接近02
しばらく駅前をふらりと歩き、結局手近のカフェに入ることにした。
店内はそれほど混みあってもなくほっとする。正直騒がしい場所はあまり好きではない。店の奥へ案内され、水とメニューを置いて去っていった店員の背中を見送っていると、藤堂はなぜか僕の目の前に置かれたそのメニューを指先で軽く叩いた。
「な、なんだ?」
その仕草の意味がわからず首を傾げれば、藤堂は少し目を細めてこちらをじっと見る。
「いま、とりあえず珈琲でって思ったでしょう?」
いささか呆れた口調の藤堂がそう言った瞬間、口に含んだ水があらぬ場所に入り僕は盛大にむせた。
「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ、ぶ、だ」
焦ったように立ち上がりかけた藤堂を制して、咳き込みながら何度も頷いて見せると、藤堂は眉を寄せながら渋々といった様子で座り直した。
「その様子だと図星ですね」
「う、まだあまり腹が減ってないんだよな」
「朝は食べました?」
「いや、朝は食べない」
藤堂の視線に目をさ迷わせると、ふいにテーブルに置いていた手の上に藤堂の手が重なる。反射的にその手を引こうと力を込めたが、それを押さえ込むようにぎゅっと握られた。
「偏食な上に不規則過ぎるんですよ。着太りするタイプみたいですけど、結構痩せてますよ」
「か、家系だ。うちの家系なんだよ、痩せてんのは」
「だとしてもこのあいだ、抱きしめた時はさすがにちょっとびっくりしました。見た目以上に華奢で折れるかと思いました」
なに気なくさらりと言った藤堂の言葉で一瞬にして顔に熱が集中する。そしてあの日の夜、藤堂に抱きしめられたんだということを鮮明に思い出し、さらに頭がくらりとした。
「い、いくらなんでも折れるわけないだろ。一応気にしてるんだからそれ以上は言うな」
ため息交じりの藤堂をひと睨みして、いまだ握られている手を強く引く。
「いい加減、手を離せ」
触れられている自分の手のひらが変に汗ばんで気持ち悪い。明らかに顔を赤くさせているだろう僕に対し、すみませんと呟き藤堂はゆっくりと手を離した。
「低燃費もいいですけど、食べる癖はつけたほうがいいですよ。先生の場合、多分きっと身体がお腹が空く感覚を忘れてるんですよ」
心配そうな藤堂の声が聞こえるが、もはや僕の耳には届いていない。正直いまは緊張で固まり過ぎて身体が痛い。自由になった手をとっさに引いて、僕は顔を両手で覆い大きく息を吐き出した。
「怒ってます?」
「怒ってない。ただ藤堂のは色々と直球過ぎて、年寄りにはちょっとハードルが高過ぎる」
藤堂はなにもかもが変化球もなくストレート過ぎる。確かに下手にあれこれ根回しされても、それはそれで困るのだが。それでもそういう工作をされれば、ちょっとはかわす余裕が生まれそうなものだ。
けれど彼はその隙さえ与えないくらい――直球だ。そしてそれに対しての免疫が残念ながら僕にはない。そう、これまでの人生の中でここまでまっすぐ熱烈に、誰かに好かれたことが一度もない。
「迷惑ってことですか?」
頭を抱えたまま顔を落とした僕に藤堂の気配が強張るのを感じた。こちらの様子を窺うような声に慌てて僕は顔を上げる。
「そうじゃなくて、その、なんて言うか……いや、わかる。自分も若い頃はそうだったと思うし、うん、勢いがあったと言うか。ああ、そういう話じゃなくて」
言いたいことがまとまらず勢い任せに髪を両手でかき乱すと、藤堂が微かに息を吐いた。
「頭ではわかってはいるんです。でも、一分でも一秒でも長く傍にいたいですし、俺のこと知って欲しい」
