決別04
弥彦とあずみに初めて会ったのは幼稚園、俺が四歳の頃だ。途中からいまの家に越してきた俺とは違い、二人は物心つく前から一緒にいた。母親同士の仲がよかったらしく、いまと変わらず昔も姉弟同然だった。
めったに送り迎えもなく、家に一人でいることが多かった俺を、二人の親たちが毎日気にかけるようになり、自然と三人でいることが増えた。弥彦のところに弟が増えてからはさらに周りは賑やかになっていった。
いまも毎朝、学校へ行く前に必ず迎えに来て、休みの日には家にいる俺を呼び出しては食事だ買い物だと連れ出す。佐樹さんに会って再会するまでのあいだ、やさぐれてあれ以上おかしくならなかったのは、二人のおかげなのかもしれないといまなら思える。
「あれ? 貴穂は寝ちゃった?」
「ああ、いつの間にかぐっすりだ」
希一の勉強を見ているあいだもずっと、膝の上でにこにこと楽しそうにしていた貴穂だったが、さすがに二十一時を回りこくりこくりと頭が船をこぎ出していた。いまは小さな身体を丸めて寝息を立てている。
「今日は随分はしゃいでたから疲れたのかな」
食事の片づけをして、洗濯物をまとめ、希一を風呂に放り込んでと、慌ただしく家事をこなしていた弥彦が、眠った貴穂の顔をのぞき込んだ。小さな頬を指先でつつくが、それでも貴穂は起きる気配はない。
「いつもならまだ起きてるんだけどね」
「そうなのか」
「うん、ちょっと寝かしつけちゃうよ」
リビングから続く和室に足を向け、弥彦はそこに父親の布団を敷く。俺が貴穂を起こさぬよう和室へ連れて行けば、手慣れた様子で弥彦は貴穂を受け取り、奥の小さなベッドに寝かしつけた。
「貴穂はいくつになった?」
「ん? ああ、もう三歳だよ」
「その割にあんまり喋らないな」
「うーん、ちょっと言葉は遅いけど、言ってることは理解してるから大丈夫だろうって」
「ふぅん」
このくらいの小さな子供を見ると、あの人のことを思い出す。彼の子供が生きていれば、おそらく今頃は三歳か四歳くらいだ。
俺といることが本当にあの人にとって幸せなことなのか、現実を見るたびいまだに心が揺れてしまう。もしかしたら彼の手を握っていることに、いまだ後ろめたさがあるのかもしれない。自分の側へ彼を巻き込んでしまったことに、若干の後悔がある。
あの時、あの場所で会わなければ、声をかけなければ、もっと違った道もあったんじゃないかと、そう思ってしまう。だからと言って、今更あの人を諦めるなんて絶対に無理だろう。
でも気持ちが矛盾してばかりで、いつまで経ってもこの気持ちは解決出来そうにない。彼の気持ちを信じていないわけではないのだが、順調にいっても、トラブルが起きても不安ばかりだ。
自分に自信がない。多分だからこそ、いまもこの先も同じことで何度も悩んでしまう。
「優哉、またなんかぐるぐるしてる?」
「え?」
「眉間にしわ寄せて、難しい顔してるからさ」
いつの間にか目の前に立っていた弥彦が、訝しげな顔をしてこちらをじっと見つめていた。その表情から推測するに思っているよりも長いこと、俺は考え込んでいたようだ。返す言葉が見つからず、思わず誤魔化すような笑みを浮かべてしまった。
「悩んでるばっかりでも解決しないことってあるよ」
「それは、わかってる」
ぐだぐだと悩んだところで自分の環境も、俺が男であることも、同性にしか興味がないことも変わらない。彼の恋愛対象が女性で、結婚していて、子供がいたことも、現実である限り変わりようがない。それに変わったところでどうなると言うんだ。俺はどうしたって彼を諦められないし、もしも万が一という不安が消えるわけじゃない。
悩んで落ち込んだところでどうにもならないんだ。これ以上考えても仕方がない。
「色々と考え過ぎて、余計に疲れてるんじゃないの?」
「疲れてる?」
「うん」
首を傾げた俺に、弥彦は肩をすくめてため息をついた。
「最近、おばさんとなにかあったんじゃないの? 創立祭の時におばさん見かけたよ。びっくりしちゃった。いままで学校行事になんて顔見せたことないのにさ。西やんのことでなにかあった?」
「気づいてたのか」
あまりにも的を射る弥彦の言葉に戸惑った。
「うん。でも優哉はなにも言わないし、聞いていいことかわからなかったから、聞かなかった」
余計な詮索はしない――弥彦は昔からそうだった。でもその分だけなにも言わずに俺の様子をずっと見ている。あずみもそうだ。普段はあれこれ詮索するのが好きなくせに、家のことには一切立ち入らない。昔はそんな態度が一線を引かれているように思えていたが、そうじゃないと最近になって気づいた。
