あの日は朝からひどい雨だった。いま思えば、薄暗い空と息が詰まるような湿気た空気が、さらに彼女の機嫌を損ねていたような気がする。
「みのり、どこに行くの」
玄関で見つけた後ろ姿に、訝しく思いながら声をかけると、彼女はなぜかいまにも泣きそうな顔で振り返った。
「実家に帰る。しばらく帰らないから」
「帰るって、こんな夜中に急にどうした」
物音で目が覚めた。時計を見たら、深夜の一時を過ぎたところだった。隣で寝ていたはずの彼女がいないことに気がつき、その姿を探して起きた僕は、彼女の後ろ姿をあ然として見つめた。どうして急にそんなことを思い立ったのか。寝起きの頭では理解が追いつかず、僕はわけもわからぬまま立ち尽くしてしまう。
「もう! 佐樹くんなんでそんなに暢気なの! なんにも考えてないんでしょ!」
ムッと顔をしかめる彼女に首を傾げれば、ますます不機嫌そうな表情で僕を睨む。
二、三日前からどことなく落ち着かない様子で、ずっと機嫌は悪かった。少しヒステリックになっていて、どうしてなんでと、彼女は同じことばかり繰り返し呟いていた。
「もうやだ!」
「みのり?」
でも僕は彼女の日々の急な変化に戸惑っていた。いまはどうしても不安定になりがちなものだと、そう母親たちにも言われてはいたけれど。それでも自分は彼女の変化について行くことが出来ず、正直言えば困惑ばかりだった。
「雨がひどいし、実家に戻るなら送るよ」
「……もういい。私、佐樹くんといると不安になるの。なんだか一緒にいても、時々あなたのことが見えなくなる」
「え?」
「なんで、私はあなたを好きになっちゃったんだろう。もう気持ちを疑うばかりの生活は……私、嫌なの」
「みのり?」
彼女の口から紡がれる言葉に驚き戸惑っていると、こちらをじっと見つめる瞳から涙が溢れ出した。そして唇を噛んで身を翻した彼女は、慌ただしく扉を開きその向こうへと消えた。
その時は彼女の言っている意味が僕にはまったく理解出来なかった。けれどいつも明るく笑みを絶やさない、朗らかな雰囲気を漂わせていた彼女も、頼りない僕を後ろから支えながら、大きな不安やストレスを抱えていたのだと思う。彼女はあまり不満を口にするようなタイプではなかったから、心の奥に色んなものをため込み過ぎたのかもしれない。そしてそのことに僕は気づいてあげられなかった。
あ然としたまま立ち尽くしていた僕が、我に返って彼女の背を追った時には、もう既に彼女を乗せたタクシーは走り出していた。そしてあの時の会話が、彼女の声を聞いた最後のものになる。僕は呼び出された病院で、その事実を茫然としながら聞いた。まるで悪い夢でも見ているのかと思った。
「残念ですが、奥様は先ほどお亡くなりになりました」
その言葉が頭で認識されるまでどれほどの時間を要したかわからない。立ち尽くす僕に、目の前の顔は哀れむように歪められる。震えた唇が言葉を発する頃には、なんだか喉がカラカラになって声が少し掠れてしまった。
「あの、子供は?」
「すみません」
僕の声にただひたすら頭を下げ、何度も謝り去っていった医師と看護師の後ろ姿を見つめ、やっとその意味を理解した。僕はいま、大切なものを二つ同時になくしてしまったのだということを――今頃になって理解した。
毎日二人で待ち遠しく思いながら、笑っていたのはいつのことだったろうか。もう随分と遠い日のことのようにも思えてくる。
なにが起きているのか、もうわからなくなりそうだった。足元から地面が崩れ落ちていくようで、立っているのもやっとな思いだ。
「本当に申し訳ありませんでした」
そう謝り頭を下げる自分の母の姿さえ、ひどく遠くに感じた。そして泣き腫らした目でそれを見つめるみのりの母親の顔は、いまにも倒れてしまいそうなくらい青白かった。
「もう謝らんでください。娘は事故に遭ったんです。佐樹くんやお母さんのせいじゃない」
父親はそう唸るような声で呟き、僕と母に視線を向けながら、難しい顔をして口をつぐむ。多分きっとそれしか言葉が見つからないのだろう。
なぜ、こんなことになってしまったのか。一体、僕はどこでなにを間違えたのだろう。
「さっちゃん、帰ろうか」
「……」
母の声に顔を上げれば、いつの間にか待合室はがらんとしていて、もう僕たちのほかには誰もいなかった。ぼんやりとした明かりの中、母はうな垂れる僕を静かに見つめている。
「お義父さんとお義母さん、帰った?」
「今日はもう、お帰りになったわよ」
「そう」
心配げな表情で自分を見ている母の顔に息が詰まる。こんな夜遅くに呼び出され、どんな思いでこんなところまで来たのだろうか。彼女の両親を見るなり、いまにも土下座しそうな勢いで頭を下げたその姿に、たまらなくなって涙が出た。
でも――申し訳なく思うのに、どうしてもいまはここから動ける気がしなかった。
「先に帰って、まだしばらく一人にして」
「でも」
言い募ろうとするその声を遮り、僕はゆるりと首を振った。
「家の鍵、開けっ放しかも。確認しておいてよ」
「……さっちゃん、帰ってきてね」
「うん」
その言葉にひどく胸が痛くなった。その中に含まれている意味をなんとなく悟りながら、僕は小さく頷いた。
「お母さん、おうちで待ってるね」
「……」
いまはまだなにも考えたくはない。心配そうに見られるたび、憐れまれるたび、自分がたまらなく嫌になる。どうしてもっと早く彼女の苦しみに気づいてあげられなかったんだろう。どうしてもっと早く僕は追いかけなかったんだろう。
「どうしたらよかった?」
そうどんなに問いかけても、白い布を被せられた彼女は冷たく目を閉じ、もうなにも応えてはくれなかった。今更後悔しても、なにもかもが遅過ぎた。
泣いて、泣き続けて、溢れ出るものがなくなって。もう涙が涸れてしまったんじゃないかとそう思った時、徐々になにかが音を立てて崩れていった気がする。すべてに薄い白い膜が張られたみたいで、なにもかもが遠ざかっていった。
そしてそんな僕の前に現れたのが――彼だった。
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