優哉が案内してくれる場所は少し移動したところにあるようだ。しばらく電車に揺られ、自宅マンションのある駅から三つ過ぎた場所で降りた。初めて降りるが、何度も通り過ぎたことのある駅だ。
改札を抜けて外に出ると、コーヒーショップやパン屋、スーパーなどがあった。通りには商店も立ち並んでいて、夕方と言うこともあり買い物をする人たちが行き交っている。各駅停車の小さい駅だけれど雰囲気のいい街だ。
「もう少しで着くので」
「うん、大丈夫だ」
先を歩く優哉の背を追いかけて足を進める。商店が並んでいた通りを抜けると、そこはもう住宅街だった。猫がのんびり歩いている静かな道を二人で肩を並べて歩く。
人通りも少ないのでそっと手を伸ばして隣にある手を握ってみた。少し驚いたように振り返ったけれど、優哉はその手を握り返してくれた。
「あ、あそこの角を曲がったところです」
駅から十分くらい歩いたところで、優哉が道の一角を指さした。そこは一見すると、曲がり角があることに気づかないかもしれない場所だ。その先は生け垣に挟まれた小道になっていて、足元には白い石畳が敷かれている。
「私有地?」
辺りを見回すと一戸建ての家が並んでいる。ということはこの先も住居だろうか。道の入り口には駐車スペースもあった。
「奥まったところにあるんだな」
「初めて来るとちょっと迷うかもしれないですね」
大人二人、並んで歩くのが丁度くらいの細い道を抜けたら、花壇のある小さな庭と、こぢんまりとした白い家が目の前に現れた。玄関ポーチや大きな出窓があるその家は、真っ白な外壁とオレンジ色にも見える赤の三角屋根がすごく印象的だ。
その外観はどこか素朴で、外国の片田舎にありそうな佇まいだと思った。家の周りが生け垣に囲われているから、なんだか隔離された空間みたいで、ここが住宅地の真ん中であることを忘れてしまいそうだ。
「中にどうぞ」
優哉は上着のポケットに入れていたキーケースから鍵を取り出すと、躊躇いなく目の前の扉を解錠した。ゆっくりと開かれた扉の向こうはとても明るく、玄関スペースはどうやら二階まで吹き抜けになっているようだ。
「ここってお店?」
外に看板らしきものはなかったが、吹き抜けになっている玄関には小さなレジカウンターがあった。その後ろには二階へと続く真っ白な階段がある。
そして艶のある綺麗な板張りの床で繋がる階段を挟んだ向こうは、どうやら広いフロアになっているようだ。テーブルや椅子がいくつも配置されているところを見ると、ここは住居ではないのだろう。
「本当はディナーに招待できる状態で来てもらおうと思っていたんですけど、佐樹さんに心配かけてるみたいだったから」
手を引かれて店の奥へ案内される。レジカウンターの横を通り過ぎフロアに行くと、四人掛けのテーブルが五つあった。奥にはカウンターテーブルもあり、椅子が六脚並んでいる。
どれも真新しいのか保護ビニールがかけられていた。カウンターテーブルの向こうはオープンキッチンになっていて、厨房の中がよく見える。
「もしかして優哉が働く店?」
ぐるりと視線を巡らせば見渡せるほどの小さな店だが、なんだかとても居心地のよさそうな雰囲気だ。ぬくもりを感じさせる柔らかなクリーム色の壁紙とレースカーテンが引かれた大きな出窓。
窓から差し込む光は明るく、壁紙の優しさと相まってとても落ち着いた印象を受ける。そして大きなシーリングファンが備え付けられた天井は高さがあり、店内を広々とした空間に見せていた。
のんびりここでランチやディナーなどをしたら気持ちよく過ごせそうだ。
「正しくは、ここは俺がこれからオープンさせる店です」
「え?」
なに気ない声で告げられたその言葉を聞いて、驚きをあらわに優哉の顔をじっと見つめてしまう。そんな僕の表情に彼は至極優しい笑みを返してくれた。
「え? 店に勤めるんじゃなくて、優哉がオーナー? もしかしてお前の夢、叶うの?」
「時雨にかなり借りを作りましたが、来月の頭には無事にオープンさせられそうです。どうですか、この店」
