そして案の定、思考停止していた時間の分だけ仕事に追われ、すっかり陽も暮れてしまった帰り道。僕はいつもとは違う、一つ手前のバス停を降り一人歩いていた。
「静かだな、ここは」
一本向こうの道へ行けば、忙しなく車が行き交う繁華街がある。けれどいま歩いている道は、音が建物に吸収されたかのように静かだった。
ほんの少し表通りから内に入るだけで、明るさや騒音がこんなにも違うのかと驚く。そして足を止めたその場所で上を大きく振り仰いで見れば、柔らかいライトアップの中で粛々とした佇まいを見せながらも、大きな存在感を見るものに与える建物がそびえていた。
「ん、ここ。なんか見覚えがあるぞ」
その建物の名は――ホテル・シャルール。それは全国でも屈指の高級ホテルだった。
「あ、姉さんの結婚式か」
ぼんやりした記憶を掘り起こせば、何年か前に姉の結婚式で訪れたことを思い出した。ここはホテルに併設された立派なチャペルがあるのだ。
「それにしてもなぜここ?」
首を傾げながら手元に視線を落とす。片平が残した名刺の地図を頼りに、たどり着いたのがここなのだ。
「タン・カルムってレストランはホテルの中にあるお店なのか」
小さな独り言を呟き腕時計を確認すると、時刻はすでに二十一時を四十分と少し過ぎていた。名刺に書かれている通りだとすると、あと一時間ほどは営業しているようだが。いくらなんでも高級ホテルのレストランに一人で、しかも着古したスーツなどで入る勇気はない。
小さく唸りながら右往左往と少しうろうろしてから、僕はため息をついてホテルの前を通過し駅へと足を向けた。
「なにをやってるんだか」
自分の行動に失笑して思わず肩が落ちる。まったくどうしようもない。いい大人が年甲斐もなく生徒なんかに振り回されてどうするんだ。
「西岡先生?」
だがうな垂れわずかに丸まった背中を、聞き覚えのある声が呼び止めた。その突然の呼びかけに肩が大きく跳ね上がってしまう。
「……藤堂?」
恐る恐る振り向けば、驚き目を丸くした藤堂がそこに立っていた。
「どうしたんですか、こんなところで」
不思議そうに首を傾げる藤堂は制服姿だった。暗闇と柔らかい光の中で白いブレザーが際立つ。
うちの高校の制服は、それが着たいというためだけに選ぶ生徒がいるほど洒落ている。白のブレザーに淡いブルーグレーのズボン。えんじのネクタイがそれに映え、少し大人びて見える。正直、着る人間を選ぶ制服だが、藤堂は背も高くモデルのような体型なので、文句なしによく似合う。
「いや、それはこっちの台詞だぞ」
やや間を置いて我に返ると、僕は目の前の藤堂を窺うように目を細めた。
「ああ、実はここでバイトしてるんです」
「このホテルで?」
僕の問いに微笑んだ藤堂と、彼の指の先にあるホテルを見比べる。
「正しくはその中のレストランですけどね」
そう答えた藤堂に思わず頭を抑えた。
なるほど、そういうことか――いまようやく片平の言った頑張って、という言葉の意味がわかった。
「先生? 大丈夫ですか、具合でも」
最初から片平は僕と藤堂を学校外で引き合わせるつもりだったのだ。そして好奇心に誘われ、僕はまんまとその罠にはまってしまった。これは間違いなく片平に躍らされている。
「いや、大丈夫。具合は悪くない」
「そうですか。でも少し汗かいてますよ?」
身を屈め、心配げに覗き込んできた藤堂の顔が、視界いっぱいに広がる。その距離は小さな吐息がかかるほどに近い。思いのほか長い藤堂の睫毛が眼鏡越しに見える。瞬くその動きに思わず息を飲んだ。
「大丈夫ですか?」
固まってしまった僕を見て、藤堂は小さく笑う。そして汗ばんだ額に張り付いた僕の前髪を指先ですくう。
長い指。ほんの少し骨ばった男らしい、けれど綺麗な手だと思った。じっとその手を見ていると、それは次第に髪を梳くように後ろへ流れていく。
