誰かを好きになるのは心に不思議な引力があるから。気づけば相手の心に、自分の心が惹き寄せられている、そんな感じ。でも惹き寄せられるのは一瞬なのに、その引力が失われるまでは、そこから離れることは難しい。
いつまでも繋がっていたいと想いは強く残る。
「振られたー、やっぱり好きな人がいるって」
「だから無理って言ったのに」
「だって、一年時からずっと好きな人がいるってわりに誰かと付き合ってる噂とか聞かないし」
放課後の会議室は昼間に比べて随分と賑やかだ。実行委員の人数そのものが昼の倍以上いるのだから、当たり前と言えば当たり前だが。三年と下級生が入り乱れているが、ほんの少しの学年の違いだけで、結構落ち着き具合や雰囲気は変わるものだとしみじみする。
「西岡先生、珈琲でいいですよね」
「ん、ああ、ありがと」
手を止めてざわめく室内を眺めていると、ふいに目の前に差し出された紙コップが視界を遮る。そのカップホルダーに収められた紙コップと手の先を見上げれば、笑みを浮かべた男子生徒が一人。ピンバッチの色が赤いので、一年だ。
「えーと」
「柏木です」
「そうそう柏木。最近名前を覚えるの駄目だなぁ、もう老化気味かな」
ぶつぶつ呟く僕を見下ろす柏木が小さく笑う。彼は生徒会役員なので昼間も顔をあわせているのだが、相変わらず名前が覚えられない。顔は覚えたのだが――物覚えの悪い僕が珍しく。
「俺の顔になにかついてます?」
「え、いや、別になにも」
思わずじっと見つめてしまったその視線に気がついたのか、柏木が首を傾げた。訝しげに細められたその目に僕は大きく首を左右に振った。
ちょっと雰囲気とか顔立ちが藤堂に似てるんだよな。結局、彼を覚えた理由はそんな不純極まりない理由だ。
「今日はやけに女子が騒がしいなぁ」
「ああ、ちょっとうるさいですよね。好きだ、嫌いだ、振った振られたでよくもまあ、あれだけ盛り上がれますね」
「……お前、歳のわりにクールだよな」
「そうでもないですけど?」
柏木の言う通り確かに、一喜一憂するそのテンションは少し戸惑うほどだ。しかし僕の言葉に肩をすくめて、どこか冷めたようにほかの生徒たちを見ている柏木を反応は、子供は子供らしくとも思えてしまう。これは歳を取った証拠だろうか。
「ほんとに欲しいものは、あんなに簡単に諦められるもんじゃないってことです」
「奥が深いな」
湯気立つ珈琲を啜りながら柏木を横目で盗み見れば、騒がしい生徒たちを見ている視線がもっとどこか遠くを見ている気がした。
もしかして、柏木にも誰か好きな人とかいるのか。大人っぽい顔立ちの中にもまだどこか少年らしさのある柏木は、どちらかと言えば美少年。黙っててもモテるタイプに見えるけど。
「センセ、俺にも寄越せ」
「うわ、こら! 人のもの盗るな」
突然聞こえたのんびりとした声と、ずしりと重たくなった背中に気づいた時には、手にあった紙コップはいずこかへと消えた。声がした頭上を見上げれば、にやりと笑う峰岸の姿があった。
「お前なぁ、なんでそう人を見るたびすぐのしかかる。お前は背後霊か」
「こう、思わず抱きしめたくなる背中をしてるんだよな」
そう言って背後から伸びた腕が人の身体を抱きかかえ、それと共に峰岸の顔が頬に擦り寄る。
一時触られるのにひどく抵抗があったけれど、いまはなぜかまったく気にならない。またあんなことをされるようなことがあったら話は別だが、背中に貼り付く峰岸にそんな素振りはなく、無駄にデカイ猫にじゃれつかれているような気分。
「そういえば、さっき渡り廊下で藤堂を見かけたぜ」
急に小さな声で話す峰岸に振り返りそうになる。しかし顔を寄せている峰岸に遮られてそれは叶わなかった。
「渡り廊下で?」
この学校で渡り廊下と言えば一つしかない。本校舎と僕が普段、一日の大半を過ごす教科準備室がある旧校舎とを繋ぐ廊下だ。そこを歩いていたということは、準備室へ向かっていたのだろうか。そういえば今日は水曜日だ。
「そうか、休みか」
最近バイトのシフトを、元々の固定である日曜のほかに水曜を休みにしているようで、藤堂は休みの日には必ず僕の帰りをあそこで待っている。
「休みなら放課後にも顔出せよな」
「ん? お、重!」
小さく舌打ちした峰岸に首を傾げると、背中の重みがさらに増して身体が自然と前屈みになる。なんとか力を入れて押し戻そうとするが敵わない。仕方なく手元にあったファイルを掴んで峰岸の頭を叩くと、ほんの少し重みが引いた。
「人を殺す気か」
「女子に捕まって告られてたけど」
「は?」
一瞬言葉の前後がわからなくなって、間の抜けた声が出てしまった。けれどすぐにその意味を理解して僕は目を見張る。変な冷や汗が出た。
「そこで騒いでる子に、だけどな」