照れくさそうに笑う優哉は店の中に視線を走らせ両腕を広げる。そして僕を見て小さく首を傾げた。
「……どうしよう。すごく嬉しい」
気づけば僕は飛びつくように目の前の優哉に抱きついていた。顔が自然と緩んできて、にやにやとするのを止められない。心臓は喜びで跳ね上がりドキドキとしている。
こんなに嬉しいことがほかにあるだろうか。高校の頃からずっとこの道を目指して頑張っていたことを知っている。一人前の料理人になって自分の店を持つということは、彼が初めて見つけた大きな夢だ。
この願望が叶うのはもう少し先かな、なんて思っていたけれど。それが本当にこうして叶う日が来るなんて、まるで夢を見ているみたいだ。
でもこれが夢なんかじゃないことは、この場所を見ればわかる。新しい店、優哉の店――それだけで胸が震える。
「店で働くメンバーも決まったので、今度佐樹さんに紹介しますね」
「うん」
初めて出会った頃、彼には夢も希望もなかった。けれどいまは妥協することや我慢することばかり覚えていたあの頃とは違うのだ。自信を持って誇らしげに笑う彼は誰よりも輝いて見えた。すごく頼もしくてその存在が大きく思える。
「次に来る時は、この店の一番のお客になってくれますか」
「……もちろん、喜んで」
僕が言ったあのなに気ない、小さな約束まで覚えていてくれたのか。優哉はまた一つ僕の夢を叶えてくれた。それが嬉しくて涙がこぼれそうになる。優哉の背中を強く抱きしめて、僕は彼の肩口に頬を寄せた。
「少し早いけど、おめでとう」
「ありがとうございます」
「お前が思い描く夢は、僕が願う夢だよ」
「佐樹さんと二人でなら、どんな夢も叶えられそうだ」
顔を上げて優哉をまっすぐ見つめると、暖かな眼差しの中に自分の姿が映っているのが見えた。彼の中に僕が確かに存在するような気がしてすごく心が満たされる。いまにもあふれてしまいそうな想いを伝えたくて、背伸びをしてそっと彼の唇に口づけた。
彼が心からの笑みを浮かべているいまがなによりも嬉しい。まるで僕まで大切なものを手に入れた気分だ。
「お前が幸せだと僕も幸せだ」
いつだって僕たちはお互いのことを想ってきた。すれ違って傷つくこともあったけれど、僕たちの選んできた道は間違いではなかった。あの時あの瞬間、二人でした選択一つ一つが確かな未来を描いたのだ。
「じゃあ、いま俺たちすごく幸せですね」
「うん」
優しく頬に口づけられて胸が温かくなった。彼も僕と同じように喜びを分かち合ってくれる。なに気ないことだけれど、決してそれは当然なことじゃない。確かな想いがそこにあるからこそ相手の幸せを願えるんだ。
「これからが大変だと思うけど、僕も応援するから頑張っていこうな」
「はい、佐樹さんと一緒なら頑張れる気がします」
まっすぐな眼差しを受け止めてそっと触れるだけの口づけを交わす。するとほんの少し触れた、その先からどうしようもないほどの愛おしさがあふれてきた。両手を伸ばして頬に触れ、髪を撫で梳いて、僕は彼をもう一度引き寄せる。
「お前ならきっとうまくできるよ。楽しみにしてる」
初めて出会った時はこんな未来がやってくるだなんて想像もしていなかった。いまは新しく訪れる未来が心から楽しみだと思える。
彼と一緒に歩いて行くこの先はきっと明るいだろう。平坦な道ばかりではないかもしれないけれど、それでも二人だったらなんだって乗り越えられるはずだ。
「佐樹さん、俺の隣で見ていてください」
「ああ、もちろんだ。優哉の描く未来で一緒に生きて行きたいよ」
出会って今日まで随分と長い道を歩いてきた。道の途中で何度も手を離してしまったけれど、この先はもう二度と――繋いだ手は離さない。絶対に離れたりしない。だから今日より明日、明日より先の輝く未来へ向かって、二人で一緒に手を繋いで歩いて行くんだ。
きっとそこにはいつでも新しい始まりがある。
[始まり/end]
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