彼とはほんの少し話をしただけ。だからそんな風に思うには違和感がある。けれど彼のことを思うと、なぜか懐かしい気持ちになる。
「なんで、だ?」
不可解な感情に振り回されるような感覚。ここしばらく感情に大きな波がなかったので、余計にもどかしい。そして――ふいに思い出す。彼女と一緒にいることがとても楽だったこと、彼女は僕の足りない部分を補い、いつだって先回りして考えてくれていた。
「でも……そう思うのは、ものすごい引きずってるみたいで情けないな」
随分と時間が経って、気持ちの整理はついたつもりでいたのに、ほんの少し端っこを引っ張っただけで、記憶が芋づる式もいいところだ。
「しかも彼とみのりは似てないのに、なんでここで記憶がごっちゃになってるんだ」
また会えばわかるだろうか。いや、考えるのはよそう。いまはきっと人恋しいだけで、寒さが和らげばこんな記憶もいつか消えて行く。
「おい、佐ー樹! なにブツブツ言ってんだよ。そんなに具合わりぃの? ほれ、いま鳴ったろ。熱、何度」
「明良?」
ぼんやり眺めていた天井がふいに遮られ、目を瞬かせると、目の前の顔が呆れ返ったように歪んだ。
「疑問系で呼ぶな、まったく。何日寝込んでんだよ。だからお前は一人暮らし向かないって言ってんだろ」
戸惑っている僕をよそに、明良は手慣れた様子で首元へ腕を差し入れて、温くなっていたものを冷たい氷枕と交換する。
「いつ来たんだ」
「さっき、声かけただろ。覚えてねぇの?」
眉をひそめた僕の額の汗を拭いて冷却剤を貼れば、明良は差し出した体温計を摘み上げて大きなため息を吐いた。
「……七度九分ね。まだ熱ちょっとあんな」
「結構下がったぞ」
あの日、熱を測ったら八度を超え、いまにも九度を過ぎようかというほどだった。
「偉そうに言うな」
しかし明良には思いきり顔をしかめられ、無理やり布団を顎まで引き上げられた。
「お前、仕事は?」
「抜けてきた。時子ちゃんが佐樹と連絡がつかないから、なにかあったんじゃないかってさ、電話をもらったんだよ」
「母さん? わざわざ明良に電話したのかあの人」
明良の声にぼんやり耳を傾けながら、ふと母親である時子の誕生日に連絡し損ねたことを思い出す。寝込んで恐らく今日で三日目。今朝の職場連絡以外、ひたすら寝ていたので携帯電話も家の電話も、鳴っていたのに気づかなかった。
「鍵、合い鍵を使った?」
「ああ、緊急事態かもしれないからそれ使って入ってくれって。実家のほうはいま雪ですげぇらしいぜ。出んの大変だよな、あそこ田舎だしよ」
「そうなのか」
あそこは本当に雪が積もると身動きが取れなくなる。慌てふためいて皆で雪掻きしている姿が目に浮かぶ。
「休んでるあいだになんか食った? いまキッチンを借りてるから、それ食って薬飲めよ」
「ああ、悪いな。明良も忙しいだろう」
「心配すんな、俺の代わりはあそこには腐るほどいる」
そう言って僕の額を軽く何度か手のひらで叩き、明良は部屋を出て行く。その後ろ姿を見送り、なに気なく顔を上げて時計を確認すると、十五時過ぎだった。茹だる頭で数えている日にちが間違いでなければ、今日は月曜日のはずだ。
「休み関係なく忙しい癖に」
普段から適当且つ大雑把な明良だが、あれでも職場では統括の主任で、下に部下がいる立場だ。元々器用で立ち回りが上手い彼だから特別それに驚きはしないが、役どころに相応しく忙しい身の上なのも知っている。
母にあとで釘をさしておかなければ。
「明良といい渉さんといい、甘やかされてるな自分」
「渉がなんだって?」
「え、いや」
片手にお盆を持った明良が眉をひそめて戻って来た。身体を起こし首を振れば、訝しげに目を細められる。あの日会ったことは明良には内緒だった。
「あいつとなんかあった? いっつもだけど、ここ二、三日くらい佐樹、佐樹ってうるせぇの。やたら連絡を取りたがってんだよな」
大きなため息を吐きながら、明良はベッド脇のテーブルを寄せ、手にしたお盆を乗せた。けれどこちらを窺う視線をじっと見つめ返せば、不思議そうに彼は首を傾げる。
「なんだよ」
「別になにもないけど。連絡が来てたなら教えろよ。って言うより、渉さんに連絡先を教えてくれればいいのに」
