するけど、何人か知り合いが就職してるから、いくらか平気」

「お前の性格なら、大抵の人が優しくしてくれそうだけどな」

 四月になれば希壱も新社会人。いっぱしの大人に仲間入りをする。

 スポーツ用品を扱う会社で、企画開発部に配属されたようだ。
 社風は明るくホワイトなので、ほぼ定時退社が約束されている。勤務時間が不規則な一真は少々羨ましい。

「仕事が始まったら、あんまり一真さんに会えないかな? 学校も新学期で慌ただしいもんね」

「春はどこもそんなもんだ。来期もクラスを持たない分、マシだ」

 いただきます、と二人で両手を合わせてから始まる、のんびりとした食事の時間。
 最近とみに増えた光景だ。

「だるいと思いながらも、一真さんは人助けしちゃうから心配。面倒見が良すぎるくらいだし、無理しないでね」

「俺が過多な面倒見だと知ってるなら、上手いことのっかるなよ」

「あはは、一真さんの人の良さにつけ込んで、毎日のように来ちゃってごめんね」

「笑って誤魔化しやがって」

(飯がうまいからいまは許してやるが)

 ゴロゴロ野菜の肉じゃがは、丁度いい具合に味が染み込み、ご飯のお供に最適だった。

 味の参考は弥彦のものだろうけれど、微妙なさじ加減が違っている。
 そのへんが妙に一真の口に合った。

「ねぇ、一真さん」

「…………」

 黙々と食事をしていると、ふいにかけられる声。ほかの者が聞けば、いつもとさして違わないように感じる声音だ。
 しかし一真はそこに含まれた独特の雰囲気を感じ取る。

 希壱がなにかねだるときに出す、イントネーションとでも言えばいいのか。

「希壱」

「今日も泊まっていったら駄目、かな?」

「お前、下心満載だろう?」

「今日は大人しくする」

「それが守れる確率は?」

「んー」

 一真の問いに明後日の方向を向きながら、希壱は曖昧な声を出す。
 ここのところ毎回泊まっていく、のはまだいいのだが――あの日以来、なんだかんだと一真を言いくるめ、希壱はベッドに入るとのしかかってくる。

 無理やり体を暴くような真似はしないけれど、前回と同じ展開になっていた。
 本気で嫌ならば殴り飛ばしたらいい。

 そうはいかないのが男の悲しいさがか。疲れていると出すものを出したくなる。
 自分では面倒で寝入るところだけれど、希壱が勝手に気持ち良くしてくれるのだ。

(意志の脆弱な自分が恨めしい)

 本当にこのままだと、大人としてだけでなく、人として駄目ではないかと思えた。眉間を指先で揉んで、一真は息をつく。

 目の前の男は自分を落とす気満々なのに、少しグラグラしながらも、はっきりと決断しない状態。
 いつぞやの〝キープ〟という言葉が一真の脳裏をかすめた。

 とはいえそんな一真の心境を察していながら、希壱の眼差しは相変わらず断るのを許そうとしない。

 そうだ――断られたくない。ではなく、許そうとしないのだ。
 イエスでもノーでも、なんて言っていた希壱だが、いまは一真にノーを言わせる気がまるでない。

 まさしく獲物として、標的を定められたと言っていい。

(これで俺にもう好きな相手がいた、とかなら諦めるんだろうな。特定の相手がいないから一歩も引かない)

 よそ見をさせる気はない、と言わんばかりだった。

「一真さん?」

「で、答えは出たか?」

「はぐらかされた。んー、そうだな。一真さん次第かなぁ?」

「お前のほうがはぐらかしてんだろ」

「一真さんが優しすぎて、俺、ずるい男になっちゃうんだよな」

(自覚あるのがタチ悪い)

 一緒に過ごす時間が増えて、見た目だけではわからなかった希壱の性格が、徐々にあらわになってきた。

 性格が悪いのではなく、タチが悪い。
 小憎たらしい台詞を言いながらも、相手に悪印象を与えない笑顔と雰囲気で、一真を絡め取ってくる。

「希壱、お前さ。……いままでの相手にもこんなだったのか?」

「お友達でって言われた人たち? してないよ。一真さんだから、こうして図々しいくらいアプローチしてるんだよ」

「図々しさに自覚があったのか」

「あるよ。普通の人だったら速攻で縁を切られそう。一真さん、優しくて格好良くて、可愛くて大好き」

 ふふふっと笑いながら、もぐもぐときんぴらと白米を咀嚼する希壱に、一真は盛大なため息を吐いた。

「答えがわかってるみたいに、人の家に荷物増やしやがって」

 料理のほかにも携えられていた荷物は、ちゃっかりクローゼットに先ほど収められた。

 イエスかノーか。どちらに答えを出すかなど、もう一真もわかりきっていた。
 ただ、いま答えを出してしまっては、負けた気になってしまい、ずるずると後回しになる。

 なんの勝負だ――いつかも自分に突っ込んだ台詞を心で呟きながら、一真は黙って箸を動かした。

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