夏日38
扉の前でしばらくどうしたものかと考えあぐねていると、先ほどまで聞こえていた声が聞こえなくなっていることに気がついた。電話は済んだのだろうかと少し耳を澄ましてみたが、やはり声は聞こえなかった。
「いつまでもこうしていられないよな」
ずっとこうして部屋の前に立ち尽くしているわけにもいかないと、ようやく意を決して僕は扉を開いた。
「藤堂、待たせたな」
なんとなく白々しさを感じながらもそう言って部屋に足を踏み入れると、携帯電話を操作していたらしい藤堂が顔を上げた。
「電話?」
「えぇ、まあ。でも終わりました。ちょっとメールだけいいですか?」
「うん、いいけど」
曖昧に微笑んだ藤堂の表情に心配する気持ちが増してしまった。本人はいつものように笑ったつもりだろうが、その笑みの裏側が見えてきてしまうくらい僕たちは一緒にいる。彼は心の中にあるものを隠そうとするほど、ひどく綺麗に笑う。それは心の奥を覗かせない完璧な仮面だ。
「なんだかお前、顔色悪くないか?」
「えっ?」
しばらくメールを打つ横顔を見つめていたが、思わず思っていることが口からこぼれてしまった。そしてその問いかけに驚いた表情をして顔を上げた藤堂に、僕はつい口ごもってしまう。聞いていいのか、踏み込んでいいのか、まだその距離がわからない。お互いに口を閉ざし沈黙がしんとした空間を生む。
けれどふいに響いた空気を震わすような振動と音、そして室内を彩り鮮やかに照らす光が広がり、僕と藤堂はつられるように窓の外へ視線を向けた。
「花火始まったな」
その音と光に室内の時計に視線を移すとちょうど十九時だった。後ろ手に部屋の扉を閉めて部屋を横断し、麦茶のボトルとグラスを窓際近くにある机の上に置くと、僕はベッドに乗り上がり閉め切っていた窓を開けた。
「よいしょっと」
「え? 佐樹さん?」
麦茶やグラスのほかに手にしていたサンダルを窓から放り、なんの躊躇いもなく僕は窓枠を跨いで外に出る。それを見た藤堂は慌てた声を上げて近づいてきた。けれど僕はそんな藤堂は気にも留めず、屋根の上に置いたサンダルを履いて、小脇に挟んでいたビニールシートを屋根の上に広げた。
「あ、そこにある座布団二枚取って、お前もこっち来い」
振り返って部屋の隅にある座布団を指差せば、困惑した面持ちで藤堂はそれを取りに行く。その隙に机に置いていた麦茶とグラスを手に屋根の上に戻ると、僕はサンダルを脱いでビニールシートの上に立った。その間もずっと夜空には鮮やかな花火が打ち上がっている。
「佐樹さん?」
「うん、こっち来い。ここから見やすいから。あ、ここの屋根は平らだから、落ちる心配はしなくていいぞ」
座布団を手に戻ってきた藤堂に笑みを返して手招けば、藤堂も窓枠を跨ぎビニールシートの上に降り立った。いまだ戸惑っている様子の藤堂から座布団を受け取り足元に二つ並べて置くと、僕はその場に腰を下ろし足を伸ばす。そしてもう一つの空いた座布団を叩いて藤堂を促した。
「花火よく見えるだろ」
「打ち上げ場所近いんですね」
「うん」
しばらく戸惑っていた藤堂だが、僕が前を向いて空を見つめているうちにゆっくりと隣に腰を下ろし胡座をかいた。
花火は藤堂の言うようにこの家からさほど離れていない場所から打ち上がっている。その証拠に身体にも響きそうな音の大きさと、大輪の花がそれを示していた。
「花火を見るなんて、何年ぶりだろう」
「いつも夏休みはバイト漬けだったのか?」
「はい」
「明日はさ、神社でお祭りあるからそれ行こうな」
明るく華やかな光に照らされる藤堂の横顔を見つめながら、シートの上に置かれた藤堂の手に自分の手をそっと重ねる。するとそれを察した藤堂の手が優しく握り締め返してくれた。
花火の音しか聞こえないはずの中で、自分の心音がトクトクと音を早めていく。ただ手を握ってもらっただけなのに、こうしてこの場所に藤堂といられることが嬉しかった。
