両手にビニール袋を提げてこちらを見ているその人物は、高校時代クラスメイトだった神楽坂だ。彼は驚いた顔をしながらこちらに近づいてくる。そして傍にやってくると俺たちの顔をマジマジと見ながら少しぽかんとした。
「神楽坂こそ、なんでここにいるんだ?」
目を瞬かせながら状況把握しようとしている神楽坂に、佐樹さんは小さく首を傾げてみせる。その仕草にようやく我に返ったのか、彼は少し落ち着きを取り戻したように息をついた。
「え? ミナトの店だから」
「ん? どういうことだ?」
佐樹さんの問いかけに神楽坂は少し要領を得ない言葉を返す。その言葉に首を傾げれば、鏡のように首を傾げてみせる。しばらくそのままお互い疑問符を浮かべていたが、ようやく足りない言葉に気がついたのか、神楽坂は「あっ」と声を上げた。
「ああ、ニッシーごめんごめん。ミナトは俺の兄ちゃんだ」
「え! ミナトと神楽坂って兄弟なのか?」
「うん、そう。今日は彼氏が寝込んでるからって借り出されたんだよ。俺もせっかくの休みだったんだけどさ」
肩をすくめて笑った神楽坂に俺たちは驚きのあまり声が出ない。こんなに世間というものは狭かったのだろうか。赴いた先で偶然に知り合いに会う確率などそんなに高くはないはずだ。
それなのに出会うばかりではなく、出会ったところが全部繋がっているだなんて。思わず佐樹さんを見つめてしまった。この人はどれだけ人の縁を引き寄せているんだろう。
「それにしても、二人とも相変わらず仲が良さそうでなによりだ。藤様が海外に行くって聞いた時はどうなるのかと思ってたけど。心配とか全然いらなかったな」
「あ、ああ、うん。おかげさまで」
あっけらかんと笑う神楽坂に佐樹さんは少し照れくさそうに笑みを返す。俺たちが付き合い始めた時から彼はそれに気がついていたようだった。遠回しにからかわれることは多かったが、それでもいつも見守るような眼差しで俺たちを見ていた。
卒業前に一度だけ、大丈夫なのか? と聞かれたのをいまも覚えている。その言葉に返事は返さなかったけど、俺の目を見つめて神楽坂は黙って肩を叩いた。
「神楽坂はいまなんの仕事してるんだっけ?」
「俺? 旅行会社で添乗員。たまにガイドもするよ」
「へぇ、そうなんだ。お前がガイドしてくれたら楽しそうだな」
「そう? ニッシーも機会があればうちにおいでよ。いいツアー案内するからさ」
人との付き合いもうまくて、細かい気遣いができる神楽坂にはうってつけの仕事だと思う。その仕事に就くことはなんとなくクラスで耳にはしていた。
いろんな場所に行けて、いろんなことを知ることができるのがいいのだと言っていた気がする。一つの場所にとどまることなくあちこち飛び回るほうが性に合うのだろう。
「お待たせー! って倖大、帰ってたの?」
なんとなくほっと和んだ空間に、のんびりとしたミナトの声が響く。しかし顔を見せた兄にさっきまで笑っていた神楽坂がムッと顔をしかめる。
「ミナト駄目じゃん。酒屋のおっちゃんあれは頼まれてなかったって言ってたぞ」
「えー? そうだった?」
「えー、じゃねぇし。貴也がいないとてんで駄目かよ。しっかりしろよな。何年やってんだよ」
目を瞬かせて小さく首を傾げたミナトは、睨むように目を細めた神楽坂に肩をすくめる。目の前にある顔はまったく悪びれた様子がなく、弟は大げさなほどため息をついた。
「ごめんごめん。あとで酒屋に電話するよ」
「もうおっちゃんに話し付けてきた」
「あー、そうなの? さすが倖大! 仕事が速いなぁ」
のほほんとのんきに笑ったミナトに再びため息を吐き出した神楽坂は、諦めたような顔をしてカウンターの中へ入った。そして手にした荷物を押しつけると、「着替える」と言って奥に引っ込んでしまった。
「ミナトと神楽坂が兄弟だったなんて驚きだ」
「あれ? 弟が西岡さんの高校に通ってたって言ってなかった?」
「うん、初耳」
「そっか。まあ、最近はよく会うようになったけど、あの子が学校通ってた頃はちょっと疎遠だったんだよね」
少し考えるような仕草で遠くを見たミナトは小さく肩をすくめて笑った。そういえば昔、聞いたことがある。彼は自分の性癖のせいで親と揉めて、高校卒業と同時に家を飛び出した。
