夏日34
ため息交じりに肩を落とすと、佳奈姉は笑いを噛みしめながら喉を鳴らした。そして行きのバスでは十五分ほどかかる道のりだが、停留所に留まるわけでもなくのんびりした速度でもない車は駅から十分足らずで実家へとたどり着いた。
家の前の広いスペースには白い車が一台止まっている。見慣れたそれは長女夫婦のものだ。その隣になんなく車を停車すると、佳奈姉は買い物袋を僕らに押し付けさっさと玄関へと向かった。
呆れたため息は出るが、仕方なく手荷物がある藤堂に買い物袋を一つ持たせ、僕は両手に袋をぶら下げた。
「ただいまーっ」
玄関扉を開きながら佳奈姉が家の中へ声をかけると、慌ただしくスリッパの音がリビングから響いてくる。
近づいてきた足音の主は、佳奈姉のあとから続いた僕を見るなり、大声で名前を呼びながらスリッパを脱ぎ捨てサンダルを突っかけると、腕を広げて飛びついてきた。買い物袋で両手を塞がれていた僕は、その勢いに足がもつれて若干後ろによろめいてしまう。
「危なっ」
焦って体勢を立て直そうとするが飛びついてきた勢いと、負荷のかかった重力でうまく踏みとどまれなかった。しかし後ろへひっくり返りそうになった身体は、背中を支えてくれた藤堂の手によってそれを回避した。
「あ、藤堂ありがとう。ったく、詩織姉もうちょっと落ち着いて出迎えられないわけ?」
背中に触れた感触にほっと息を吐いて藤堂を見上げれば、ふっと目を細めて微笑んでくれた。それに安堵して首に巻き付く姉に視線を移すと、顔を持ち上げた彼女は目を丸くして僕の背後へ視線を向けていた。
「お母さんが今日来る子はすごく格好いいのよって言ってたけど、ほんとね」
「え?」
瞬きを繰り返しじっと藤堂を見つめる詩織姉の口はわずかに半開きになっていた。ぽかんとしたその表情になんとなく胸がもやっとした僕は、身体をよじって姉を振り払った。
「姉さん感動の再会はあとにしてよ。買い物してきたの生ものもあるし冷蔵庫にしまっちゃいたいの」
複雑な僕の心中を知ってか知らずか、そそくさと家に上がった佳奈姉が呆ける姉を振り返り叱咤する。そしてその声に我に返ったのか、僕らの手に携えられた買い物袋に詩織姉は視線を落とした。
「あら、すごい量。何日分?」
「とりあえず一日半分。また明日買い物よ」
肩をすくめた佳奈姉はそう言ってのんびりとリビングのほうへ姿を消した。そんな姿を振り返り視線で追っていた詩織姉は、こちらへ視線を戻すと膨れ上がった買い物袋に手を伸ばし「持とうか?」と言う。
けれど買い物袋は重量がそこそこあるので、僕は首を横に振りとりあえず家に上がらせてくれと訴えた。
リビングへ足を踏み入れるとオープンキッチンに立つ母が顔を上げ、リビングのソファに腰かけていた保さんが振り返った。保さんとは夏の帰省時にしか会わないので約一年ぶりだ。
自営で建築関係の仕事をしている保さんは体格がよく、背丈も高いのでとても大柄なのだが、穏やかそうな雰囲気と顔立ちで厳つさがまったくない。いまも優しげな目を細めて「おかえり」とのんびりとした声音で話しかけてくれる。
「優哉くんいらっしゃい」
「こんにちは、お世話になります」
そんな中こちらを見ていた母は、藤堂がリビングに足を踏み入れると同時に至極嬉しそうに顔を綻ばせた。そんな表情に小さく頭を下げた藤堂を振り返って見ていた僕は、なんとなく違和感を覚えて小さく首を傾げる。
普段だったら僕のそんな反応を見て応えてくれる藤堂だったが、いまはどことなく表情が硬く僕の視線にも気がついていないようだった。
しかし珍しい藤堂の様子に戸惑っていると、ダイニングテーブルに備えている椅子に腰かけ、ひと仕事終わったとばかりにビールを片手にしていた佳奈姉が手荷物を片付けるように急かす。