徐々に小さくなっていく藤堂の声になぜか罪悪感を覚える。けれど叱られた子供みたいなその表情が、ほんの少し情けなくて可愛いと思ってしまった。
だけど――。
「正直に言えば、ずっとあなたに触れていたいです」
ちょっと可愛いなんて思った瞬間、仔羊は狼に変わった。
「そ、それは、なんて言うか、心臓に悪い」
再び藤堂の言葉にカウンターパンチを食らい、僕はまたがっくりと頭を垂れ俯いた。
「……これからは、なるべく気をつけます」
「ん、そうしてもらえると助かる」
早過ぎる鼓動に戸惑いながら僕はメニューを開いた。しかしランチメニューは肉に魚にパスタと、選り取りみどりで悩ましかった。そしてさんざん悩みに悩み抜いた結果、頼んだのは魚がメインのランチだ。それはサラダやスープもついて非常にボリュームがある。きっと自分一人だったら食べきれる自信がなく、それを頼むことはなかっただろう。
「お待たせしました」
そしてしばらくして運ばれてきたランチは予想以上で、ボリュームもさることながら、料理自体がかなり美味しかった。けれどいまは一口目の感動よりもとにかく恥ずかしさが先に出て、喉を通るものも味がわからなくなりそうな状況だった。
「そんなに人の顔見てて楽しいか?」
頬杖をつきながら微笑んでいる藤堂を訝しげな目で見ると、それに反して彼はますます頬を緩めて幸せそうに笑う。料理を注文し、それが運ばれてくるそのあいだずっと、藤堂は僕をじっと見つめていた。そしていざ食事を始めると、時折ふっと手を止めて藤堂はまた僕を見つめる。
「可愛いな、と思って」
そしてあ然とする僕などお構いなしに、藤堂は笑みを深くする。
「そう思うのはお前くらいだ」
お前の目は節穴かと、突っ込んでやりたいのは山々だけれど、また嬉々としてなにを言われるかわかったものではない。これからは気をつけますと言っていた割に、藤堂は相変わらず直球で、まったく気をつけてくれている気配はない。というよりもこれは気をつけようがないのではないか?
おそらくこの藤堂の一挙一動はわざとではないのだと思う。きっとただ素直に感想を口にし、行動をしているのだろう。でもふとした疑問も浮かぶ。
「いや、計算なのか?」
「なにがですか?」
小さな僕の独り言に藤堂が不思議そうに首を傾げる。その表情から真意は読み取れない。
「いや、なんでもない」
藤堂は頭がいい。もしかしたらうまい具合に翻弄されているだけなのかもしれない。けれどそれもまたどこか寂しくも思えた。
「本当に?」
「あ、ああ」
我ながら直球で来られ過ぎても困る、計算だったら寂しいなど我がままにもほどがある。
どちらにせよ。この先も心臓には大きく負担がかかるということなのか。心臓に毛が生えるくらいの豪胆さが欲しい。しみじみそう思いながら、僕は藤堂に気づかれないくらいの小さなため息をついた。
「この際どっちでもいいか」
藤堂が笑っているのを見るのは正直、嫌いじゃない。
「やっぱり言った通りだったでしょ? 食べ物を前にすればちゃんとお腹が空くって」
「ん、まあ、確かに」
注文の前、メニューをパタパタと閉じては開きを繰り返していた僕に、とりあえずなんでもいいから頼んでみろと藤堂は目を細めた。
そしていま、悔しいことに運ばれてきたランチはほぼ完食しかけている。
「それに一人より二人で食べたほうが美味しいですよ」
「……なんか、餌づけされてる気がする」
「ほんとにしてあげましょうか?」
「それは遠慮させてくれ」
くるりとフォークに巻かれたパスタの先をこちらに向けて笑う藤堂に、僕は迷うことなく丁重にお断りさせて頂いた。そしてそんな僕に藤堂は不服そうな表情を浮かべ、それを自分の口へと運んだ。