「佐樹さん」
「ん?」
「気にしてますよね、電話」
空を見上げたままの藤堂に名前を呼ばれて、思わず首を傾げて返事をしてしまう。けれどそんな僕を振り返らずに、握る手に力を込めた藤堂がぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。
「なるべく佐樹さんには心配かけたくなかったんですけど。さすがに気になりますよね」
「ああ、うん。まあ、でも話して楽になるならいいけど、そうじゃなかったら無理には話さなくてもいいぞ」
気にならないと言ったら嘘になるけど、言葉にするのが躊躇われるならばそれを問いただそうとは思わない。けれど少し俯いた藤堂は考えるように目を伏せてから、ゆっくりと話し始めた。
「夏は嫌いって俺、前に言いましたよね」
「うん」
いまでも覚えている。夕陽が沈んでいく中で小さく呟いた藤堂のその言葉。まるで独り言のようにさりげなく呟かれた言葉だったけれど、なぜだかそれを簡単には受け止められなくて、僕は気の利いた言葉を紡ぐことが出来なかった。
「蝉がうるさくて、本当にうだるような暑い夏の日でした。突然父が家を出て行ったんです」
「え?」
突然の告白に思わず息を飲んでしまった。家族仲がよくないとは聞いていたけれど、まさかそんなことにまでなっていたとは思わなかった。でも思えば母親のことは話に上がるけど、父親に関しては触れることがなかった。
「あれからもう五年、くらいになるのかな。それから毎年、夏になると母の様子がおかしくなるんですよ。いつだって暴君のような有様で、父に対して愛情なんてないと思ってたんですけど、思ってた以上にそれが母には衝撃だったのか。出て行った当初は暴れて手に負えないくらいだった」
五年前の夏ということは僕たちが出会ったすぐあとだ。きっかけはやはり藤堂の出自だろうか。そう思うと胸が苦しくなる。それはどうしたって藤堂のせいじゃない。それなのに痛い苦しい思いをするのはいつも藤堂だ。
「人によっては愛情は、執着だったり支配だったりすることもあるからな」
「えぇ、今年もまた夏になって少し荒れ始めたんですけど。よりによって出て行ったのと同じこの時期に父から離婚届が送られてきたんです。それでまた俺を養子に出すと言って聞かなくって。……今更俺がいなくなったところでもう元に戻れないのに、受け入れられない状態で手を焼いてます。いま父にはほかに女性がいて子供もいるですよ」
藤堂の母親は相手を支配することで欲求を満たす、それが歪んだ愛情のかたちだったのだろう。そしていままでは家を出て離れていても、まだ事実上は別れていないということで心のバランスを保っていた。けれど突然離婚を言い渡されたことで抑え込んでいた感情が爆発したのかもしれない。
いまはその矛先がすべて藤堂へと向かっている。思い通りにならない夫、他人に奪われるという焦り、その感情がいま藤堂を支配してねじ伏せ、歪んだ感情を保とうとしている。鳴り続ける携帯電話はきっとそのせいだ。
たまらなく胸が苦しくなった。握り締められた手を握り返して、そっと腕を絡ませ藤堂の肩に擦り寄ると、寄り添うように頭がそっと僕の肩に寄りかかる。その重みを感じて無性に近づきたくなり、藤堂の腕を抱きしめて目を閉じた。
「すみません。こんな時にこんな重たい話」
「いいんだ。謝ることなんてない。全部吐き出せるものは吐き出したほうがいい。藤堂はなにも悪くない」
こんなありふれた言葉しか言えない自分が歯痒い。もっと心ごと抱きしめてあげたい。それなのに藤堂は涙をこらえる僕に小さく笑って、優しく額に口づけを落としてくれた。
「ありがとう佐樹さん。誰かに、そう言ってもらいたかった」
寂しげな色が瞳の奥底に浮かぶこの愛おしくて仕方がない人を、どうかこれ以上誰も傷つけないで欲しいと、僕は心から願わずにいられない。