「先生の髪って柔らかいですね。すごく猫っ毛でさらさらしていて気持ちいい」
その声にはっとして我に返れば、藤堂が笑いを堪えるような顔をして目を細める。
すると僕の身体は反射的に一歩後ろへ下がっていた。そんな僕をじっと見つめる藤堂の指先が、名残惜しそうに毛先を追いながらも離れていく。
「帰るんですよね? 帰りは地下鉄ですか?」
「あ、いや違う」
「そうですか、それなら駅まで一緒してもいいですか?」
「あ、ああ」
なぜだか急に恥ずかしいくらいに頬が熱くなって、それを悟られまいと俯き答えれば、微かに藤堂が笑った気配を感じた。
ここまで年下に翻弄されている自分が恨めしい。
「今度お休みの日にでもうちの店に来てください。ランチくらいならご馳走しますよ」
「え? いや、ちゃんと払うし行くよ」
並び歩く藤堂を見上げれば、彼は至極嬉しそうに笑みを浮かべる。
「……大丈夫です。ちょっと実験体になってもらいたいので」
「じ、実験体ってなんだ」
さらりとそう言って笑う藤堂から、思わず逃げるように後ろへ一歩下がる。すると軽く片目をつむり、今度は楽しげな表情を浮かべた。
「そんなに引かないでください。冗談です。実験じゃなくて、試験的に俺がランチの新しいメニューに携わる機会があるので、その時に先生の意見をもらえたらいいなと思って」
「新しいメニュー?」
「ええ、俺が作った料理を食べてくれます?」
「藤堂って、もしかしてそういうの目指してる?」
思いがけない言葉に目を見開けば、藤堂はますます笑みを深くする。
「一年の時からあそこでお世話になっていて、最近は新メニュー作りにも参加させてもらってるんです。いつか自分の店を持てるようになったらいいなって思ってます」
「そうか」
バイト先の話をしている藤堂は楽しそうというより幸せそうだ。そこからウキウキしたような感情が伝わる。なんだか普段の落ち着いた雰囲気とは違って、少し子供らしくて可愛い。
「先生? どうかしました?」
ふいに藤堂が不思議そうな顔で僕のほうへ振り返る。急に静かになった僕を怪訝に思ったのだろう。
「あ、いやなんでもない」
藤堂の声で我に返った僕は、何度も首を横に振り笑ってその場を誤魔化した。横顔に見入ってたなんて恥ずかしくて口が裂けても言えない。顔がいいって目に毒だ。
「もしかして、少しは俺のこと気になってくれました?」
「いや、違、う」
慌てて首を左右に振った僕を見て、藤堂は一瞬だけ目を細めてからにっこりと微笑む。その笑みにカッと頬が熱くなった。いくらなんでも意識し過ぎだよなこれは、些細なことで過剰に反応し過ぎだ。
腰を屈め、僕の顔を覗き込もうとする藤堂から必死で逃れながら、僕は小さく息をついた。
「先生いつもこんな時間に帰るんですか?」
「え? あ、いや今日は少し遅い、かな」
お前のこと考え過ぎて残業をして、しかもここに来るためにわざわざ遠回りしてきたとは言えない。
「そうですか」
「なんだ?」
「また今日みたいに時間が合う日があるかと思ったんですけど。難しいですか?」
「あ、ああ、どうだろう」
曖昧に言葉を濁すと藤堂はじっとこちらを見つめ、ふいに思い立ったように肩にかけた鞄からなにかを取り出す。
「アドレスとか番号を教えてくださいって言ったら怒ります?」
鞄から取り出された携帯電話を開き、藤堂はこちらを窺うように小さく首を傾げる。
「う、うーん」
そんなに寂しそうな目で見るな。
ほんの少し眼鏡の奥にある藤堂の瞳が不安そうに揺れて、不覚にも胸の辺りがぎゅうと締めつけられ、心苦しくなってしまった。
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