キッチンへ藤堂と二人で買い物袋を持ち込めば、母が大型の冷蔵庫に生ものを手早く詰め込んでいく。袋の中身をそれとなく目で追うと、今日の夕飯は恐らくハンバーグやグラタン辺りではないだろうか。
「ねぇ、佐樹のお友達にしては彼、若い気がするけどいくつ?」
「え?」
ふいに背後から聞こえた声に振り返れば、保さんの隣に座った詩織姉が不思議そうに藤堂を見つめていた。その視線に少しそわそわしながらも、この二人には藤堂の紹介がまだだったと思い出した。
母からどんな説明がされているかはわからないが、うかつなことも言えなくてほんの少し口ごもってしまう。とりあえず長女夫婦を紹介しようと藤堂の腕を引くと、やはりどこか緊張した面持ちで藤堂はこちらを見る。
「あ、えっと。あー、佳奈姉は以前に会ってるからいいよな。長女の詩織姉と旦那さんの保さん。で、こっちは藤堂」
ソファに座る二人を手のひらで示せば、詩織姉と保さんは「はじめまして」と笑った。保さんはいつものように、にこにこと笑っているが、詩織姉の視線は期待に満ちた輝きが感じられる。思えばうちの女性陣は母を筆頭に面食いでミーハーだったと思い出し、苦笑いが浮かんでしまった。
「はじめまして藤堂優哉です。いまは十八で佐樹さんが勤務している学校に通っています」
「え、あら、嘘っ。高校生なの? 大学生くらいかと思った」
まっすぐな詩織姉の視線を受けながらも藤堂は二人に向かい頭を下げた。予想外過ぎたであろう藤堂の年齢に、驚きのあまり身を乗り出した詩織姉だったが、誠実そうな雰囲気は感じ取れたのか藤堂を見る目は優しい。
「さっちゃん、まだ大事なこと言い忘れてるわよ」
「えっ」
しかしこれからどう切り抜けるかと思い巡らせていたら、急に母の鋭い声が聞こえてくる。いつもはのんびりとした母のそんな声に、家族は皆少し驚いたように目を見張った。そして僕はなんとなく嫌な予感がして母を振り返った。
「優哉くんはいまさっちゃんがお付き合いしてる人でしょ」
「ちょっ……」
胸に湧いた嫌な予感は的中する。きっぱりはっきりと言い切った母に、この場の空気が一瞬しんとしたものに変わった。そして慌てて声を出しかけた僕の声がやたらと大きく響く。
ビール缶を傾けていた佳奈姉の手が止まり、身を乗り出していた詩織姉の表情が固まる。保さんも虚を突かれたように目を丸くしていた。僕はといえば、クーラーの効いた室内でひやりと冷たい汗をかいていた。
「なにそれ、どういうこと?」
言葉を飲み込み口を閉ざした僕に、訝しげな視線が集中する。特に先ほどまで明るい笑みを浮かべていた詩織姉は、徐々に顔が険しいものに変わり、声は少し固く平坦なものになった。
そんな態度の変化はもう周囲を取り囲まれたようなもので、もはやここに逃げ場はないと思い至らしめる。
思わず傍にいる藤堂を見上げると、その横顔は相変わらず緊張した面持ちだった。そしてそんな表情にようやく僕は藤堂に対する違和感とその意味を悟った。藤堂はこの家に入った時からこうなることを覚悟していたのだ。
けれど気持ちが浮ついてしまっていた僕は、その考えを頭からすっかり抜け落としてしまっていた。この家の中で誰が一番このことを非難されるかと考えれば、それは一人しかいない。
この家の者ではない藤堂だ。そんなことはよくよく考えればすぐさまわかるというのに、僕はそんなことさえ気づけずにいた。
「高校生で、佐樹の学校に通ってるって言ったわよね?」
「はい、でもお付き合いさせていただいているのも本当です」
眉をひそめて向けられた視線に、藤堂はまっすぐとした目ではっきりと言葉を紡いだ。その目に僕は思わず傍にある彼の手を強く握り締めた。そして逃げてはいけない、そう心に思った。