慌ただしかった創立祭も終わり、そのまま今度はテスト期間へと入った。春を過ぎてからバタバタと色んなことが過ぎていく。
でもあれから拍子抜けするくらいなにも起きなくなった。家でたまに顔を合わせると、向こうはなにか言いたげな顔をしているが、それでも言葉を交わすことはない。
記憶にある限り、母親はあの家では絶対権力者だった。なにをするにもあの女の言葉が最優先にされ、それを退けることは許されなかった。
なにか気に入らないことがあれば、こちらの都合などお構いなしに当たり散らされるのは日常茶飯事で、そんな環境の中いつしか俺は諦めることが楽なのだと思うようになった。でもそれに耐え切れなくなった父親は、いつの間にかその絶対支配から逃げ出していた。
その時には既に実の父親でないと知ってはいたが、その日までは確かに俺の父親だった。物心ついた頃からあの女を母親と思えずにいた俺にとって、唯一の家族だったのだ。だから余計に捨てられたのだという気持ちが強かった。
でもいま思えば、途中でどこか壊れた俺とは違い、あの人は本当に普通過ぎるくらい普通の人だった。そんな人があの家で生きていけるわけがないのだと、今更だけれど気がついた。
長く暗いトンネルを歩いていたが、いまは目の前がひらけた気分だ。
「あれからなにもないのなら、よかったですわ」
「なにもなさ過ぎて正直怖いけどな」
「あら、あなたに怖いものがあるなんて意外」
グラスの中のアイスカフェオレをストローでかき回し、鳥羽はどこか面白がっている様子で小さく笑った。目の前でため息を落とした俺にますます笑みを深くし、書き込み一つない綺麗な教科書を静かにめくる。
ここは駅構内の改札近くにあるカフェ。三十席程度ある客席は改札の傍にあることもあり、ほぼ満席。店内には同じ制服がちらほらとあり、同じように教科書とノートを広げていた。ガラス張りの客席から外へ視線を流せば、改札を行き来する人の波が見えた。時間は十八時を過ぎ、会社帰りと思しきスーツ姿の人波が増えてきた。
「俺にだってそのくらいの感情はある」
もちろんそれは佐樹さんと再会してからの、ここ数年の話だけれど。
「そうでしたの、それはよかった。それよりも、あの二人の誘いを断って私と試験勉強していてよかったのかしら」
なんでも見通していそうな、大人びた目をして鳥羽は笑う。けれどそれは不思議と居心地の悪さを感じさせない。鳥羽は俺に比べたら真っ当な人間だが、性質が近い人間でもあるからだろう。
かといっていつも隣で賑やか過ぎるほど賑やかな、あずみと弥彦が煩わしいわけではない。あの二人はごく普通で当たり前な世界を与えてくれる。親がいて兄弟がいて家族がある。どこか優しくて温かいそんな世界。
正直眩し過ぎてひどく辛く思った時期もあったが、それでもそんな中にいると自分も不思議と人間らしくいられる気がするのだ。
「話があるって先に言ったのはお前だろう」
鳥羽に比べさして進んでいない教科書を閉じて、俺はカップを持ち上げると温くなった珈琲を口にした。そんな俺の反応にあら、ごめんなさいと感情のこもらない謝罪をし、鳥羽はまた笑った。本当は気づいているのだ、俺があの二人の誘いを断ることに躊躇いを見せたことを。
「そうでしたわね。でもなにもないなら問題ないかしら」
「問題なくても話せ」
ノートに走らせていたシャープペンを止め、首を傾げる鳥羽に再びため息を落とす。そしてじっとこちらを見る鳥羽から逃れるように、頬杖をついて視線を外へと向けた。
「あなたのお母様が経営する会社、ここ数年だいぶ危ない状況みたいですわよ」
「へぇ」
鳥羽の言葉に興味の欠片も感じさせない、素っ気ない声が出た。正直それほど驚きはなかった。そんなことじゃないかと、どこかで思っていたのかもしれない。金回りが悪くなったから旦那の兄に取り入る真似をしたのだろう。
よくこの数年、なにごともなく動いていたと感心するくらいだ。よほど下の人間が出来ていたんだろう。
「会社自体は悪くはないようですけど、経営者の手腕の問題かしら。数年前までいらした副社長が解任されてから、会社が傾いているようですわ」
数年前まで副社長についていたのは、いまはどこにいるかわからない、俺の血の繋がらない父親だ。平凡で、真面目だけが取り柄の人だった。
「気に入らない人間を切って捨てるような女王様だけで、会社が動くわけないだろう」
「頭の悪い人間ではないけれど、人望はあまりないようですわね」
馬鹿な崇拝者でない限り、あれに尊敬など持ちようがない。鳥羽の言葉に思わず笑ってしまった。でもあの時、佐樹さんと再会しなければ俺もあの女の歯車になっていたのかもしれない。
逆らうこともなく、文句を言うこともなく、大学へ行って会社に入り、好きでもない女と結婚して、そのまま人生終わっていたのかもしれない。
それがそこそこの自由と引き換えの、楽な生き方だとあの時まで思っていた。
「でもしばらくはあなたに構ってもいられないでしょうから、そのあいだに卒業してしまえれば一番楽ですわね」
「は?」
「ですから、会社自体は悪くないって言ったでしょう?」
言葉の意味がわからず鳥羽を振り返ると、至極楽しげな様子で満面の笑みを浮かべていた。お気に入りのおもちゃでも与えられたような、一見無邪気過ぎるほど無邪気な笑みだ。けれどその笑みに隠れたものに気づき、俺はあ然とした。
「まさか社員を買収して、会社ごと乗っ取るつもりか?」
「別に、どちらがいいか選ばせてあげただけですわ」
「天秤にかけるまでもないだろう」
決して小さな会社ではないが、鳥羽のところと比べたら格が違い過ぎる。そんなところから餌をぶら下げられて飛びつかない奴がいるだろうか。いや、多少条件が悪くなっても、独裁者にいつ首を切られるかとびくつきながら働くより、その元凶がいなくなってくれたほうが何百倍もマシだ。
いまは鳥羽のところから圧力をかけられて、俺などに構っている場合ではないということか。このまま本当に時間が過ぎてくれればいいが、逆効果にならないことだけを祈るばかりだ。
「やることが大き過ぎるんだよ」
「社会勉強ですわ」
「結局、お前の父親はお前に甘過ぎる」
呆れて苦笑いをした俺に、鳥羽はアイスカフェオレを飲みながら笑みを深くするだけだった。会社の一つ二つなど、本当におもちゃのようなものなのだろう。そう思うと俺の悩みがあまりにもちっぽけに思えて、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。
「あら?」
痛んできた頭を抑えていると、鳥羽が顔を上げて目を丸くした。
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