「なにかあったら、ううん。なにもなくても、いつでもうちにおいでよ。いつでもここに帰ってきていいんだからさ」
立ち入らないのではなくて、立ち入れないんだ。父親がいなくなってから余計に俺とあいつの確執が強くなって、触れればすぐに波風立つような荒れた状況になった。だから二人はその外側でひたすらに、俺が振り向くのをじっと待っていたんだ。
「俺たちは優哉のこと、家族だと思ってるから」
家族――元々それは自分にとって縁遠いものだと思っていた。
「……お前の家も、あずみの家も、いつも賑やかで明るくて、正直いつも居心地が悪かった」
「え?」
温かくて優しい普通の家族。それに加えてもらえることが嬉しいと思う反面。眩しくて綺麗過ぎて、自分の居場所ではない気がして、それが居心地が悪くて仕方がないとも思っていた。
「でもいまは、やっと引っかかっていたつかえが取れた気がする。今日はお前たちといて、不思議と安心したし、素直に楽しかったよ」
いつもなら賑やかで明るい場所にいるのが、心許なかった。楽しいはずなのに、家に帰るとどこか虚しさもあった。それなのにこんな気持ちになるなんて思いもよらなかった。
「それって……もしかして西やんのおかげかな?」
あの人の手で、なんのしがらみもなく放り込まれた場所は、ただただ温かかくて。誰かといることがあんなにも心安らぐものなんだと教えられた。そしてあの人と一緒に過ごして、あの人の家族に触れて、それを知ったら振り返った先にあったここも、それと違わないんだということに今更だが気づいた。
久しぶりにここへ来て、自分が俯いて目を背けていただけなんだということがよくわかった。多分ただ怖かったんだろうと思う。
子供の頃から俺の中で唯一だったこの温かい現実――無条件に受け入れてくれる家族。でもこの場所がなくなることが怖くて、自分は心のままに受け入れることが出来なかった。受け入れてから、放り出されるのが怖かった。そんなことはないとわかっていても、どうしても心を開ききれなくて、優しくされればされるほど疑心暗鬼になっていた。
「そっかよかった。ずっと優哉が不安そうにしてるのは気づいてたけど、俺たちがなにを言っても、きっとますます不安にさせるだけだってわかってたから。あっちゃんも俺も、それがずっと悲しかったし悔しかったんだ」
「悪かった」
「謝ることなんてないよ。優哉の気持ち考えたら、仕方ないことだと思う」
なにも知らない、気づかない素振りをしながら、やっぱり気づいていたんだ。お互いどれが正しい答えなのかわからなくて、随分と遠回りをした気がする。今日ここへ俺を呼んだのも、それに気づかせるためだったんだろうか。
「いまよりもっともっと、優哉が大切だって思えるものが増えればいいと思ってる。いままで我慢して手放してきたもの、これからたくさん掴まえていいんだよ」
「ああ」
弥彦がいまにも泣きそうな顔をして笑うので、つられて喉が熱くなった。いままで見えていなかったものに、見ようとしていなかったものに気づかされる。あの人といると、こんな自分でも幸せになってもいいのだと思えた。
そしてそう思わせてくれたあの人にも、こうして変わらず一緒にいてくれた弥彦たちにも、感謝をしなければならない。
「なにがあっても負けちゃダメだよ。でも自分も大事にしなくちゃダメだから、ちゃんと幸せになりな」
「……ああ、わかってる」
諦めないとあの人と約束をした。もちろんなにが起きるかわからない不安はいまだにある。もしかしたらいままで以上に傷つくこともあるかもしれない。またなにかの選択に迫られるかもしれない。それでもほんの少しでもいいから、前に進んでいきたいと思う。隣であの人が笑っていてくれる限り、俺はこの先の未来を諦めないでいられる。
「西やんに会えてよかったね」
あの人に出会わなければ当たり前な日常も、自分が一人ではないことも、誰かを愛せることも、ずっと気づかぬままでいたかもしれない。あの人はいつでも俺の世界に光を与えてくれる。
「弥彦」
「ん?」
「いままで、ありがとうな」
「うん、これからもよろしくね」
いつもと変わらぬ穏やかな笑みと共に、目の前に差し出された弥彦の手は、その心のようにとても温かいものだった。人の優しさが胸に染み込むと、なぜだか心に素直になれそうな気持ちになった。