あの晩、僕が風邪を引いたことにすぐ気がついた渉さんは、わざわざタクシーで家まで送ってくれた。けれど家に上がることは明良に禁止されていたらしく、玄関先で何度も謝られた記憶が――微かにある。
あの時はだいぶ意識が朦朧としていたので、彼には随分と迷惑をかけてしまったはずだ。
「あいつはロクな用じゃないからいいんだよ。それより食え」
「またお前は、すぐそうやって渉さんを粗野に扱う。なんでそんなに扱いひどいんだよ」
ムッとした僕に肩をすくめ手近な椅子に腰かけると、明良はテーブルに置いていた椀を僕に差し出した。湯気立つ玉子粥からは、鰹節と梅干しのいい香りがした。
「いいんだって、あいつは下心ありありなんだから」
「なんだよ、その下心って」
「んなことより、早く食え」
のらりくらりとかわされ、明良はいつも渉さんのことに関して口を開かない。彼を自分と引き合わせたのは明良なのに、最初はこんなに邪険にしていなかったはずなのに。いつの間にかあまり僕と渉さんを引き合わせないようになった。まったく意味がわからない。
「なんでそんなに仲が悪いんだよ」
「俺らは最初から相性よくねぇの。それに俺を嫌ってんのは向こうだし」
「最初にお前がなにかしたんじゃないのか? 確かに渉さん好き嫌いはっきりしてるけど、あんまり根に持つタイプじゃないと思うけど」
嫌いというより、普段の渉さんは明良を極力避けている風にも感じられる。じとりと睨めばふいと顔をそらして明良は口をつぐんだ。
「……今度、渉さんから連絡が来たら繋げよ」
「わかったよ、あいつのことはもういいだろ。それよりとっとと風邪を治せよ」
「わかってる」
顔をしかめた明良の言葉に口を尖らせるが、額を何度も叩かれ口ごもるしか出来ない。
「面倒かけて悪いな」
「まったくだぜ。お陰でうちのからメールがひっきりなしだ」
「あ、あー、そっか。それはますます悪い」
苦笑いを浮かべて明良が開いた携帯電話を見れば、ずらりと同じ相手からのメールが並んでいた。長続きしない明良がいまの相手と付き合って半年ほどになるが、相変わらず僕は彼に目の敵にされている。それだけ明良が好きなのだろうけど、自分と明良の距離感は昔からこんな感じだ。
それにいままでの子たちはいくら僕と明良が親しくても、友人と恋人の定義を割り切っていた。なので最初はその反応に大いに戸惑ったものだ。
「まあ、これはこれで可愛いから気にすんな」
「ふぅん、そうか」
本当に明良は付き合い始めると人が変わる。遊ぶ相手にはすごくいい加減なのに、相手が恋人となれば途端に性格が円くなる。と言うか――とにかく甘い。
でもなぜかいつも長続きしないのだ。なので今回の彼は、随分と長いほう。
「……なぁ、やっぱり男同士って難しいか?」
「なんだよ急に」
携帯電話をいじっていた明良がふいに顔を上げて首を傾げた。
「いや、なんとなく……気になって」
訝しげな顔をする明良に思わず苦笑いを浮かべてしまった。自分でもそんなことを聞いてどうするのかと思う。
「どうだろうなぁ、あんま男と女と変わんねぇと思うけど」
「そうか」
相手が異性か同性かの違いだけで、好きの気持ちは一緒なわけだから当たり前か。
「いままで同性以外好きになったことあった?」
「……俺はないけど、そういうどっちもって奴もいる」
「へぇ、じゃあその人たちは、性別の隔たりなく、相手を好きだって思えるんだ」
だとしたら、いままで異性しか好きになったことがない人間でも、同性を好きになるなんてことはあるのだろうか。
「佐樹……お前、熱にやられた? 変なのに引っかかってないよな?」
急に怪訝な表情を浮かべ、人の顔を覗き込む明良に身体が仰け反る。
「変なのってなんだよ」
「佐樹は意外とほだされ易いからなぁ。新しく恋すんのはいいことだけど、優しくされてもすぐ信じんなよ。お前は自分で気づいてないけど、甘やかされんのに弱いから」
「……」
しみじみと語る明良に言葉が出ない。いままさに、心辺りがあり過ぎて動揺してしまった。
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