恐らく青くなっているであろう僕の顔を覗き込み、峰岸はにやりとした笑みを浮かべてその横顔に口づける。小さなリップ音に僕は肩を跳ね上げて我に返った。
「峰岸!」
「はは、センセ反応が遅過ぎ」
腕を振り上げた僕をとっさに避けて、峰岸は一歩後ろへと飛び退いた。
「びっくりした?」
「……う、うるさい!」
目を細めて笑う峰岸の言葉が示すのは、無遠慮に口づけたことではない。それに気がつくのは僕くらいだろう。
「お前らも見てないで作業を続けなさい」
いつの間にか集まっていた周りの視線に軽く頭痛がする。呆れた空気と黄色い悲鳴が入り混じるこの状況にどっと疲れが押し寄せた。
「会長、遊んでないでこっちの仕事して貰ってもいいですか」
「あ? そのくらいお前たちでやれよ。俺がどんだけやってると思ってんだよ」
ふいに僕らのあいだに入った柏木に峰岸が眉をひそめる。不遜な態度で口を曲げた峰岸。しかしその不服にも一理あり、いままさに彼は会場設営の業者との打ち合わせに借り出され戻ってきたばかりだった。
本来なら顧問である僕が行かなくてはいけないのだけど、あくまでも代理なのでそこまではしなくていいと、ほとんど面倒ごとは峰岸がしてくれている。
「全部自分で進んでやってるくせに」
「お前ほんと生意気だな」
明け透けな柏木の言葉に峰岸は露骨に顔をゆがめ、僕の隣で椅子を引いた。
「こっち持って来いよ」
「おい、なんでここでやるんだよ」
顎で柏木に示し、僕のすぐ横に座った峰岸にため息が出た。けれど不機嫌そうな峰岸の横顔が珍しく歳相応で、可愛いと思ってしまった。
「峰岸でも苦手なものあるんだな」
「センセ、俺を苛めたら倍返しするけど?」
「別に苛めてないだろ……あ、あと一時間くらいで帰るから」
頬杖を突きながらこちらを睨む峰岸に肩をすくめ、僕は思い出したように壁時計へ視線を向けた。今日が休みなら早めに準備室に行こう。多分藤堂のことだ、また居眠りしていそうだけれど。
「センセは、仕事より恋人を取るんだ」
「うわ! 離せ馬鹿!」
ふいに浮かんだ藤堂の姿に口元を緩ませていると、いきなり横から峰岸に身体を引っ張られた。あまりの勢いに座っていた椅子が床に転がり、派手な音を立てる。
シンと静まり返った室内で僕を筆頭に、皆一様に目を丸くして固まった。
「なにをやってるんだ、お前は」
抱きかかえられ、峰岸の膝に納まっていた僕は、盛大なため息と共に峰岸の肩口を拳で軽く叩く。
「センセ、構うなら俺にしとけよ」
「あのな」
「俺、センセのこと好きだぜ」
まっすぐに告げられた峰岸の言葉に室内が一斉にどよめき、騒がしくなる。けれどそれに反してなぜか僕の口から出るのはため息で、ほんの少し寂しそうな峰岸の顔を見て、思い浮かんだ言葉にひどく戸惑っていた。
「嘘つけ、お前が好きなのは」
藤堂だろ――傍にいる峰岸に聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう囁けば、峰岸の目が大きく見開かれ戸惑うように揺れた。
「やっぱりな」
なんとなくそんな気はしていたけど、実際に知るとかなり複雑な気分だ。
「別に嘘じゃないけど? センセのことは好きだし」
「そ、残念ながら先生はお前の気持ちには応えられないなぁ」
ふいに緩んだ峰岸の腕を解いて立ち上がると、顔を上げた峰岸の頭を撫でる。不満げに目を細めたその顔に苦笑して、その耳元に顔を寄せた。
「悪いけど、藤堂もあげられない」
「……」
微かな僕の声に驚いたように目を瞬かせ、峰岸はじっとこちらを見つめる。しかしすぐに小さく息をついて、いつものように峰岸はにやりと片頬を上げて笑った。
「仕方ないな。俺のよさがわかんないようじゃ」
肩をすくめてそう笑う峰岸は先ほどまでの雰囲気などまるでなく、百獣の王は健在だ。けれどあまりにも彼らしいそんな姿に、ほっとしてしまう自分が少しずるくも思えた。
惹き合い繋がりあう引力があれば、それによって引き剥がされてしまうものがある。それを改めて知ると少し胸が痛くなった。それでも離れがたいと思う心が僕の中にある。
「藤堂」
「お疲れ様」
急くようにして戻った準備室の戸をガラリと引けば、薄暗い室内で身じろぐ気配と優しい声が返ってきた。電気もつけず足早に彼に歩み寄ると僕は腕を伸ばし、藤堂を抱きしめる。
その腕の中にある温かさに、ズキリと胸が痛み締め付けられるような気がした。
「……先生? どうかしましたか?」
「なんでもない。なんでもないんだ」
どうかこの温もりを引き剥がさないで欲しいと、そう思う自分はやはりずるいと思った。
[引力/end]
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