けれど家に残してきた弟は人の感情に敏感で、繊細なところがあるから心配だと。自分と親との板挟みになってしまわないだろうかとこぼしていた。素直で可愛くてすごくいい子なんだとよく言っていた。
全然我がままを言ってくれないから、とことん甘やかすのが好きなんだとも。本当に弟が大事で仕方ないんだろうなと、傍目からでもわかるくらいだった。
「でも久しぶりに会ったらちょっとふてぶてしくなってた。いつの間にか大人になっててびっくりしちゃった」
「そうだよな。僕も久しぶりに会って随分大人になったんだなって感じたよ。神楽坂の高校時代はほんと明るくて、良いムードメーカーだったし。すごく気が利いて優しいやつだったよ」
「ふぅん、そうなんだ。今度ゆっくり話を聞かせてね」
小さく口を尖らせていたミナトだったが、佐樹さんの言葉にふっと目を細めて至極嬉しそうな顔をした。大人になってしまった弟になんとなく距離を感じていたのかもしれない。
思春期の頃に離れてしまうとお互いに少し余所余所しくなり、コミュニケーションの取り方がわからなくなってしまうことがある。
それでもこうしてミナトの手伝いをしに来るくらいだから、文句を言ってても神楽坂の中ではミナトが兄であることに変わりはないはずだ。
「あ、そうだ。これこれ。今日はわざわざ来てくれてありがとう。西岡さん、誕生日おめでとう」
「うん、こっちこそ気を使ってもらって悪いな。ありがとう」
しばらく二人で顔を見合わせて笑っていたが、ふと思い出したようにミナトは小さな箱を佐樹さんに差し出した。片手のひらより少し大きいくらいのリボンがかけられたそれは、言葉通り彼への誕生日プレゼントなのだろう。
誕生日自体は二日前の三十日だったが、当日に渡すのを避けたのは俺の予定をおもんばかってのことなのかもしれない。
「なんでかこれがいいって思ったんだけど。やっぱり俺の直感は間違いじゃなかったかも。たぶんきっとすぐ必要になるよ」
「すぐに必要になるもの?」
「うん、きっとすぐだよ」
意味深な言葉に佐樹さんは不思議そうに首を傾げる。けれどミナトはニヤニヤとしながらちらりとこちらに視線を向けた。俺は楽しげな色を見せるその視線の意味を悟ったが、あえて気づかぬふりをしてその目から逃れるように目線をそらす。
疎い佐樹さんは気がつかないことだが、見るものが見れば気づくことだ。
「家に帰ったら開けてよ」
「ああ、うん。わかった」
機嫌良さそうな笑みを浮かべるミナトに戸惑ってはいるが、小さく頷いて佐樹さんは小さな箱を鞄の中にしまう。そしてそれが見えなくなると俺は思わずほっと息をついていた。
「そういえば、今日は水曜日だからユウはお店がお休みだったんだよね。俺、うっかりしてた。二人で過ごせる貴重な日だったね。曜日をずらせば良かった」
「あー、うん、まあ、でも」
「俺の予定は急に思いついたので、佐樹さんがそんな顔しなくていいですよ。ミナトのほうが先約でしょう」
申し訳なさそうな顔をするミナトに、佐樹さんは困った表情でこちらをちらりと見上げる。少し不安げな眼差しを向けてくる彼に、そっと手を伸ばしてなだめるように髪を梳いて撫でてあげた。
すると驚いたように目を瞬かせ、ほんのり頬を赤らめる。その表情に笑みを返せば、彼は小さく頷いて目を伏せた。
「あはは、西岡さん相手だとユウもそんなに甘々になるんだ。なんかいいね。今日は二人でご飯でも食べに行くの?」
「ああ、うん。食べに連れて行ってくれるって」
「そうなんだ。楽しみだね」
やんわりと微笑んだミナトは昔の面影はあるけど、なんだか別人のようにも見える。あの頃はこんなに穏やかに笑う印象はなかった。それだけ時間が過ぎたのかと、不思議な気持ちになる。
まさか佐樹さんとミナトが笑い合っている姿を見る日が来るなんて、当時の俺には思いも寄らないことだ。それどころかあの時の自分をなかったことにしたいとさえ思っていた。
いい加減な付き合い方をしていたわけではないが、佐樹さんに語れるような過去ではないし、知って欲しいとも思えない。でもいまこうして二人が笑っているのを見ると、それも過ぎたことなのだと言われているような気になる。それともそれは俺の思い込みだろうか。
「二人とも時間は大丈夫?」
「優哉、予約してるか?」
「ええ、まだ時間に余裕はありますけど、行きますか?」
「そうだな。じゃあ、行こうか」
俺の言葉に佐樹さんは少し考える素振りを見せたが、すぐに笑みを浮かべて頷いた。ゆっくりと立ち上がった彼に続いて席を立てば、ちょうど神楽坂も戻ってきた。そして俺たちを見るとにんまりと笑みを浮かべる。
「ニッシー、藤様またね。これ俺の連絡先だから、藤様に渡しとく。今度ご飯でも食べに行こう」
「ああ、あとで連絡する」
「ミナトと二人の昔話についてはあとで聞いておくから」
「聞かなくていい」
からかうように目を細めた神楽坂に顔をしかめると、楽しげに声を上げて笑われた。余計な詮索をしてくるやつではないが、昔のことを他の誰かに聞かれるのはやっぱり居心地が悪い。
ミナトに視線を向ければ満面の笑みを返された。その笑みの真意は測りかねるけど、余計なお喋りをするやつではない。ここは信用してもいいだろう。
「西岡さん」
「ん?」
「ユウを連れてきてくれてありがとね。びっくりしたけど俺、嬉しかったよ。西岡さんに信用してもらえてるのかなって」
「今度はさ、貴也も誘って優哉の店に行こうか」
至極優しく笑った佐樹さんにミナトは嬉しそうに頷いた。その顔を満足げに見つめ、ふいに彼はこちらを見上げる。そしてその視線に小さく首を傾げれば、俺の腕をとって足を踏み出した。
「じゃあ、またな」
「二人ともまたね!」
カウンターの向こう側にいる二人に目配せしながら、腕を引かれるままに店をあとにする。隣を歩く佐樹さんを何気なく見つめれば、振り向いた視線がこちらを向いてやんわりと笑みを浮かべた。
「佐樹さん、もしかしてミナトから俺のこと色々と聞いていますか?」
店を出てしばらくしてから、ふと気になったことを問いかけてみた。その問いに彼は少し目を瞬かせ、視線を遠くに向ける。
「あー、うん。昔の話はちょこちょこと。でもそんなに詳しくは聞いてないぞ。聞くのは優哉がいかにいい男だったかって話」
「嫌な思いはしなかった?」
「うーん、そうだなぁ。嫌な感じはなかった。ただ、僕の知らないお前がいるのがちょっと寂しかったかなぁって」
思案するような仕草を見せた彼は、じっと見つめる俺を見て弱々しい笑みを浮かべた。その表情を見て少しばかり胸が痛んだけど、この人も俺と同じ感情を持っているんだと思うと、なんだかほっとしてしまう。
「俺もずっと同じこと思っていましたよ。俺の知らない佐樹さんがいるのがもどかしくて、悔しくて。その隙間を埋めたくて必死だった」
「そっか、僕たちはやっぱり似た者同士だな」
「そうですね」
俺たちは出会ってからいままで、離れている時間が長かった。お互いに知らない時間を過ごしてきて、埋められない隙間がたくさんある。それでも心の中にはいつでも彼がいて、思い馳せることで心の均衡は保たれてきた。
「でもいまはこうして一緒にいられるから、前よりはそう思うことは減りました」
「うん、そうだな。……できればもう、あんまり離れたくないな」
腕に絡んでいた手が離れ、その手はゆるりと伸ばされて俺の手を握る。呟かれた言葉の想いを表すように強く握られて、思わず立ち止まり並び立つ身体を抱きしめてしまった。少し驚いた表情が見えたけど、腕の中の彼は肩口にすり寄るように頬を寄せる。
そのぬくもりに胸が苦しくなった。離れてからいままでずっと、彼は心の中にある気持ちを言葉にすることはなかった。それどころか彼のことを憂う俺に大丈夫、気にするなと言って笑う。
そんな無理をさせるくらいなら、一人にしてしまう前にちゃんと彼の言葉を聞いてあげれば良かった。もっとたくさん我がままを言わせてあげれば良かった。いまさらそんな後悔が押し寄せて、しばらく抱きしめた身体を離すことができなかった。
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